2014年3月30日日曜日

ヨハネの福音書11章38節~57節 「ラザロの復活」

男性78歳、女性86歳。皆様ご存知の通り、日本は世界一の長寿国。日本の医療のあり方を参考にしたい、高齢者の生き方を学びたいと考える国も増えていると言われます。しかし、長寿も良いことばかりではないようです。長寿のゆえに、以前にはなかったような苦しみを味わう人も増えてきました。例えば、日本人の死因として最も多い癌。癌を治療するための抗がん剤による副作用で、耐え難い痛みを経験する人。薬漬け状態から抜け出せずに苦しむ人。
聖書は、私たちがこの世で与えられた体を「朽ちる体」と呼んでいます。健康のまま長寿ならよいのですが、朽ち果てるまで、様々な体の痛みに悩まされるという現実は昔も今も変わらないように思われます。
他方、聖書が教える霊的な死の問題、神様の愛に背を向けて生きる人間の問題も見過ごしにはできません。ある時、お見舞いに出かけた病院で、こんなことばを耳にしました。「母は、癌や成人病がないから、こんな寝たきりになっても死ねないんですよね」。
 皆様はどう思われるでしょうか。悲しいことばですが、しかし、私はこの娘さんを「酷いことを言うなあ」と責めてばかりもいられない気がします。現に、私たちは「寝たきりになってまで長生きしたくないなあ」等と思ったり、その様なことばを耳にすることがあるのではないでしょうか。
 また、家庭で介護される場合でも、家族だけで頑張ってしまうため、十分なことができない上、最後には皆疲れてしまい、ご本人も「私が生きていて申し訳ない」と言う気持ちに追い込まれ、とても生かされている喜びを味わうどころではない。そんな話も聞きます。
 体の機能が衰える、出来ない事が増えてくる。その上人に迷惑をかけているのではという不安。自分の存在価値、自分が生きている意味を感じられないままの長寿と言うのは、悲惨なことと思われます。
 この様な問題を抱える私たちにとって、今日の聖書、ヨハネの福音書第11章、ラザロ復活の場面は、光を当ててくれます。老いも若きもイエス・キリストを信じる者は、今この世において、人として本来生きるべきいのち、永遠のいのちに預かることができる。このことの恵みを皆で確かめたいと思うのです。
 さて、これまでの流れを振り返って見ましょう。舞台は、ユダヤの都エルサレムに近いベタニヤ村。この村に住むマルタ、マリヤ、ラザロの仲良し三人姉弟は、皆揃ってイエス様の弟子。彼らの家は、都で活動したイエス様の休息の場所として提供され、三人はイエス様と親しい関係にありました。
 しかし、ある時、年の若いラザロが重病を患い、床に伏してしまう。知らせを聞いたイエス様と弟子たちが村に到着した時には、すでにラザロが死んで四日経過していたと言うのです。

 11:3840「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

 先回読みました直前の場面。私たちは、マルタ、マリヤをはじめ親族、友人などが死んでしまったラザロを思い、涙に暮れている姿をご覧になり、霊の憤りを覚え、ご自身涙を流されたイエス様の姿を見ました。
 霊の憤りは、死と死の力を持って人間を苦しめるサタンに対する怒りを示すもの。頬を伝う涙は愛する者を失った人々の悲しみと心一つになり、思わず流されたものです。
ある人は、「イエス様は人になられた神の子。この後ラザロを墓の中からよみがえらせるつもりであったのに、何故怒ったり、泣いたりされたのか」と問います。
しかし、イエス様の心は石でも鉄でもなかった。あくまでも、切ったら血が流れる人間として、怒ったり、泣いたりしながら、父なる神に従うお方、正真正銘私たち人間の仲間となられた救い主だったのです。
そして、今日の箇所。イエス様は心新たに死の力を打ち破るべく、毅然として語られました。「石を取りのけなさい」と。当時の一般的な墓は、岩山に横穴をあけ中に遺体を置くと、入り口に石を置くという形でした。
そこで、まず「あなたたちの手で入り口の石を除けよ」と命じ、人々がご自分を信じるようにと求めたのが、このことばの真意と考えられます。しかし、これに対して「もう四日も経って、ラザロの遺体は臭くなっています」と異を唱えたのが、ラザロのお姉さんマルタです。「いくら、イエス様でももうどうにもできません」との思いが込められていました。イエス様を救い主と信じること熱心であったマルタにして、イエス様が死人をよみがえらせるなど、夢にも思っていなかったのです。
しかし、ご自分が永遠のいのちの主であることを何とか知って欲しいと願うイエス様の歩みを、誰も止めることはできませんでした。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」とのことばに心動かされ、恐る恐る石を取り除けた人々がいたのです。
そして、それに応えるように、イエス様はご自分の栄光を表されたのです。

11:4144「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」

イエス様が表した栄光の第一は、ご自分が、父なる神と心ひとつになって人間の救いのために働く救い主であることを、その祈りによって示したことです。先には愛する者の死を悲しむ人々と心を一つにし涙を流したイエス様が、今は、天の父と心を一つにして力強く働きたもう。まさに、イエス様は神にして人なるお方という気がします。
そして、栄光の第二は、死者をよみがえらせる権威をもうお方であることを示したことです。渾身の力を込めて「ラザロよ。出てきなさい」と命じると、長い布で巻かれたままでは、生活しにくかろうと案じて、人々に「ラザロの布をほどいてやりなさい」と配慮される。測り知れない権威と細やかな配慮をなさる優しさと。イエス様の二つの顔が伺われて、「ああ、こんなイエス様に一日も早くお会いしたい」、そう私たちに思わせてくれるお姿です。
さらに、栄光の第三。復活は、イエス様の命がけの愛によって信じる者にもたらされたということです。なぜなら、このラザロ復活の奇跡をきっかけに、イエス様を恐れ、妬むユダヤ教指導者が会議を開き、イエス様を殺すことを決議、その計画に取りかかりました。
弟子たちさえ、この様な事態になるのではと心配して、ベタニヤ行きに反対しましたから、まして、イエス様はベタニヤでラザロ復活のみわざを行なえば、都の宗教指導者の敵意が高まり、身に危険が迫ることはご存知の上だったでしょう。事実、この出来事の直後、指導者の動きが慌ただしくなります。

11:4548「そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』」

「百聞は一見に如かず」と言います。物事は百回聞くより、実際に一回見たほうがよく分かるという意味です。これまで、ユダヤの宗教指導者はイエス様に、「あなたが本当にキリスト、救い主ならしるしを見せよ」と迫ってきました。
しかし、イエス様の奇跡を見た人が証言しても、それを直接体験した人が証言しても、民衆の言うことなど信じられないと、彼らは頑なに拒んできたのです。そして、これ以上の奇跡があろうかというラザロ復活により、彼らの本音が暴露されました。
今まで、彼らはしるしを見たら信じる、信じられると言ってきましたが、それは真っ赤な嘘。イエス・キリストを信じられないではなく、信じたくなかったのです。いや、信じたくないどころか、彼らが願っていたのは我が身の保身。
一方で、民衆がイエス・キリストを信じて、自分たちが指導者の地位から落ちることを恐れ、他方、もしイエスがユダヤの王となったら、ローマ帝国から攻撃を受け、自分たちが敗れ去ることを恐れる。大切なのは自分たちの権利と立場のみという情けなさです。「右か左か。前に進むか後ろに退くか」。議会に召集された人々が喧々諤々議論する中、タイプの大祭司カヤパが発言すると、一挙に議会はまとまりました。

114953「しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」

「一人の人、つまりイエス様が民の代わりに国全体が滅びない方が得策ではないか」。何のことは無い、イエスが本当にキリストかどうかを考えるより、スケープゴートになって死んでもらい、自分たちの立場を守る方が得という意見で全会一致したようなのです。真理かどうかではなく、得か損かで物事を決める。これでユダヤの最高議会だと言うのですから情けないとしか言い様がありません。事実、得意顔で発言したカヤパの提案は、功を奏さず。やがて、ユダヤはローマ軍に壊滅させられるのです。
しかし、本人は知らなかったでしょうが、カヤパのことばは、やがてご自分を信じる者たちのために十字架に身代わりの死を遂げるイエス様のことを預言するものと、この福音書を書いたヨハネは説明しています。
こんな人間たちの高慢や悪意、ご自身に伸ばされる魔の手をよくよく知った上で、当の人間が死ぬべき者となった原因である罪を取り除くため十字架で身代わりの死をとげる。この尊い犠牲の道を自ら選び、真っ直ぐに進まれたのが救い主のイエス様だったのです。
自分を守るために、人を犠牲にする宗教指導者。人を死から救うために、自分を犠牲にするイエス・キリスト。まったく対照的な生き方が明らかにされた、ヨハネの福音書第11章でした。
さて、ラザロの復活を描いたこの章を読み終えて、最後に確認したいのは、これ程までに私たちを愛してくださったイエス・キリストが、今この世で信じる者すべてに与えてくださる永遠のいのちの特徴です。
この世において永遠のいのちを生きることは、聖書において様々に表現されていますが、今日お勧めしたいことの一つ目は、御霊の実を結ぶ歩みをすることです。

ガラテヤ52224「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」

キリストの愛に背を向け、永遠のいのちを受け取っていない時、私たちの心は御霊の実よりも自分の肉、つまり自己中心の性質から生まれる情欲や欲望が優勢な状態です。これは、今日の箇所で見た、自分を守るために人を退け、人を拒み、人を犠牲にする宗教指導者の様な生き方に表れてきます。
しかし、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちを受け取った私たちの心には、ラザロの遺体のように死んでいた神と隣人への愛、神の子として生かされていることの喜びや平安がよみがえってきます。人に寛容と親切を尽くす心、人の欠点よりも良い点を見ようとする善意、裏表のない誠実な態度、柔和な性質、神様の御心を行い、神様が悲しむことから離れる自制心が復活してきます。
完全に御霊の実で満たされるのは天国に行ってからですが、この地上にある間、自己中心の性質を捨て、御霊の実を結ぶ生き方を心から願い、実践し、御霊の実の方が優勢になる。この永遠のいのちを受け取っていることを、皆様は自覚しているでしょうか。
 二つ目は、イエス・キリストが再び来られる時、ラザロのように親しく名を呼ばれ栄光の体に復活させて頂けると確信して生きることです。今日の聖句です。

 Ⅰコリント1554「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着る時、「死は勝利にのまれた」と記されている、みことばが実現します。」


 いたずきの麻痺は頭に及びきて わが髪は赤くなりて抜けゆく。形なく身は崩れつつ生きゆけば 老父を思いキリストを思う。18歳で発病。生涯ハンセン病に苦しんだ女性の悲しい歌です。病気で苦しむ方々の、新しい生命、新しい体への希望は切実です。体を損なった兄弟姉妹は、五体満足の健康な体で復活することに、ひときわ希望を抱いておられます。そして、キリストを信じる私たちは今その日を確信できるのです。死んだら一巻の終わりではなく、死後どうなるのか分からないでもない。死んで後さらにすばらしい生命に生きるという信仰がある。これもまた永遠のいのちの特徴であることを覚えたいのです。

2014年3月23日日曜日

第二歴代誌29章1節ー11節 「一書説教 第二歴代誌 ~主の目の前で~」

皆様は他の人からの評価が気になるでしょうか。あまり気にならないでしょうか。大なり小なり私たちは他の人の目を意識しながら生きています。親から、兄弟から、友人から、教師から。恋人から、夫、妻から、子どもから。上司から、同僚から、部下から。周りにいる人の評価によって喜ぶ、落胆することを繰り返しながら生きています。もう一度聞きます。皆様は他の人の評価を気にするでしょうか。あまりに気にならないでしょうか。
他の人の評価を気にし過ぎるのは良くないこと。自分らしさが失われ、周りの人の目がストレスとなります。しかし、他の人の評価を気にし過ぎないのも問題となる。自分がおかしい時、間違っている時に、正されない生き方となる。他の人の評価、他の人の目を適度に意識し、適度に意識しない。そのように生きていきたいと思うのですが、なかなか難しい。多くの場合、私たちは他の人の目を過度に意識するか、過度に意識しないか、偏って生きることになります。
 それはそれとして、もう一つお聞きします。皆様は神様からの評価、神様の目は意識しているでしょうか。今の自分の状態、自分のしていることを、神様はどのように思われているのか。どこにあっても、神様の前で生きている者であるという意識があるでしょうか。
 聖書の教える罪の本質は、この世界を造り支配されている方を無視して生きること。キリストを信じる私たちは罪から解放されて、神様とともに生きる者。それはつまり、クリスチャンは、どこにあっても、神様の前で生きる者と言うことも出来ます。今一度、神様の目を意識して生きることを決心したいと思います。

私の説教の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。今日は十四回目。旧約聖書、第十四の巻、第二歴代誌を扱うことになります。第二歴代誌を読む時に、神様の目を意識して生きることがどれ程大切なことなのか、確認しながら読むことが出来るようにと願っています。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 さて、一書説教ですがクリスマス、年末年始、ウェルカム礼拝とありましたので、四ヶ月ぶりとなりました。しばらく間があいてしまいましたので、第二歴代誌までの流れを確認しておきたいと思います。
 神を無視して生きる人間が増え広がる世界にあって、「神の民」にあるべき人間の姿、神様を信じ、従う生き方を示す使命が与えられていました。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫、イスラエル民族。神様はアブラハムに、子孫が増え広がること、その子孫にカナンの地(現在のパレスチナ地方)を与えると約束されていました。
 その約束通り、イスラエル民族は増え広がり、カナンの地に定住するようになる。やがて、王が立てられ、国として整います。初代王はサウル。ダビデ、ソロモンと続き、ソロモンの時代に大繁栄しますが、ソロモンの子どもの時代にイスラエル王国が南北に分裂しました。その後、北イスラエルはアッシリアに敗北、南ユダはバビロンに敗北。
アッシリアに負けた北イスラエルは、民族としてのアイデンティティを失い消滅します。残念無念。片や南ユダの住民は、バビロンに奴隷として連れて行かれるも、アイデンティティは失われることなく、やがて約束の地カナンに戻ることになる。バビロン捕囚から帰還します。
 「神の民」として歩んできたイスラエル王国。その王国が二つに分かれ、一つの王国は失われてしまった。残った南ユダの民にしても、しばらくの間、バビロンで奴隷として生きてきた後、今一度、約束の地カナンに戻ってきた。ここでもう一度、国を建て上げなければならないという状況で記されたのが、この歴代誌です。
 大きな悲劇を味わい、国の再建を目指す時に記された。何が記されたのかと言えば、これまでの歴史が記されます。国の再建に必要なことは、神様がどのようなお方で、その神様に自分たちはどのように導かれてきたのかを確認すること。バビロン捕囚という悲劇の原因を、神様との関係に見出そうとしたわけです。
 バビロンから帰って来た民が、歴代誌を読む時、どのような思いになったのか。何を考え、何を感じたのか。想像しながら読みたいと思います。

 ところで、イスラエルの歴史は、既にサムエル記、列王記に記されていました。(第二歴代誌に記された時代は、列王記に記された時代と重なります。)今一度、歴史を記すとしたら、それまでに記された内容と視点を変えて記すはず。列王記と第二歴代誌には、どのような違いがあるでしょうか。色々とその違いを挙げることが出来ますが、大きな違いは三つ。
一つは、列王記は南北両方の国に焦点を当てて記されましたが、第二歴代誌では南の国、南ユダに焦点が当てられています。歴代誌の最初の読者が、南ユダの残りの人たちだからです。
 もう一つの特徴は、列王記ではそれぞれの王とともに、預言者の活躍にも焦点が当てられていました。エリヤ、エリシャという著名な預言者の活躍を見ることが出来るのは列王記。それに対して、歴代誌は預言者の記述は少なく、王に焦点が当てられます。
 さらにもう一つの特徴は、列王記では出来事だけ記されていたところに、歴代誌ではその出来事の意味が記されているというもの。(列王記にも出来事の意味が記されていますので、全ての箇所に当てはまる特徴ではなく、全体として見た時に歴代誌にはこのような特徴があるという意味です。) 
 例えば、ヤロブアムという王が死んだことを列王記では
第一列王記14章20節
「ヤロブアムが王であった期間は二十二年であった。彼は先祖たちとともに眠り、その子ナダブが代わって王となった。」

 と記されていましたが、歴代誌では
 第二歴代誌13章20節
「こうして、ヤロブアムはアビヤの時代には、もはや力をとどめておくことができなかった。主が彼を打たれたので、彼は死んだ。」

 として、ヤロブアム王の死という出来事は、神様の裁きの意味があることが語られています。このように第二歴代誌の三つ目の特徴は、出来事の意味も記されるということ。
 大きな特徴として三つのことを頭におきながら、読み進めたいと思います。

 さて、その内容ですが、歴代の王の歩みが記されることになります。順に名前を挙げると、ソロモン、レハブアム、アビヤ、アサ、ヨシャパテ、ヨラム、アハズヤ、アタルヤ、ヨアシュ、アマツヤ、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤ。ヨシヤ以降の王は、バビロンの攻勢に会い、短い期間の王であった者たち。エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤです。耳慣れない名前で覚えるのが難しいですが、名前だけでどのような王か思い出すことが出来るようになれば、歴代誌、列王記は非常に読みやすくる。善悪除いて、有名な王を取り上げると、ソロモン、アサ、ヨシャパテ、アタルヤ、ヒゼキヤ、マナセ、ヨシヤあたりでしょうか。これらの人たちは、どのような王だったか覚えておきたいところです。
 各王、均等に記されているかと言えばそうではなく、多くの記事が割かれた王もいれば、極短い記述の王もいます。特に最初のソロモン王については多く記され、主に神殿建立の働きに焦点が当てられています。第一歴代誌でも、神殿に注目する記事が多く、第二歴代誌の前半、ソロモンでも同様と感じられるのです。
今回読みまして、私が特に印象に残ったのは、神殿奉献の際のソロモンの祈り。様々な状況を想定して、そのような状況になっても、この神殿にむけて祈られる祈りを聞いて下さいとの文脈で、次のような祈りがささげられていました。

 第二歴代誌6章36節~39節
「彼らがあなたに対して罪を犯したため――罪を犯さない人間はひとりもいないのですから――あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地、あるいは近くの地に、捕虜として捕われていった場合、彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、その捕囚の地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と言って、捕われていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。」

 歴代誌を読む最初の読者は、まさに、ここでソロモンが想定していた状況に陥り、しかし悔い改めて約束の地へ戻ってきた者たち。この読者からして、ソロモンは四百年以上前の人物となりますが、そのソロモンの祈りの結果として、今の自分たちがいると知った時に、どのような思いになったのか。
 私が神学生の時代、小畑進先生の授業で聞いた一つのエピソードがありました。それは先生が最初に赴任した教会で必死に祈ったことの一つが、立派な長老が与えられるようにということ。長老教会にとって、長老が与えられることが非常に重要であり、それを必死に祈ったという話。それを聞いて、私も神学校を卒業し、教会に赴任した際には、長老が与えられるように祈ると決心したのですが、卒業後、小畑先生が祈っていた四日市キリスト教会に来ることになったのです。そして分かったのは、約六十年前に祈られた小畑先生の祈りが、今このように結実しているということ。神学校の時に聞いていた祈りの話の結果を、目撃し体験することが出来ることに、大いに感激し、感謝しました。
 歴代誌の最初の読者も、同様の感激、感謝だったと想像します。あの大王ソロモンの祈り。四百年以上前の祈りの結果を、目撃し体験することが出来る恵みを頂いた。そのことに気付くようにということが、歴代誌の記された目的の一つです。
 このようなことを考えますと、私たちの祈りも、もっと大胆なもので良いかもしれません。祈りの結果を自分が見ることがない。それでも何十年、何百年先の四日市キリスト教会のため、日本のため、世界のために祈れるということが、私たちの特権であり、使命と言えます。

 ソロモン王以降の王は、玉石混淆と言って良いでしょうか、様々な王が出てきます。王のなしたこと、その活躍や失敗が記録されますが、歴代誌の著者の主な関心は、その王が「主の目の前で」どのような存在であったのかということ。第二歴代誌を読むと、何度も「主の目にかなうことを行った。」あるいは「主の目の前に悪を行った」と目にすることになります。
 主の目の前でどのような存在であったのか。具体的に、どのような場面で、このことが問われたのか。何をもって良い、悪いと評されるのか。第二歴代誌を読みますと、大きく二つの場面を挙げることが出来ます。

 一つは誰を礼拝するのかということ。「主の目にかなうことを行った」と評される王。善王として覚えられるアサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤ、ヨシヤは、他国から持ち込まれた偶像を取り除き、主なる神様に礼拝をささげることに取り組んだ王たち。
何十年と王の働きをする。そこには様々な政策を打ち出し、問題を乗り越えた歩みがあったと思います。しかし、歴代誌の著者は、何にもまして、偶像を取り除き、主なる神様を礼拝したことに目を向け評価しています。片や、悪王とされる者たちは、他国の偶像をとりいれたこと、主なる神様以外のものを礼拝したことで、悪と評価される。
 神様が私たち人間を評価する重要な項目は、誰を礼拝するのか。誰を第一とするのか、なのです。

もう一つ。主の目の前でどのような存在なのか問われる重要な要素は、誰を信頼するのかということ。ソロモン王以降、国力が衰退し、近隣諸国と絶えず緊張関係にあり、戦争を繰り返す歴史となります。他国との戦争状態、危機的状況にある時に、神様を信頼するのか。それとも、神様以外のものを頼りにするのか。
列王記では、不信仰の悪王として小さな記事でしか残らなかったソロモンの孫、アビヤ王ですが、神様を信頼して戦に勝ったことが歴代誌では大きく取り上げられています(13章)。ヨシャパテが神様を信頼して、聖歌隊を全面に出して戦いに勝利した記録(20章)。北イスラエルを滅ぼしたアッシリアと対峙した際の、ヒゼキヤの信仰の姿(32章)など、神様を信頼する見事な証が印象的に記録されています。片や、善王アサが、危機的状況の際に近隣アラムを頼り、同盟を結ぶと、それは非常に悪いこととして糾弾されるのです(16章)。
 主の目の前で生きる。神様に良いとされる生き方は、神様以上に信頼するものをもたないようにと教えられます。果たして私は何を頼りに生きているのか、神様を信頼して生きているのか、再確認する必要があります。
 私たちが、他の人から評価されるのは、多くの場合、学歴、社会的立場、能力、外見、収入、成し遂げた事柄など。しかし、神様が私たちを評価するのは、誰を礼拝するのか、誰を信頼するのか。他の人の目、世間の目を意識して生きるのか。神様の目を意識して生きるのかで、私たちの生き方は大きく変わります。

 それはそれとしまして、南ユダの歴史は主なる神様以外のものを神とし、信頼することを繰り返す。悪を重ねる歴史を送り、ついには裁きとしてのバビロン捕囚。しかし、完全に滅びるのではなく、そこから帰還したという記述をもって歴代誌は閉じられることになります。
 Ⅱ歴代誌36章20節~21節
「彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」

 バビロン捕囚からの解放に、ペルシャ王国が関わっていたこと。それはエレミヤの預言の成就であることが記されていますが、このことは次回以降詳しく扱うことになります。

 以上、大雑把にですが第二歴代誌を確認してきました。バビロン捕囚から帰還したユダの人々。国を再建する際に、記された歴史書。当時の人々の気持ちになって、読み進めたいと思います。そして、私たちが主の目の前で生きていること。主の目にかなう生き方をすることが、神の民として非常に重要であることを再確認したいと思います。
 最後に、歴代誌の著者が、読者に対して強いメッセージを込めて記録したヒゼキヤの言葉。最初の読者の胸にささったであろう言葉を確認して終わりにしたいと思います。

 第二歴代誌29章4節~11節
「さらに、彼は祭司とレビ人を連れて来て、東側の広場に集め、彼らに言った。『レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あなたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを出してしまいなさい。というのも、私たちの父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、主の目の前に悪を行ない、この方を捨て去って、その顔を主の御住まいからそむけ、背を向けたからです。また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかったのです。そこで、主の怒りがユダとエルサレムの上に下り、あなたがたが自分の目で見るとおり、主は彼らを人々のおののき、恐怖、あざけりとされました。見なさい。私たちの父たちは剣に倒れ、そのため、私たちの息子たち、娘たち、妻たちは、とりこになっています。今、私の願いは、イスラエルの神、主と契約を結ぶことです。そうすれば、主の燃える怒りが私たちから離れるでしょう。子たちよ。今は、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立たせ、ご自分に仕えさせ、ご自分のために、仕える者、香をたく者とされたからです。』」

 神の民がひどい状態になる。その原因は、自分たちの不信にある。だから手をこまねいていないで、神様に立ち返りなさいとの勧め。これがヒゼキヤの声でした。ヒゼキヤの時代に、自分たちの悲惨な状態の原因は、神様に従わないこと。そこから立ち返るようにと言われているのに、この後、バビロン捕囚が起きたのです。
 実に残念と思いますが、その不真実が人間の歩み、それも神の民の歩みでした。歴代誌の最初の読者、バビロンから帰還した者たちは、このヒゼキヤの言葉を読み、今度こそは、と思ったでしょうか。

 そして、私たちはどのようにこの言葉を受けとめるでしょうか。自分の人生で最も大事なことは、神様のみを礼拝し、神様を信頼して生きること。主の目の前で生きていることを忘れないこと。自分の心にある罪を取り除き、真に神様を礼拝する歩みを皆で送りたいと思います。

2014年3月16日日曜日

ヨハネの福音書11章17節ー37節 「わたしを信じる者は死んでも生きる」

 昨日のニュースで知りましたが、桜前線は3月20日四国高知県に上陸し、一週間後には我が三重県にもやって来るそうです。桜前線と聞くと気持ちがわくわくする。日本人は本当に桜が好きなのだなあとも感じます。これは昔からそうだった様で、和歌に詠まれる花の中でも桜は最も多く、花と言えば桜と言われたほどです。
しかし、昔は咲き誇る桜よりも、散りゆく桜を詠むことが好まれたようで、例えば「ひさかたの 光のどけき春のひに しづ心なく 花のちるらん」と古今和歌集にあります。光のどかな春の日に、どうして先を急ぐように桜の花は散ってしまうのか。桜の花は命が短い。咲いたかと思うとすぐに散る。そんな桜の花と、私たち人間の命の儚さを重ね合わせた歌です。
ここには、花が散るのが自然であるように、人間の命もまた自然に散る。どちらも自然の摂理として受け入れるしかないという仏教の考え方があると言われます。命はいつか終わるものと諦め、死を受け入れる態度。これが悟りとされます。
人間が死についてどう考え、対応してきたか。命は限りあるものと諦め、死を受け入れる。ひとつには、この様な態度があるかと思います。
他方、死をひたすら恐れる人々もいました。ローマ人は青ざめて、痩せこけた顔の黒い翼を持つ死神を思い、北欧の神話に登場する死神は大きな鎌を手にした骸骨です。旧約聖書でも死が擬人化され、当時の人々から「恐怖の王」と呼ばれていたことが紹介されています。
普段は死を他人事のように思い込んでノンビリしている者も、これが自分のこととなると途端に怖くなる。そんな人間の様子を、「今までは人のことだと思ったのに、俺が死ぬとはこいつぁたまらぬ」と江戸時代の人が歌っていますが、昔も今も人間は変わらないと思わされます。
さらに、死を一巻の終わりと考え、人生に絶望した人間はどうなるのか。もし、本当に死者の復活がないのならと前置きして語られたのが、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という使徒パウロのことばです。何の希望もないその日暮し。人生に意味がないのなら、快楽だけでも思う存分味わってから死にたい。刹那主義、快楽主義でした。
命は限りあるものと諦め、死を受け入れるか。ひたすら死を恐れるか。死に絶望し快楽主義に溺れるか。いずれにしても、死は人間の目の前に立ちはだかる壁のよう。どんな方法、考え方、態度で臨もうとも、誰もが皆屈することしかできない障害物だったのです。
しかし、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」、イエス・キリストが発した一言は、この様な私たちの生命観、死生観を180度変えるものとなります。死について、いのちについて、私たちが生まれたこの方耳にしてきた様々な考え方や態度をひっくり返す力に満ちていました。
今日は、このことばを中心に、ヨハネの福音書第11章、ラザロの復活と呼ばれる箇所を読み進めてゆきたいと思います。
先ず先回の流れを振り返ります。ユダヤの都エルサレムに近いベタニヤ村に住むマルタ、マリヤ、ラザロの三人姉弟は揃ってイエス様を救い主と信じる、熱心なお弟子さん。活動的なマルタ、物静かなマリヤ、人々に愛された若者ラザロ。仲の良い三人の家は都に近いこともあり、都で活動されたイエス様の休憩場所として用いられ、他の弟子たちも含め、みなが親しい間柄にあったと思われます。
しかし、悲しいことにラザロが重病を患い床に伏した。それで、二人の姉妹は使いを送り、「あなたの愛する者が病気です」と伝えると、二日間を置いてイエス様は出発。ようやくベタニヤ村に到着したというのが今日の場面です。

11:17~19「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。」

この頃、ユダヤの人々では、死者の魂は三日の間遺体のそばにいて、生き返る可能性があると考えられていました。しかし、マルタ、マリヤが使いを出した日には既に亡くなっていたラザロの遺体は死後四日が経過。もはや生き返る可能性はゼロと、人々からは受けとめられていたからでしょうか。ラザロを愛した親戚や友人が弔問のため集まっていました。
すると、誰が知らせたのか。イエス様が来られたことを知ったマルタはただちに迎えに行き、弟の死を嘆いたのです。

11:20,21「マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。』」

迎えにゆくマルタ。家で座り続けるマリヤ。こんな時も姉妹二人の性格の違いが現れていました。しかし、愛する家族の死を悲しむ気持ちと、イエス様に対する信仰において二人はまったく同じだったのです。
主よ。残念なことにあなたはおられませんでしたが、もしここにいてくださったら、私の兄弟は癒され、死ぬことはなかったにちがいありません。何故なら、あなたが父なる神に求めることは、何でも与えられるからです。悲しみと失望のなか、精一杯で、健気なマルタの信仰と見えます。
それを聞いたイエス様。ご自分が永遠の命の主であることを教えるためこう告げたのです。

11:23~27「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」

「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われたイエス様に対し、ユダヤ人が一般的に信じていた遠い終わりの日の復活なら自分も信じていると答えたマルタ。彼女には目の前にいるイエス様がどのようなお方であるか、まだ分かっていなかったのです。
そこで、もう一度念押しをするように、イエス様が語られたのが今日の中心となることば。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」でした。
恐らく親戚や友人から「ラザロはきっと終わりの日によみがえりますよ」と、マルタは慰めのことばをかけられてきた。当時人々はそう言って互いに慰め会ってきたのです。ですから、イエス様が「あなたの兄弟はよみがえります」と言われた時も、同じ慰めのことばをかけられたと彼女は思ったのです。
その誤解を解くため、「終わりの日のよみがえりのことではない。わたしはわたしを信じるすべての人に永遠のいのちの与える主。わたしを信ますか」。そうイエス様は問いかけられたのです。
「たとえイエス様でも、死んで四日も経ったラザロをどうすることもできない。」そう考えたマルタの希望はイエス様を離れました。そして、その頃の一般的に考えられていた終わりの日に起こる死者の復活に希望を持とうとしていたのです。
日本人にも死んだら天国に行く、極楽に行くと信じている人は大勢います。「あなたの愛する家族が天国で待っていますよ」と慰める人もいます。死後のいのちについて漠然とした望みを抱く人々。同じ状況が昔のユダヤにも、今の日本にもあるという事です。
それに対して、「わたしを信じる者が死んでも生きる。永遠のいのちをもつ。遠い未来に漠然とした希望的観測を見るのではなく、わたしが誰かを知り、わたしを信ぜよ。」これが、イエス様のメッセージでした。
しかし、イエス様が永遠のいのちの主であると、マルタや弟子たちが確信するに至るのは、この後の十字架の死と復活を待つことになります。けれども、それまでの間も、教えるべきことを教え、為すべきことを為す。人々がご自分を信じて永遠の命に生きるため、全力で仕えるのがイエス様でした。
さて、身の危険を覚悟の上で足を運んでくれたイエス様を嬉しく思ったマルタは、妹のマリヤに声をかけます。

11:28~32「こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、『先生が見えています。あなたを呼んでおられます。』とそっと言った。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」

マリヤが口にした「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とのことばは、マルタとまったく同じ。マリヤは、いかにイエス様が神の子キリストであろうとも、死後四日も経ったラザロをどうすることもできまいと諦め、親戚や友人とともに涙に暮れていたのです。
それをご覧になったイエス様は激しい怒りと身震いを覚え、それととも悲しみの涙を流されたと言うのです。聖書中ここにしか見られないイエス様のお姿でした。

11:33~37「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。『ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。』しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。」

「霊の憤り」は、死をもって人間を恐れさせ、悩ませ、悲しみのどん底に落とすサタンに対する激しい怒りを、「心の動揺」とは、その激しい怒りから生まれる身震いを指すと考えられます。それと、墓に横たわるラザロの遺体を見たイエス様の顔を伝わる涙は、愛する者が死んだ時私たちの心に溢れる悲しみを、イエス様もともに同じくしておられることを伝えています。
私たち人間のため、死の力を持つサタンに激しい怒りを向ける神。私たちと同じ悲しみの感情を深くももつ人間。イエス様の二つの顔が同時に現れた瞬間でした。忘れがたいイエス様のお姿でした。
そして、その様なイエス様のお姿にラザロに対する愛を感じ、心動かされた人々がいたかと思えば、他方、来るタイミングが遅かったと、不平を漏らす人々漏らす人々もいたというのは残念なことでした。しかし、扱うのは次回となりますが、墓の中からラザロをよみがえらせるという奇跡は、イエス様がこの様に不信仰な人々をも愛して行ったものであることを覚えておきたいと思います。
さて、こうして読み終えたヨハネの福音書第11章の中盤。私たちがもう一度確認したいことが二つあります。
ひとつは、ラザロとその死を悲しむ人々に対するのと同じイエス・キリストの愛が、私たちに向けられていることです。
親しい者の死に落胆し、悲しみ、心悩ませる時、そんな私たちのため、死の力をもつサタンに激しい怒りを向け、これを滅ぼすため雄雄しく十字架の死に進まれたイエス様の愛を思いたいのです。ひとり病に苦しむ時、死の影を恐れる時、そんな私たちのために涙を流し、近づいてきてくださるイエス様の愛を心いっぱい受け取る者でありたいと思います。
ふたつめは、ユダヤ人たちがもっていた将来の漠然とした復活信仰でも、今人々が持つさらに漠然とした天国信仰でもなく、イエス・キリストを信じる者は既にこの世において永遠の命をもつとのみことばに立って人生を考え、行動することです。

ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命をもつためである。」

イエス・キリストを信じる者が与えられる永遠のいのちには、三つの特徴があります。第一は、自分のすべての罪が赦されていると安心できるいのちです。神様はイエス・キリストを信じる者を、罪を一つも犯さなかった者として扱ってくださるので、私たちは永遠に神様のさばきを恐れない平安ないのちを生きることができます。
第二は、神様と父と子としての親しい交わりに憩ういのち、イエス・キリストを友とする親しい交わりに生きるいのちです。第三は、神様の愛に心動かされて、イエス・キリストが地上を歩んだように、自分も生きたいと願ういのちです。
そして、永遠のいのちを受け取っていることを確信する時、死はあきらめなければならない出来事ではなく、神様により近づける幸いな出来事へと変わります。死は恐ろしい時ではなく、さらに祝福された永遠の命へのスタートと変わります。そして、死は一巻の終わりではなく、私たちの地上の歩みが本当に無駄ではなかった、大切な意味があったことを喜べる、その様な世界への門出へと変わるのです。
私たちがみなが永遠の命を持つ者として教会で、社会で、家庭で歩んでゆきたいと思います。

2014年3月9日日曜日

ヨハネの福音書11章1節ー16節 「わたしたちの友ラザロ」

 よく「死は一巻の終わり」と言います。「死んだら元も子もない」とも言われます。死は恐ろしいと感じる人々に対し、ギリシャの快楽主義の哲学者はこう言ったそうです。「死は最も恐ろしいものとされているが、実はなんでもないものである。何故かと言えば、私たちが生きている限り、死は存在しないし、死が存在する時は私たちが生きてはいないからだ。そこで、死は生きている者にも、既に死んだ者にもかかわりがない。」
 インドの昔のお坊さんで、命はすべて物質からできていると考えた人は「人間は死とともに無となるのであって、体のほかに死後も存在する霊魂はありえない。人々は火葬場に行くまでは悲しみ、嘆くけれども、遺体が焼かれると後には骨と灰が残るのみ。賢い者もそうでない者も体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。従って、来世もなく、善い行いあるいは悪い行いをなしたからと言って、その報いを受けることもない。供え物も葬儀も無意味なものである。」
 確かにこのような考え方に立てば、死は一巻の終わり、命の消滅、存在が無になることと言えます。しかし、これは余りにも理屈っぽいと言いましょうか、命や死に対する私たちの実際の思いを切り捨てすぎではないかと感じます。
 もし、命が本当に死によって無になるのなら、何故人間は昔から死後の命についてあれこれと考えてきたのでしょうか。何故、愛する家族の死を悲しんだり、自分の死を恐れる感情が生まれてくるのでしょうか。何故、可能な限り寿命を延ばそうとし、死を避けようとしてきたのでしょうか。
 聖書は人間の命には三つの面があることを教えていました。ひとつは肉体的な命です。世間一般にはこれが命と呼ばれるものです。
もう一つは霊的な命で、人間は人間を創造した神様に向けて造られたので、神様との愛の交わりのなかに生きる命を与えられました。神様の愛に心動かされ考え、働き、様々な活動をする。これが霊的な命、本来の人間の命です。
 しかし、神様に背を向けた人間は霊的な命を失い、神様の罰として肉体の死がもたらされ、死ぬべき者となってしまったのです。
 しかし、罪人を愛する神様はイエス・キリストをこの世に遣わしました。そして、イエス・キリストを信じる者には霊的な命が与えられます。これは、死後も永遠に神様の愛の中に生きることが保証された命ですので、永遠の命とも言われます。
他方霊的な命を失ったままの者は、死後神様の聖なる怒りのもと生き続けなければならないと教えています。これが永遠の死と呼ばれ、古今東西人間が恐れ続けてきた「死の恐怖」の正体はこの永遠の死とも教えられます。
 今日取り上げたヨハネの福音書第11章は、所謂ラザロの復活と呼ばれ、死と命がテーマです。ですから、その背景となる聖書の考え方を最初にざっとご紹介させていただきました。これらのことを皆様の心の片隅に留めて頂き、ともに読み進めてゆきたいと思います。
 今日の舞台はユダヤの都エルサレムの近くにあるベタニヤ村。登場人物はマルタ、マリヤ、ラザロの仲良し三人姉弟。しかし、一番年下の弟ラザロが重病を患い床に伏していたため、皆が悲しみ、心を痛めていたというのです。

 11:1~3「さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」

 三人は揃ってイエス様の弟子。しかも、熱心な弟子であったらしく、主イエスの体に高価な香油を塗り、足を髪の毛で拭ったというマリヤの献身的な姿を描くエピソードが添えられています。また、ベタニヤ村が都に近いこともあり、イエス様がしばしば三人兄弟の家を食事や休息のために用いた様子が他の福音書に記されていますが、こうした際はお姉さんのマルタが大活躍。忙しく立ち働いたようです。
 このような交わりの中、イエス様と彼らの間に自然と親愛の情が生まれました。そして、ラザロ最早起き上がれずという事態になったからでしょうか。二人の姉は使いを遣わし、「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と伝えたのです。
 この時、マルタとマリヤが「主よ。あなたが愛しておられる者を癒すため、すぐに来てください」と願わず、「あなたが愛しておられる者が病気です」と事実のみ伝えたのは何故だったのでしょうか。
 この状況を伝えさえすれば、イエス様なら自分たちの思いもよく汲み取った上で、ラザロのために最善のことをしてくださる。彼女たちがそう心から信頼していたからと考えられます。表現は控えめでも、厚い信頼のこめられたことば。この様なお祈りもまた良しと感じられます。
 そして、マルタとマリヤの思いはイエス様の心に確実に届きました。

11:4~6「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではな。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた、そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」。これはこの後、ベタニヤ村でラザロを復活させ、イエス様が永遠の命の主であることを示す奇跡を、さらには信じる者すべてに永遠の命を与えるため、人類の罪を背負って十字架に死ぬことを預言するものでした。
ラザロ復活は、ヨハネの福音書に記された七つの奇跡中最後にして最大の奇跡。イエス様は神の子としての栄光を最も鮮やかに示すわざを、愛するラザロを用いて行うと言われたのです。これによって、ラザロの名もまた聖書を読む者の心に残ることとなりました。
しかし、不思議なのはイエス様の行動です。ラザロ重病の知らせを耳にしながら、なお二日ヨルダン川東の地にとどまったというのです。この地からベタニヤまでは徒歩で一日。ならば少しでも急げば良いと思われるのに、何故二日とどまったのか。
これは、当時ユダヤの社会において、死者の魂は三日間元に体に戻ろうとするという考え方が一般的にあったためと思われます。つまり、イエス様は三日の間をおき、死後四日経ってベタニヤ村に入り、完全にラザロは死んだと人々が考える状況のなかで、復活の奇跡を行なうお積りだったということです。イエス様の願いは、ただひとえに人々が真の救い主としてイエス様を信じ、永遠の命に生きることでした。
二日後。イエス様は満を持してユダヤへ出発しようと弟子たちに声をかけます。

11:7~10「その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。
弟子たちはイエスに言った。『先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。』」

 弟子たちが反対した気持ちは理解できます。ユダヤは都エルサレムがある地方。イエス様を石打で殺そうとした人々の勢力が盛んな場所です。そんなところに行ったら、飛んで火にいる夏の虫。そんな行動弟子たちには到底賛成できませんでした。
 そこで、弟子たちの心配を鎮めるため、イエス様は「太陽の光ある昼間歩けばつまづくことはないが、光なき夜歩けばつまづく」という当時の格言、ことわざを引かれたのです。「心配しなくても良い。昼間の12時間、つまり父なる神の使命を果たす間は、誰もわたしのすることを邪魔できないから」とのメッセージでした。
 さらに、わたしたちの大切な友とラザロを呼び、親愛の情を示されたイエス様は、ラザロを眠りから覚ましに行きたいと弟子たちを励ますのです。

 11:11~15「イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
  そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』」
 
初代キリスト教会では兄弟姉妹の死を眠りと言う習慣がありました。死を婉曲に伝えると同時に、眠りから目覚めることを将来の復活になぞらえてのことでした。その源はこのことばにあったのかもしれません。
 しかし、この時弟子たちはイエス様の意図を取り違え、文字通りラザロは眠っているのだとしたら、私たちが行かなくても助かるでしょうと答えたのです。そこで、「ラザロは死んだのです」と念を押したイエス様は、「わたしが危険を承知でベタニヤ村に行くのは、あなたがたの信仰のためなのです」として、またも心鈍い弟子たちへの配慮をお示しになりました。けれども、そんなイエス様のご配慮にもかかわらず、自暴自棄とも思えることばを吐いた弟子がいたのです。

 11:16「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』」

 トマスは物事を否定的に受け取るタイプの人だったようです。ここでは、心配をよそにユダヤに向かうイエス様にあきれ、「そんなに言うんなら仕方がない。俺たちも一緒に行って死に花を咲かそう」と口にしました。やがて後にイエス様が復活した際、その場に居合わせなかったトマスは、「私はイエス様の体の傷をこの目で見るまでは信じられない」と他の弟子たちの証言を否定。その喜びに水をさすことになります。
 しかし、伝承によれば、そんな否定的、消極的なトマスが何と東方のインドまで宣教に出かけたと言うのですから驚きます。
他の弟子たちも含めて、やがて復活の主イエス様に出会った人々は身の危険も顧みず、宣教に励むことになります。そんな弟子たちは、この時自分たちの反対にもかかわらず、ベタニヤ村でイエス様が示した永遠の命の主としての栄光をしっかり心に刻んでいたと思われます。死後の復活と永遠の命を確信した弟子たちの力強い生き方は、この様なイエス様のご熱心によって生まれたものだからです。
さて、こうして読み終えたラザロの復活を記す第11章の導入の場面。私たちが心に刻みたいのは、ラザロを死から復活させるため身の危険も顧みずベタニヤ村に向かったイエス様のお姿です。
「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」とヨハネは語り、「わたしたちの友ラザロ」とイエス様は呼び、「さあ、彼のところに行きましょう」と弟子たちに告げました。
場所は離れていても、イエス様がラザロのことをいかに心にかけておられたか、どれほど病に苦しむラザロを思っておられたか、死んだラザロを復活させるため如何なる犠牲も払う覚悟であられたのか。その尊く、熱い愛の心が伝わってくる気がします。
そして、私たちもまたラザロと等しくイエス様の心にかけて頂き、ラザロと等しく思って頂き、ラザロと等しく愛されていることを確信したいのです。また、病に苦しむ時、死の床に伏す時、「さあ、行こう」と、私たちに近づいてきてくださるイエス様を思いたいのです。
「イエスはラザロを愛しておられた」、「わたしの大切な友ラザロ」「さあ、ラザロのところに行きましょう」。ラザロとあるところに自分の名を入れ、イエス様の愛、イエス様のご臨在を日々覚えながら、歩む者でありたいと思います。

Ⅰヨハネ 4:9「 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」

2014年3月2日日曜日

ヨハネの福音書10章22節ー42節 「羊はわたしの声を聞き分け」

 指揮者は一度に様々な楽器が演奏されるシンフォニーを指揮しながら、一人の演奏者の音の狂い、違いを耳で聞いて判断できるそうです。また、打音検査士と呼ばれる職業があり、この人々は缶詰を叩いた音を聞いて、中身が何か、その量や、腐っているかどうかまで分かるのだそうです。
 これら音を聞き分ける聴覚の達人は左脳の聴覚野が発達し、脳の溝が深く、脳細胞が密集しているとのことで、音楽家のバッハなどは頭蓋骨が変形するほど聴覚野が発達していたと言われます。
 この様に音を聞き分ける脳は訓練で発達させることが可能で、例えば、目隠しをして机の上に1円、5円、10円、50円、100円、500円玉を落とし、音の違いを聞き分け、当てるという方法があります。私もやってみました。500円玉、1円玉は案外簡単ですが、10円、50円、100円の落ちる音は結構難しいものです。
 また、私たちの耳は意識せずして心地よい音と不快な音、雑音を区別していますが、これは聞きなれているかいないかに、大きく左右されるとされます。いつも聞き慣れている音は心地よいのでよく聞こうとし、聴きなれていない音は不快に感じ、耳を閉じてしまうということです。
 今日のヨハネの福音書第10章は、イエス・キリストが牧者、羊飼いに、キリストを信じる者が羊に譬えられている箇所でした。自ら身を守るものを持たない羊にとって自分の羊飼いの声を聞き分けられるかどうかは生きるか死ぬかの生命線。それと同じく、私たちもイエス・キリストのみ声を聞き分けられるかどうかが、霊的に生きるか死ぬかの生命線と教えられるところです。
 さて、ヨハネの福音書後半の舞台はユダヤの都エルサレム。時は冬12月の事でした。

10:22~24「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。『あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。』」

宮きよめの祭りは、イエス様の時代を遡ること200年ほど前、神聖な宮に、当時ユダヤを支配していたシリアの王が異教の偶像を据えたのに対し、ユダ・マカバイオスという英雄が戦いを挑み、みごと偶像を追い払い、宮をきよめた出来事を記念して、祝われてきたもの。有名な過越しの祭りほど歴史は古くありませんが、ユダヤ人が異邦人の支配を一時的にせよ打ち破ったという点が人々の心に残ったのでしょう。当時、大変人気があった祭りと言われます。
しかし、それ以来ユダ・マカバイオスのような英雄はトンと現れない。むしろ、シリヤよりも強力なローマの支配の下に苦しむ人々は、武力でローマを倒し、ユダヤを繁栄に導く王のような存在をキリスト、救い主として期待するようになりました。
そこに現れたイエス様。様々な奇跡を行い人気も絶大なのに、いっこうに地上の王のような活動をなさらない。武器も取らず、部下も持たない。ただ「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」というばかり。自分たちは良い羊飼いではなく、強力な王様のような救い主を期待しているのに。イエスという人は一体何を考えているのやら。
そんなじれったい思いを抱く人々が、「もしあなたがキリストなら、はっきりそう言ってください。」と迫った場面です。その様な人々に対して、わたしはもう十分話したし、父の御名によってわざ、奇跡をも行なってきた、問題は信じないあなたがたにあるとイエス様は答えます。

10:25~27「イエスは彼らに答えられた。『わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』」

わたしが与える水は永遠のいのちへの水。わたしを信じる者は永遠のいのちを持つ。わたしは父なる神とともに働く者。わたしがいのちのパン。わたしは世の光。わたしは良い牧者。イエス様は様々な表現でご自分がキリストであることを話してきました。
また、一瞬で病む者を癒し、ひとことで死人を生き返らせ、風と波をただちに静め、五つのパンと二匹の魚を増やして六千人を満腹させる。父なる神の御名で行なわれたこれらの奇跡も、イエス様が神から遣わされたキリストであることを雄弁に物語っていたのです。
イエス様のことばとわざ、ことばと行動。こんなにも明々白々なしるしを耳にし、目にしながら、イエス様を救い主と認めず、信じようとしないユダヤ人たちの頑固さはどこから来たのでしょうか。自分が罪の誘惑に対して、羊のように弱い者であることを認めようとしない高慢。自分の魂は自分で守り養えるとし、羊飼い等いらないと考える自己信頼。そしてイエス様への反発でした。
聖書の神様はこの世界を創造した神。人間を愛してやまない人格的な神。そのような神様に対する人間の最大の罪は、神様に心から信頼しないこと。そう聖書は教えています。ユダヤ人たちのイエス様に対する態度は、まさに彼らが罪の中にあることを示しています。
それに対して、自分を羊、イエス様を羊飼いとして信頼する者は、「わたしの羊」と呼ばれています。羊は動物たちの中で無防備なもののひとつ。最高の羊であっても、弱く愚かで、道に迷い易いといわれます。
そんな羊にとって草むらや水辺に導き、敵と戦い命を守ってくれる羊飼いの存在は絶対に必要なもの。自分たちの無力、弱さ、性格や傷の一つ一つを知り尽くしている羊飼いへの信頼こそ生命線でした。このような意味でイエス様を羊飼いとし、自分を羊と認める者が「わたしの羊」と呼ばれたのです。
そして、イエス・キリストの羊に与えられる賜物は、その声を聞き分ける能力と永遠のいのちでした。他にどんな声がしても、キリストの羊はキリストの声を聞き分けるし、どんなに暗い谷間に落ちても、キリストの羊はキリストの守りを信頼して、心安らかに歩むことができる。皆様は、ご自分がイエス様のみ声を聞き分ける耳と永遠のいのちを与えられていることを自覚しているでしょうか。
この二つの賜物については、最後にもう一度触れることとし、次に読み進みます。

10:29,30「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

イエス様に信頼する者の魂はイエス様の手に守られるばかりか、父なる神様の手に守られ安全、安心というおことばです。子どもがお父さんの手とお母さんの手に守られて平安であるように、私たちの魂も優しいイエス様の手と、力強い天の父の手に守られ、決して奪い去られず、滅びない。この上ない平安を感じさせてくれる宣言でした。
しかし、この時イエス様が発した「わたしと父とは一つです。」とのひとことが、ユダヤ人の反発心に油を注ぐこととなりました。わたしと父とは同じ神であり、同等の存在と言われたイエス様を怒り、彼らは石を取り上げたのです。

10:31~33「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
イエスは彼らに答えられた。『わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。』
ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』」

 ユダヤ人の怒りがどれ程凄まじいものか。先ず裁判という通常の手続きをすっ飛ばし、いきなり石打即ち死刑を執行しようとしたことから、その凄まじさが伺われます。しかし、流石に彼らもイエス様のなした良いわざを否定することはできず、「わたしと神とはひとつです」とのことばを捕え、神を冒涜する者とレッテルを貼って抹殺しようとしたようなのです。
 しかし、神様が人間を神と呼んだ例なら旧約聖書にもあると反論し、イエス様は急所を突きました。
 10:34~38「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」」

「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。」とある中の律法は旧約聖書の詩篇を、わたしは神を、あなたがたはユダヤの国を治める王を指しています。
神様が、国を治めるという尊い働きを委ねたので人間の王を神と呼んだとするなら、それ以上に尊い働きのために父なる神様から世に遣わされたわたしが、自分を神の子と言ったからといって、どうして神を冒涜することになるのか。その様な反論です。
さらに、それでもわたしの言うことが信じられないなら、わたしのわざを信用しなさい。それこそ、わたしと天の父がひとつであることの証拠ですからと語り、心頑なな人々のため忍耐強く説得を続ける姿に、自分を殺そうとする者にも心尽くしてやまないイエス様の愛を思い、心打たれます。
「父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」様々なわざ、所謂奇跡もそうですが、この様な奇跡的な愛、愛の行動こそ、イエス様が正に神様であることの尊く、強力なしるしではないでしょうか。しかし、この懸命の愛もユダヤ人の心に通じることなく、逆に捕われる危険が迫ったため、イエス様は彼らから逃れざるをえませんでした。

10:39~42「そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。」

イエス・キリストを拒む人あれば、信じる人あり。エルサレムの都を逃れバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場所に戻ると、そこでヨハネの証を聞いていた人々がイエス様を救い主として受け入れたというのです。
イエス様のことばも奇跡もじかに聞き、見ていた都の宗教指導者は信じず、ただバプテスマのヨハネの証を聞いただけの田舎人がイエス様を受け入れる。やはり、自分を霊的に無力であることを認めない高慢な者と、心低く自分を一匹の羊と認める謙遜な者。神様の前における心のあり方が大切なのだと思わせる。そんなエピソードです。
さて、こうして読み終えたヨハネの福音書第10章の後半。最後に確認したいことが二つあります。
ひとつは、イエス様が十字架にいのちをかけて与えてくださった永遠のいのちを、私たちはどれ程知り、味わっているだろうかということです。
すべての罪赦され、それにも関わらず罪の力に対して実に弱く、無力な自分の存在を丸ごとイエス様に受け入れてもらっているという安心を覚えるいのち。どのような状況でも、イエス様がともにいてくださり、守ってくださっているという平安を受け取るいのち。このイエス様とともに生き、イエス様の栄光を表すために考え、行動したいと願ういのち。皆様はこの様ないのちが自分の中にあることを知っているでしょうか。それを味わっているでしょうか。
イエス・キリストを信じた者は死後天国に行ける。これも永遠のいのちです。しかし、イエス・キリストを信じる、イエス・キリストの羊はみな、今、この世で永遠のいのちを与えられていることを自覚したいのです。
ふたつめは、この様な永遠のいのちを味わうために、私たちはイエス・キリストのみ声を聞き分ける必要があるということです。イエス・キリストを信じた時その様な能力を与えられたのですから、それを訓練し高めてゆきたいと思うのです。
最初にお話したように、神様が造ってくださった耳は訓練することによって、様々な音を聞き分ける能力を高めてゆくことができます。そして、効果的な訓練の一つは聞くべき音や声を何度でも聞くこと、聞き続け、聞き慣れたもの、快いものにしてゆくことでした。
一日24時間。私達の耳は様々な音や声を聞いています。自分の内なる声、新聞やテレビを通して聞こえてくる社会の声、身近にいる友人や仲間の声。私たちが聞く声は心に入り、わたしたちの考え方、生き方に大きな影響を及ぼしています。
しかし、私たちが最も影響を受けるべきは、みことばを通して語りかけてくださるイエス・キリストのみ声ではないでしょうか。私たちを悪の誘惑から断ち切る、戒めのみ声、私たちを失望、落胆から引き上げてくれる約束のみ声。「わたしがあなたとともにいる」というご臨在のみ声。不安を静め、平安を覚えさせてくれる愛のみ声。
聖書を読み、みことばから真の羊飼いなるイエス・キリストのみ声を聞く。聞き続ける。聞きなれ親しみ、快いものにしてゆく。そして折に触れて兄弟姉妹とその恵みを分かち合う。私たちの教会のおひとりおひとりが、日々そのような歩みを為すことができたらと思います。→今日の聖句、詩篇100:3