しかし、昔は咲き誇る桜よりも、散りゆく桜を詠むことが好まれたようで、例えば「ひさかたの 光のどけき春のひに しづ心なく 花のちるらん」と古今和歌集にあります。光のどかな春の日に、どうして先を急ぐように桜の花は散ってしまうのか。桜の花は命が短い。咲いたかと思うとすぐに散る。そんな桜の花と、私たち人間の命の儚さを重ね合わせた歌です。
ここには、花が散るのが自然であるように、人間の命もまた自然に散る。どちらも自然の摂理として受け入れるしかないという仏教の考え方があると言われます。命はいつか終わるものと諦め、死を受け入れる態度。これが悟りとされます。
人間が死についてどう考え、対応してきたか。命は限りあるものと諦め、死を受け入れる。ひとつには、この様な態度があるかと思います。
他方、死をひたすら恐れる人々もいました。ローマ人は青ざめて、痩せこけた顔の黒い翼を持つ死神を思い、北欧の神話に登場する死神は大きな鎌を手にした骸骨です。旧約聖書でも死が擬人化され、当時の人々から「恐怖の王」と呼ばれていたことが紹介されています。
普段は死を他人事のように思い込んでノンビリしている者も、これが自分のこととなると途端に怖くなる。そんな人間の様子を、「今までは人のことだと思ったのに、俺が死ぬとはこいつぁたまらぬ」と江戸時代の人が歌っていますが、昔も今も人間は変わらないと思わされます。
さらに、死を一巻の終わりと考え、人生に絶望した人間はどうなるのか。もし、本当に死者の復活がないのならと前置きして語られたのが、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか」という使徒パウロのことばです。何の希望もないその日暮し。人生に意味がないのなら、快楽だけでも思う存分味わってから死にたい。刹那主義、快楽主義でした。
命は限りあるものと諦め、死を受け入れるか。ひたすら死を恐れるか。死に絶望し快楽主義に溺れるか。いずれにしても、死は人間の目の前に立ちはだかる壁のよう。どんな方法、考え方、態度で臨もうとも、誰もが皆屈することしかできない障害物だったのです。
しかし、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」、イエス・キリストが発した一言は、この様な私たちの生命観、死生観を180度変えるものとなります。死について、いのちについて、私たちが生まれたこの方耳にしてきた様々な考え方や態度をひっくり返す力に満ちていました。
今日は、このことばを中心に、ヨハネの福音書第11章、ラザロの復活と呼ばれる箇所を読み進めてゆきたいと思います。
先ず先回の流れを振り返ります。ユダヤの都エルサレムに近いベタニヤ村に住むマルタ、マリヤ、ラザロの三人姉弟は揃ってイエス様を救い主と信じる、熱心なお弟子さん。活動的なマルタ、物静かなマリヤ、人々に愛された若者ラザロ。仲の良い三人の家は都に近いこともあり、都で活動されたイエス様の休憩場所として用いられ、他の弟子たちも含め、みなが親しい間柄にあったと思われます。
しかし、悲しいことにラザロが重病を患い床に伏した。それで、二人の姉妹は使いを送り、「あなたの愛する者が病気です」と伝えると、二日間を置いてイエス様は出発。ようやくベタニヤ村に到着したというのが今日の場面です。
11:17~19「それで、イエスがおいでになってみると、ラザロは墓の中に入れられて四日もたっていた。ベタニヤはエルサレムに近く、三キロメートルほど離れた所にあった。大ぜいのユダヤ人がマルタとマリヤのところに来ていた。その兄弟のことについて慰めるためであった。」
この頃、ユダヤの人々では、死者の魂は三日の間遺体のそばにいて、生き返る可能性があると考えられていました。しかし、マルタ、マリヤが使いを出した日には既に亡くなっていたラザロの遺体は死後四日が経過。もはや生き返る可能性はゼロと、人々からは受けとめられていたからでしょうか。ラザロを愛した親戚や友人が弔問のため集まっていました。
すると、誰が知らせたのか。イエス様が来られたことを知ったマルタはただちに迎えに行き、弟の死を嘆いたのです。
11:20,21「マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。』」
迎えにゆくマルタ。家で座り続けるマリヤ。こんな時も姉妹二人の性格の違いが現れていました。しかし、愛する家族の死を悲しむ気持ちと、イエス様に対する信仰において二人はまったく同じだったのです。
主よ。残念なことにあなたはおられませんでしたが、もしここにいてくださったら、私の兄弟は癒され、死ぬことはなかったにちがいありません。何故なら、あなたが父なる神に求めることは、何でも与えられるからです。悲しみと失望のなか、精一杯で、健気なマルタの信仰と見えます。
それを聞いたイエス様。ご自分が永遠の命の主であることを教えるためこう告げたのです。
11:23~27「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』マルタはイエスに言った。『私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。』イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。』彼女はイエスに言った。『はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。』」
「わたしは、よみがえりです。いのちです」と言われたイエス様に対し、ユダヤ人が一般的に信じていた遠い終わりの日の復活なら自分も信じていると答えたマルタ。彼女には目の前にいるイエス様がどのようなお方であるか、まだ分かっていなかったのです。
そこで、もう一度念押しをするように、イエス様が語られたのが今日の中心となることば。「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」でした。
恐らく親戚や友人から「ラザロはきっと終わりの日によみがえりますよ」と、マルタは慰めのことばをかけられてきた。当時人々はそう言って互いに慰め会ってきたのです。ですから、イエス様が「あなたの兄弟はよみがえります」と言われた時も、同じ慰めのことばをかけられたと彼女は思ったのです。
その誤解を解くため、「終わりの日のよみがえりのことではない。わたしはわたしを信じるすべての人に永遠のいのちの与える主。わたしを信ますか」。そうイエス様は問いかけられたのです。
「たとえイエス様でも、死んで四日も経ったラザロをどうすることもできない。」そう考えたマルタの希望はイエス様を離れました。そして、その頃の一般的に考えられていた終わりの日に起こる死者の復活に希望を持とうとしていたのです。
日本人にも死んだら天国に行く、極楽に行くと信じている人は大勢います。「あなたの愛する家族が天国で待っていますよ」と慰める人もいます。死後のいのちについて漠然とした望みを抱く人々。同じ状況が昔のユダヤにも、今の日本にもあるという事です。
それに対して、「わたしを信じる者が死んでも生きる。永遠のいのちをもつ。遠い未来に漠然とした希望的観測を見るのではなく、わたしが誰かを知り、わたしを信ぜよ。」これが、イエス様のメッセージでした。
しかし、イエス様が永遠のいのちの主であると、マルタや弟子たちが確信するに至るのは、この後の十字架の死と復活を待つことになります。けれども、それまでの間も、教えるべきことを教え、為すべきことを為す。人々がご自分を信じて永遠の命に生きるため、全力で仕えるのがイエス様でした。
さて、身の危険を覚悟の上で足を運んでくれたイエス様を嬉しく思ったマルタは、妹のマリヤに声をかけます。
11:28~32「こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、『先生が見えています。あなたを呼んでおられます。』とそっと言った。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。『主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。』」
マリヤが口にした「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」とのことばは、マルタとまったく同じ。マリヤは、いかにイエス様が神の子キリストであろうとも、死後四日も経ったラザロをどうすることもできまいと諦め、親戚や友人とともに涙に暮れていたのです。
それをご覧になったイエス様は激しい怒りと身震いを覚え、それととも悲しみの涙を流されたと言うのです。聖書中ここにしか見られないイエス様のお姿でした。
11:33~37「そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。『彼をどこに置きましたか。』彼らはイエスに言った。『主よ。来てご覧ください。』イエスは涙を流された。そこで、ユダヤ人たちは言った。『ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。』しかし、『盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。』と言う者もいた。」
「霊の憤り」は、死をもって人間を恐れさせ、悩ませ、悲しみのどん底に落とすサタンに対する激しい怒りを、「心の動揺」とは、その激しい怒りから生まれる身震いを指すと考えられます。それと、墓に横たわるラザロの遺体を見たイエス様の顔を伝わる涙は、愛する者が死んだ時私たちの心に溢れる悲しみを、イエス様もともに同じくしておられることを伝えています。
私たち人間のため、死の力を持つサタンに激しい怒りを向ける神。私たちと同じ悲しみの感情を深くももつ人間。イエス様の二つの顔が同時に現れた瞬間でした。忘れがたいイエス様のお姿でした。
そして、その様なイエス様のお姿にラザロに対する愛を感じ、心動かされた人々がいたかと思えば、他方、来るタイミングが遅かったと、不平を漏らす人々漏らす人々もいたというのは残念なことでした。しかし、扱うのは次回となりますが、墓の中からラザロをよみがえらせるという奇跡は、イエス様がこの様に不信仰な人々をも愛して行ったものであることを覚えておきたいと思います。
さて、こうして読み終えたヨハネの福音書第11章の中盤。私たちがもう一度確認したいことが二つあります。
ひとつは、ラザロとその死を悲しむ人々に対するのと同じイエス・キリストの愛が、私たちに向けられていることです。
親しい者の死に落胆し、悲しみ、心悩ませる時、そんな私たちのため、死の力をもつサタンに激しい怒りを向け、これを滅ぼすため雄雄しく十字架の死に進まれたイエス様の愛を思いたいのです。ひとり病に苦しむ時、死の影を恐れる時、そんな私たちのために涙を流し、近づいてきてくださるイエス様の愛を心いっぱい受け取る者でありたいと思います。
ふたつめは、ユダヤ人たちがもっていた将来の漠然とした復活信仰でも、今人々が持つさらに漠然とした天国信仰でもなく、イエス・キリストを信じる者は既にこの世において永遠の命をもつとのみことばに立って人生を考え、行動することです。
ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命をもつためである。」
イエス・キリストを信じる者が与えられる永遠のいのちには、三つの特徴があります。第一は、自分のすべての罪が赦されていると安心できるいのちです。神様はイエス・キリストを信じる者を、罪を一つも犯さなかった者として扱ってくださるので、私たちは永遠に神様のさばきを恐れない平安ないのちを生きることができます。
第二は、神様と父と子としての親しい交わりに憩ういのち、イエス・キリストを友とする親しい交わりに生きるいのちです。第三は、神様の愛に心動かされて、イエス・キリストが地上を歩んだように、自分も生きたいと願ういのちです。
そして、永遠のいのちを受け取っていることを確信する時、死はあきらめなければならない出来事ではなく、神様により近づける幸いな出来事へと変わります。死は恐ろしい時ではなく、さらに祝福された永遠の命へのスタートと変わります。そして、死は一巻の終わりではなく、私たちの地上の歩みが本当に無駄ではなかった、大切な意味があったことを喜べる、その様な世界への門出へと変わるのです。
私たちがみなが永遠の命を持つ者として教会で、社会で、家庭で歩んでゆきたいと思います。