2014年3月30日日曜日

ヨハネの福音書11章38節~57節 「ラザロの復活」

男性78歳、女性86歳。皆様ご存知の通り、日本は世界一の長寿国。日本の医療のあり方を参考にしたい、高齢者の生き方を学びたいと考える国も増えていると言われます。しかし、長寿も良いことばかりではないようです。長寿のゆえに、以前にはなかったような苦しみを味わう人も増えてきました。例えば、日本人の死因として最も多い癌。癌を治療するための抗がん剤による副作用で、耐え難い痛みを経験する人。薬漬け状態から抜け出せずに苦しむ人。
聖書は、私たちがこの世で与えられた体を「朽ちる体」と呼んでいます。健康のまま長寿ならよいのですが、朽ち果てるまで、様々な体の痛みに悩まされるという現実は昔も今も変わらないように思われます。
他方、聖書が教える霊的な死の問題、神様の愛に背を向けて生きる人間の問題も見過ごしにはできません。ある時、お見舞いに出かけた病院で、こんなことばを耳にしました。「母は、癌や成人病がないから、こんな寝たきりになっても死ねないんですよね」。
 皆様はどう思われるでしょうか。悲しいことばですが、しかし、私はこの娘さんを「酷いことを言うなあ」と責めてばかりもいられない気がします。現に、私たちは「寝たきりになってまで長生きしたくないなあ」等と思ったり、その様なことばを耳にすることがあるのではないでしょうか。
 また、家庭で介護される場合でも、家族だけで頑張ってしまうため、十分なことができない上、最後には皆疲れてしまい、ご本人も「私が生きていて申し訳ない」と言う気持ちに追い込まれ、とても生かされている喜びを味わうどころではない。そんな話も聞きます。
 体の機能が衰える、出来ない事が増えてくる。その上人に迷惑をかけているのではという不安。自分の存在価値、自分が生きている意味を感じられないままの長寿と言うのは、悲惨なことと思われます。
 この様な問題を抱える私たちにとって、今日の聖書、ヨハネの福音書第11章、ラザロ復活の場面は、光を当ててくれます。老いも若きもイエス・キリストを信じる者は、今この世において、人として本来生きるべきいのち、永遠のいのちに預かることができる。このことの恵みを皆で確かめたいと思うのです。
 さて、これまでの流れを振り返って見ましょう。舞台は、ユダヤの都エルサレムに近いベタニヤ村。この村に住むマルタ、マリヤ、ラザロの仲良し三人姉弟は、皆揃ってイエス様の弟子。彼らの家は、都で活動したイエス様の休息の場所として提供され、三人はイエス様と親しい関係にありました。
 しかし、ある時、年の若いラザロが重病を患い、床に伏してしまう。知らせを聞いたイエス様と弟子たちが村に到着した時には、すでにラザロが死んで四日経過していたと言うのです。

 11:3840「そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」

 先回読みました直前の場面。私たちは、マルタ、マリヤをはじめ親族、友人などが死んでしまったラザロを思い、涙に暮れている姿をご覧になり、霊の憤りを覚え、ご自身涙を流されたイエス様の姿を見ました。
 霊の憤りは、死と死の力を持って人間を苦しめるサタンに対する怒りを示すもの。頬を伝う涙は愛する者を失った人々の悲しみと心一つになり、思わず流されたものです。
ある人は、「イエス様は人になられた神の子。この後ラザロを墓の中からよみがえらせるつもりであったのに、何故怒ったり、泣いたりされたのか」と問います。
しかし、イエス様の心は石でも鉄でもなかった。あくまでも、切ったら血が流れる人間として、怒ったり、泣いたりしながら、父なる神に従うお方、正真正銘私たち人間の仲間となられた救い主だったのです。
そして、今日の箇所。イエス様は心新たに死の力を打ち破るべく、毅然として語られました。「石を取りのけなさい」と。当時の一般的な墓は、岩山に横穴をあけ中に遺体を置くと、入り口に石を置くという形でした。
そこで、まず「あなたたちの手で入り口の石を除けよ」と命じ、人々がご自分を信じるようにと求めたのが、このことばの真意と考えられます。しかし、これに対して「もう四日も経って、ラザロの遺体は臭くなっています」と異を唱えたのが、ラザロのお姉さんマルタです。「いくら、イエス様でももうどうにもできません」との思いが込められていました。イエス様を救い主と信じること熱心であったマルタにして、イエス様が死人をよみがえらせるなど、夢にも思っていなかったのです。
しかし、ご自分が永遠のいのちの主であることを何とか知って欲しいと願うイエス様の歩みを、誰も止めることはできませんでした。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」とのことばに心動かされ、恐る恐る石を取り除けた人々がいたのです。
そして、それに応えるように、イエス様はご自分の栄光を表されたのです。

11:4144「そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。『父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。』
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。『ほどいてやって、帰らせなさい。』」

イエス様が表した栄光の第一は、ご自分が、父なる神と心ひとつになって人間の救いのために働く救い主であることを、その祈りによって示したことです。先には愛する者の死を悲しむ人々と心を一つにし涙を流したイエス様が、今は、天の父と心を一つにして力強く働きたもう。まさに、イエス様は神にして人なるお方という気がします。
そして、栄光の第二は、死者をよみがえらせる権威をもうお方であることを示したことです。渾身の力を込めて「ラザロよ。出てきなさい」と命じると、長い布で巻かれたままでは、生活しにくかろうと案じて、人々に「ラザロの布をほどいてやりなさい」と配慮される。測り知れない権威と細やかな配慮をなさる優しさと。イエス様の二つの顔が伺われて、「ああ、こんなイエス様に一日も早くお会いしたい」、そう私たちに思わせてくれるお姿です。
さらに、栄光の第三。復活は、イエス様の命がけの愛によって信じる者にもたらされたということです。なぜなら、このラザロ復活の奇跡をきっかけに、イエス様を恐れ、妬むユダヤ教指導者が会議を開き、イエス様を殺すことを決議、その計画に取りかかりました。
弟子たちさえ、この様な事態になるのではと心配して、ベタニヤ行きに反対しましたから、まして、イエス様はベタニヤでラザロ復活のみわざを行なえば、都の宗教指導者の敵意が高まり、身に危険が迫ることはご存知の上だったでしょう。事実、この出来事の直後、指導者の動きが慌ただしくなります。

11:4548「そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。しかし、そのうちの幾人かは、パリサイ人たちのところへ行って、イエスのなさったことを告げた。そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を召集して言った。『われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行なっているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。』」

「百聞は一見に如かず」と言います。物事は百回聞くより、実際に一回見たほうがよく分かるという意味です。これまで、ユダヤの宗教指導者はイエス様に、「あなたが本当にキリスト、救い主ならしるしを見せよ」と迫ってきました。
しかし、イエス様の奇跡を見た人が証言しても、それを直接体験した人が証言しても、民衆の言うことなど信じられないと、彼らは頑なに拒んできたのです。そして、これ以上の奇跡があろうかというラザロ復活により、彼らの本音が暴露されました。
今まで、彼らはしるしを見たら信じる、信じられると言ってきましたが、それは真っ赤な嘘。イエス・キリストを信じられないではなく、信じたくなかったのです。いや、信じたくないどころか、彼らが願っていたのは我が身の保身。
一方で、民衆がイエス・キリストを信じて、自分たちが指導者の地位から落ちることを恐れ、他方、もしイエスがユダヤの王となったら、ローマ帝国から攻撃を受け、自分たちが敗れ去ることを恐れる。大切なのは自分たちの権利と立場のみという情けなさです。「右か左か。前に進むか後ろに退くか」。議会に召集された人々が喧々諤々議論する中、タイプの大祭司カヤパが発言すると、一挙に議会はまとまりました。

114953「しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。『あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。』ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである。そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」

「一人の人、つまりイエス様が民の代わりに国全体が滅びない方が得策ではないか」。何のことは無い、イエスが本当にキリストかどうかを考えるより、スケープゴートになって死んでもらい、自分たちの立場を守る方が得という意見で全会一致したようなのです。真理かどうかではなく、得か損かで物事を決める。これでユダヤの最高議会だと言うのですから情けないとしか言い様がありません。事実、得意顔で発言したカヤパの提案は、功を奏さず。やがて、ユダヤはローマ軍に壊滅させられるのです。
しかし、本人は知らなかったでしょうが、カヤパのことばは、やがてご自分を信じる者たちのために十字架に身代わりの死を遂げるイエス様のことを預言するものと、この福音書を書いたヨハネは説明しています。
こんな人間たちの高慢や悪意、ご自身に伸ばされる魔の手をよくよく知った上で、当の人間が死ぬべき者となった原因である罪を取り除くため十字架で身代わりの死をとげる。この尊い犠牲の道を自ら選び、真っ直ぐに進まれたのが救い主のイエス様だったのです。
自分を守るために、人を犠牲にする宗教指導者。人を死から救うために、自分を犠牲にするイエス・キリスト。まったく対照的な生き方が明らかにされた、ヨハネの福音書第11章でした。
さて、ラザロの復活を描いたこの章を読み終えて、最後に確認したいのは、これ程までに私たちを愛してくださったイエス・キリストが、今この世で信じる者すべてに与えてくださる永遠のいのちの特徴です。
この世において永遠のいのちを生きることは、聖書において様々に表現されていますが、今日お勧めしたいことの一つ目は、御霊の実を結ぶ歩みをすることです。

ガラテヤ52224「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁じる律法はありません。キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」

キリストの愛に背を向け、永遠のいのちを受け取っていない時、私たちの心は御霊の実よりも自分の肉、つまり自己中心の性質から生まれる情欲や欲望が優勢な状態です。これは、今日の箇所で見た、自分を守るために人を退け、人を拒み、人を犠牲にする宗教指導者の様な生き方に表れてきます。
しかし、イエス・キリストを信じて、永遠のいのちを受け取った私たちの心には、ラザロの遺体のように死んでいた神と隣人への愛、神の子として生かされていることの喜びや平安がよみがえってきます。人に寛容と親切を尽くす心、人の欠点よりも良い点を見ようとする善意、裏表のない誠実な態度、柔和な性質、神様の御心を行い、神様が悲しむことから離れる自制心が復活してきます。
完全に御霊の実で満たされるのは天国に行ってからですが、この地上にある間、自己中心の性質を捨て、御霊の実を結ぶ生き方を心から願い、実践し、御霊の実の方が優勢になる。この永遠のいのちを受け取っていることを、皆様は自覚しているでしょうか。
 二つ目は、イエス・キリストが再び来られる時、ラザロのように親しく名を呼ばれ栄光の体に復活させて頂けると確信して生きることです。今日の聖句です。

 Ⅰコリント1554「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着る時、「死は勝利にのまれた」と記されている、みことばが実現します。」


 いたずきの麻痺は頭に及びきて わが髪は赤くなりて抜けゆく。形なく身は崩れつつ生きゆけば 老父を思いキリストを思う。18歳で発病。生涯ハンセン病に苦しんだ女性の悲しい歌です。病気で苦しむ方々の、新しい生命、新しい体への希望は切実です。体を損なった兄弟姉妹は、五体満足の健康な体で復活することに、ひときわ希望を抱いておられます。そして、キリストを信じる私たちは今その日を確信できるのです。死んだら一巻の終わりではなく、死後どうなるのか分からないでもない。死んで後さらにすばらしい生命に生きるという信仰がある。これもまた永遠のいのちの特徴であることを覚えたいのです。