2014年3月23日日曜日

第二歴代誌29章1節ー11節 「一書説教 第二歴代誌 ~主の目の前で~」

皆様は他の人からの評価が気になるでしょうか。あまり気にならないでしょうか。大なり小なり私たちは他の人の目を意識しながら生きています。親から、兄弟から、友人から、教師から。恋人から、夫、妻から、子どもから。上司から、同僚から、部下から。周りにいる人の評価によって喜ぶ、落胆することを繰り返しながら生きています。もう一度聞きます。皆様は他の人の評価を気にするでしょうか。あまりに気にならないでしょうか。
他の人の評価を気にし過ぎるのは良くないこと。自分らしさが失われ、周りの人の目がストレスとなります。しかし、他の人の評価を気にし過ぎないのも問題となる。自分がおかしい時、間違っている時に、正されない生き方となる。他の人の評価、他の人の目を適度に意識し、適度に意識しない。そのように生きていきたいと思うのですが、なかなか難しい。多くの場合、私たちは他の人の目を過度に意識するか、過度に意識しないか、偏って生きることになります。
 それはそれとして、もう一つお聞きします。皆様は神様からの評価、神様の目は意識しているでしょうか。今の自分の状態、自分のしていることを、神様はどのように思われているのか。どこにあっても、神様の前で生きている者であるという意識があるでしょうか。
 聖書の教える罪の本質は、この世界を造り支配されている方を無視して生きること。キリストを信じる私たちは罪から解放されて、神様とともに生きる者。それはつまり、クリスチャンは、どこにあっても、神様の前で生きる者と言うことも出来ます。今一度、神様の目を意識して生きることを決心したいと思います。

私の説教の際、断続的に一書説教に取り組んでいます。今日は十四回目。旧約聖書、第十四の巻、第二歴代誌を扱うことになります。第二歴代誌を読む時に、神様の目を意識して生きることがどれ程大切なことなのか、確認しながら読むことが出来るようにと願っています。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 さて、一書説教ですがクリスマス、年末年始、ウェルカム礼拝とありましたので、四ヶ月ぶりとなりました。しばらく間があいてしまいましたので、第二歴代誌までの流れを確認しておきたいと思います。
 神を無視して生きる人間が増え広がる世界にあって、「神の民」にあるべき人間の姿、神様を信じ、従う生き方を示す使命が与えられていました。その「神の民」に選ばれたのが、アブラハムとその子孫、イスラエル民族。神様はアブラハムに、子孫が増え広がること、その子孫にカナンの地(現在のパレスチナ地方)を与えると約束されていました。
 その約束通り、イスラエル民族は増え広がり、カナンの地に定住するようになる。やがて、王が立てられ、国として整います。初代王はサウル。ダビデ、ソロモンと続き、ソロモンの時代に大繁栄しますが、ソロモンの子どもの時代にイスラエル王国が南北に分裂しました。その後、北イスラエルはアッシリアに敗北、南ユダはバビロンに敗北。
アッシリアに負けた北イスラエルは、民族としてのアイデンティティを失い消滅します。残念無念。片や南ユダの住民は、バビロンに奴隷として連れて行かれるも、アイデンティティは失われることなく、やがて約束の地カナンに戻ることになる。バビロン捕囚から帰還します。
 「神の民」として歩んできたイスラエル王国。その王国が二つに分かれ、一つの王国は失われてしまった。残った南ユダの民にしても、しばらくの間、バビロンで奴隷として生きてきた後、今一度、約束の地カナンに戻ってきた。ここでもう一度、国を建て上げなければならないという状況で記されたのが、この歴代誌です。
 大きな悲劇を味わい、国の再建を目指す時に記された。何が記されたのかと言えば、これまでの歴史が記されます。国の再建に必要なことは、神様がどのようなお方で、その神様に自分たちはどのように導かれてきたのかを確認すること。バビロン捕囚という悲劇の原因を、神様との関係に見出そうとしたわけです。
 バビロンから帰って来た民が、歴代誌を読む時、どのような思いになったのか。何を考え、何を感じたのか。想像しながら読みたいと思います。

 ところで、イスラエルの歴史は、既にサムエル記、列王記に記されていました。(第二歴代誌に記された時代は、列王記に記された時代と重なります。)今一度、歴史を記すとしたら、それまでに記された内容と視点を変えて記すはず。列王記と第二歴代誌には、どのような違いがあるでしょうか。色々とその違いを挙げることが出来ますが、大きな違いは三つ。
一つは、列王記は南北両方の国に焦点を当てて記されましたが、第二歴代誌では南の国、南ユダに焦点が当てられています。歴代誌の最初の読者が、南ユダの残りの人たちだからです。
 もう一つの特徴は、列王記ではそれぞれの王とともに、預言者の活躍にも焦点が当てられていました。エリヤ、エリシャという著名な預言者の活躍を見ることが出来るのは列王記。それに対して、歴代誌は預言者の記述は少なく、王に焦点が当てられます。
 さらにもう一つの特徴は、列王記では出来事だけ記されていたところに、歴代誌ではその出来事の意味が記されているというもの。(列王記にも出来事の意味が記されていますので、全ての箇所に当てはまる特徴ではなく、全体として見た時に歴代誌にはこのような特徴があるという意味です。) 
 例えば、ヤロブアムという王が死んだことを列王記では
第一列王記14章20節
「ヤロブアムが王であった期間は二十二年であった。彼は先祖たちとともに眠り、その子ナダブが代わって王となった。」

 と記されていましたが、歴代誌では
 第二歴代誌13章20節
「こうして、ヤロブアムはアビヤの時代には、もはや力をとどめておくことができなかった。主が彼を打たれたので、彼は死んだ。」

 として、ヤロブアム王の死という出来事は、神様の裁きの意味があることが語られています。このように第二歴代誌の三つ目の特徴は、出来事の意味も記されるということ。
 大きな特徴として三つのことを頭におきながら、読み進めたいと思います。

 さて、その内容ですが、歴代の王の歩みが記されることになります。順に名前を挙げると、ソロモン、レハブアム、アビヤ、アサ、ヨシャパテ、ヨラム、アハズヤ、アタルヤ、ヨアシュ、アマツヤ、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤ、マナセ、アモン、ヨシヤ。ヨシヤ以降の王は、バビロンの攻勢に会い、短い期間の王であった者たち。エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤです。耳慣れない名前で覚えるのが難しいですが、名前だけでどのような王か思い出すことが出来るようになれば、歴代誌、列王記は非常に読みやすくる。善悪除いて、有名な王を取り上げると、ソロモン、アサ、ヨシャパテ、アタルヤ、ヒゼキヤ、マナセ、ヨシヤあたりでしょうか。これらの人たちは、どのような王だったか覚えておきたいところです。
 各王、均等に記されているかと言えばそうではなく、多くの記事が割かれた王もいれば、極短い記述の王もいます。特に最初のソロモン王については多く記され、主に神殿建立の働きに焦点が当てられています。第一歴代誌でも、神殿に注目する記事が多く、第二歴代誌の前半、ソロモンでも同様と感じられるのです。
今回読みまして、私が特に印象に残ったのは、神殿奉献の際のソロモンの祈り。様々な状況を想定して、そのような状況になっても、この神殿にむけて祈られる祈りを聞いて下さいとの文脈で、次のような祈りがささげられていました。

 第二歴代誌6章36節~39節
「彼らがあなたに対して罪を犯したため――罪を犯さない人間はひとりもいないのですから――あなたが彼らに対して怒り、彼らを敵に渡し、彼らが、遠くの地、あるいは近くの地に、捕虜として捕われていった場合、彼らが捕われていった地で、みずから反省して悔い改め、その捕囚の地で、あなたに願い、『私たちは罪を犯しました。悪を行なって、咎ある者となりました。』と言って、捕われていった捕囚の地で、心を尽くし、精神を尽くして、あなたに立ち返り、あなたが彼らの先祖に与えられた彼らの地、あなたが選ばれたこの町、私が御名のために建てたこの宮のほうに向いて祈るなら、あなたの御住まいの所である天から、彼らの祈りと願いを聞き、彼らの言い分を聞き入れ、あなたに対して罪を犯したあなたの民をお赦しください。」

 歴代誌を読む最初の読者は、まさに、ここでソロモンが想定していた状況に陥り、しかし悔い改めて約束の地へ戻ってきた者たち。この読者からして、ソロモンは四百年以上前の人物となりますが、そのソロモンの祈りの結果として、今の自分たちがいると知った時に、どのような思いになったのか。
 私が神学生の時代、小畑進先生の授業で聞いた一つのエピソードがありました。それは先生が最初に赴任した教会で必死に祈ったことの一つが、立派な長老が与えられるようにということ。長老教会にとって、長老が与えられることが非常に重要であり、それを必死に祈ったという話。それを聞いて、私も神学校を卒業し、教会に赴任した際には、長老が与えられるように祈ると決心したのですが、卒業後、小畑先生が祈っていた四日市キリスト教会に来ることになったのです。そして分かったのは、約六十年前に祈られた小畑先生の祈りが、今このように結実しているということ。神学校の時に聞いていた祈りの話の結果を、目撃し体験することが出来ることに、大いに感激し、感謝しました。
 歴代誌の最初の読者も、同様の感激、感謝だったと想像します。あの大王ソロモンの祈り。四百年以上前の祈りの結果を、目撃し体験することが出来る恵みを頂いた。そのことに気付くようにということが、歴代誌の記された目的の一つです。
 このようなことを考えますと、私たちの祈りも、もっと大胆なもので良いかもしれません。祈りの結果を自分が見ることがない。それでも何十年、何百年先の四日市キリスト教会のため、日本のため、世界のために祈れるということが、私たちの特権であり、使命と言えます。

 ソロモン王以降の王は、玉石混淆と言って良いでしょうか、様々な王が出てきます。王のなしたこと、その活躍や失敗が記録されますが、歴代誌の著者の主な関心は、その王が「主の目の前で」どのような存在であったのかということ。第二歴代誌を読むと、何度も「主の目にかなうことを行った。」あるいは「主の目の前に悪を行った」と目にすることになります。
 主の目の前でどのような存在であったのか。具体的に、どのような場面で、このことが問われたのか。何をもって良い、悪いと評されるのか。第二歴代誌を読みますと、大きく二つの場面を挙げることが出来ます。

 一つは誰を礼拝するのかということ。「主の目にかなうことを行った」と評される王。善王として覚えられるアサ、ヨシャパテ、ヒゼキヤ、ヨシヤは、他国から持ち込まれた偶像を取り除き、主なる神様に礼拝をささげることに取り組んだ王たち。
何十年と王の働きをする。そこには様々な政策を打ち出し、問題を乗り越えた歩みがあったと思います。しかし、歴代誌の著者は、何にもまして、偶像を取り除き、主なる神様を礼拝したことに目を向け評価しています。片や、悪王とされる者たちは、他国の偶像をとりいれたこと、主なる神様以外のものを礼拝したことで、悪と評価される。
 神様が私たち人間を評価する重要な項目は、誰を礼拝するのか。誰を第一とするのか、なのです。

もう一つ。主の目の前でどのような存在なのか問われる重要な要素は、誰を信頼するのかということ。ソロモン王以降、国力が衰退し、近隣諸国と絶えず緊張関係にあり、戦争を繰り返す歴史となります。他国との戦争状態、危機的状況にある時に、神様を信頼するのか。それとも、神様以外のものを頼りにするのか。
列王記では、不信仰の悪王として小さな記事でしか残らなかったソロモンの孫、アビヤ王ですが、神様を信頼して戦に勝ったことが歴代誌では大きく取り上げられています(13章)。ヨシャパテが神様を信頼して、聖歌隊を全面に出して戦いに勝利した記録(20章)。北イスラエルを滅ぼしたアッシリアと対峙した際の、ヒゼキヤの信仰の姿(32章)など、神様を信頼する見事な証が印象的に記録されています。片や、善王アサが、危機的状況の際に近隣アラムを頼り、同盟を結ぶと、それは非常に悪いこととして糾弾されるのです(16章)。
 主の目の前で生きる。神様に良いとされる生き方は、神様以上に信頼するものをもたないようにと教えられます。果たして私は何を頼りに生きているのか、神様を信頼して生きているのか、再確認する必要があります。
 私たちが、他の人から評価されるのは、多くの場合、学歴、社会的立場、能力、外見、収入、成し遂げた事柄など。しかし、神様が私たちを評価するのは、誰を礼拝するのか、誰を信頼するのか。他の人の目、世間の目を意識して生きるのか。神様の目を意識して生きるのかで、私たちの生き方は大きく変わります。

 それはそれとしまして、南ユダの歴史は主なる神様以外のものを神とし、信頼することを繰り返す。悪を重ねる歴史を送り、ついには裁きとしてのバビロン捕囚。しかし、完全に滅びるのではなく、そこから帰還したという記述をもって歴代誌は閉じられることになります。
 Ⅱ歴代誌36章20節~21節
「彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕え移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。これは、エレミヤにより告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。」

 バビロン捕囚からの解放に、ペルシャ王国が関わっていたこと。それはエレミヤの預言の成就であることが記されていますが、このことは次回以降詳しく扱うことになります。

 以上、大雑把にですが第二歴代誌を確認してきました。バビロン捕囚から帰還したユダの人々。国を再建する際に、記された歴史書。当時の人々の気持ちになって、読み進めたいと思います。そして、私たちが主の目の前で生きていること。主の目にかなう生き方をすることが、神の民として非常に重要であることを再確認したいと思います。
 最後に、歴代誌の著者が、読者に対して強いメッセージを込めて記録したヒゼキヤの言葉。最初の読者の胸にささったであろう言葉を確認して終わりにしたいと思います。

 第二歴代誌29章4節~11節
「さらに、彼は祭司とレビ人を連れて来て、東側の広場に集め、彼らに言った。『レビ人たち。聞きなさい。今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい。あなたがたの父祖の神、主の宮を聖別し、聖所から忌まわしいものを出してしまいなさい。というのも、私たちの父たちが不信の罪を犯し、私たちの神、主の目の前に悪を行ない、この方を捨て去って、その顔を主の御住まいからそむけ、背を向けたからです。また、彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびの火を消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のいけにえをささげることをしなかったのです。そこで、主の怒りがユダとエルサレムの上に下り、あなたがたが自分の目で見るとおり、主は彼らを人々のおののき、恐怖、あざけりとされました。見なさい。私たちの父たちは剣に倒れ、そのため、私たちの息子たち、娘たち、妻たちは、とりこになっています。今、私の願いは、イスラエルの神、主と契約を結ぶことです。そうすれば、主の燃える怒りが私たちから離れるでしょう。子たちよ。今は、手をこまねいていてはなりません。主はあなたがたを選んでご自分の前に立たせ、ご自分に仕えさせ、ご自分のために、仕える者、香をたく者とされたからです。』」

 神の民がひどい状態になる。その原因は、自分たちの不信にある。だから手をこまねいていないで、神様に立ち返りなさいとの勧め。これがヒゼキヤの声でした。ヒゼキヤの時代に、自分たちの悲惨な状態の原因は、神様に従わないこと。そこから立ち返るようにと言われているのに、この後、バビロン捕囚が起きたのです。
 実に残念と思いますが、その不真実が人間の歩み、それも神の民の歩みでした。歴代誌の最初の読者、バビロンから帰還した者たちは、このヒゼキヤの言葉を読み、今度こそは、と思ったでしょうか。

 そして、私たちはどのようにこの言葉を受けとめるでしょうか。自分の人生で最も大事なことは、神様のみを礼拝し、神様を信頼して生きること。主の目の前で生きていることを忘れないこと。自分の心にある罪を取り除き、真に神様を礼拝する歩みを皆で送りたいと思います。