2014年3月9日日曜日

ヨハネの福音書11章1節ー16節 「わたしたちの友ラザロ」

 よく「死は一巻の終わり」と言います。「死んだら元も子もない」とも言われます。死は恐ろしいと感じる人々に対し、ギリシャの快楽主義の哲学者はこう言ったそうです。「死は最も恐ろしいものとされているが、実はなんでもないものである。何故かと言えば、私たちが生きている限り、死は存在しないし、死が存在する時は私たちが生きてはいないからだ。そこで、死は生きている者にも、既に死んだ者にもかかわりがない。」
 インドの昔のお坊さんで、命はすべて物質からできていると考えた人は「人間は死とともに無となるのであって、体のほかに死後も存在する霊魂はありえない。人々は火葬場に行くまでは悲しみ、嘆くけれども、遺体が焼かれると後には骨と灰が残るのみ。賢い者もそうでない者も体が破壊されると消滅し、死後には何も残らない。従って、来世もなく、善い行いあるいは悪い行いをなしたからと言って、その報いを受けることもない。供え物も葬儀も無意味なものである。」
 確かにこのような考え方に立てば、死は一巻の終わり、命の消滅、存在が無になることと言えます。しかし、これは余りにも理屈っぽいと言いましょうか、命や死に対する私たちの実際の思いを切り捨てすぎではないかと感じます。
 もし、命が本当に死によって無になるのなら、何故人間は昔から死後の命についてあれこれと考えてきたのでしょうか。何故、愛する家族の死を悲しんだり、自分の死を恐れる感情が生まれてくるのでしょうか。何故、可能な限り寿命を延ばそうとし、死を避けようとしてきたのでしょうか。
 聖書は人間の命には三つの面があることを教えていました。ひとつは肉体的な命です。世間一般にはこれが命と呼ばれるものです。
もう一つは霊的な命で、人間は人間を創造した神様に向けて造られたので、神様との愛の交わりのなかに生きる命を与えられました。神様の愛に心動かされ考え、働き、様々な活動をする。これが霊的な命、本来の人間の命です。
 しかし、神様に背を向けた人間は霊的な命を失い、神様の罰として肉体の死がもたらされ、死ぬべき者となってしまったのです。
 しかし、罪人を愛する神様はイエス・キリストをこの世に遣わしました。そして、イエス・キリストを信じる者には霊的な命が与えられます。これは、死後も永遠に神様の愛の中に生きることが保証された命ですので、永遠の命とも言われます。
他方霊的な命を失ったままの者は、死後神様の聖なる怒りのもと生き続けなければならないと教えています。これが永遠の死と呼ばれ、古今東西人間が恐れ続けてきた「死の恐怖」の正体はこの永遠の死とも教えられます。
 今日取り上げたヨハネの福音書第11章は、所謂ラザロの復活と呼ばれ、死と命がテーマです。ですから、その背景となる聖書の考え方を最初にざっとご紹介させていただきました。これらのことを皆様の心の片隅に留めて頂き、ともに読み進めてゆきたいと思います。
 今日の舞台はユダヤの都エルサレムの近くにあるベタニヤ村。登場人物はマルタ、マリヤ、ラザロの仲良し三人姉弟。しかし、一番年下の弟ラザロが重病を患い床に伏していたため、皆が悲しみ、心を痛めていたというのです。

 11:1~3「さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。『主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。』」

 三人は揃ってイエス様の弟子。しかも、熱心な弟子であったらしく、主イエスの体に高価な香油を塗り、足を髪の毛で拭ったというマリヤの献身的な姿を描くエピソードが添えられています。また、ベタニヤ村が都に近いこともあり、イエス様がしばしば三人兄弟の家を食事や休息のために用いた様子が他の福音書に記されていますが、こうした際はお姉さんのマルタが大活躍。忙しく立ち働いたようです。
 このような交わりの中、イエス様と彼らの間に自然と親愛の情が生まれました。そして、ラザロ最早起き上がれずという事態になったからでしょうか。二人の姉は使いを遣わし、「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」と伝えたのです。
 この時、マルタとマリヤが「主よ。あなたが愛しておられる者を癒すため、すぐに来てください」と願わず、「あなたが愛しておられる者が病気です」と事実のみ伝えたのは何故だったのでしょうか。
 この状況を伝えさえすれば、イエス様なら自分たちの思いもよく汲み取った上で、ラザロのために最善のことをしてくださる。彼女たちがそう心から信頼していたからと考えられます。表現は控えめでも、厚い信頼のこめられたことば。この様なお祈りもまた良しと感じられます。
 そして、マルタとマリヤの思いはイエス様の心に確実に届きました。

11:4~6「イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではな。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた、そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」

「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです」。これはこの後、ベタニヤ村でラザロを復活させ、イエス様が永遠の命の主であることを示す奇跡を、さらには信じる者すべてに永遠の命を与えるため、人類の罪を背負って十字架に死ぬことを預言するものでした。
ラザロ復活は、ヨハネの福音書に記された七つの奇跡中最後にして最大の奇跡。イエス様は神の子としての栄光を最も鮮やかに示すわざを、愛するラザロを用いて行うと言われたのです。これによって、ラザロの名もまた聖書を読む者の心に残ることとなりました。
しかし、不思議なのはイエス様の行動です。ラザロ重病の知らせを耳にしながら、なお二日ヨルダン川東の地にとどまったというのです。この地からベタニヤまでは徒歩で一日。ならば少しでも急げば良いと思われるのに、何故二日とどまったのか。
これは、当時ユダヤの社会において、死者の魂は三日間元に体に戻ろうとするという考え方が一般的にあったためと思われます。つまり、イエス様は三日の間をおき、死後四日経ってベタニヤ村に入り、完全にラザロは死んだと人々が考える状況のなかで、復活の奇跡を行なうお積りだったということです。イエス様の願いは、ただひとえに人々が真の救い主としてイエス様を信じ、永遠の命に生きることでした。
二日後。イエス様は満を持してユダヤへ出発しようと弟子たちに声をかけます。

11:7~10「その後、イエスは、『もう一度ユダヤに行こう。』と弟子たちに言われた。
弟子たちはイエスに言った。『先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。』イエスは答えられた。『昼間は十二時間あるでしょう。だれでも、昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。しかし、夜歩けばつまずきます。光がその人のうちにないからです。』」

 弟子たちが反対した気持ちは理解できます。ユダヤは都エルサレムがある地方。イエス様を石打で殺そうとした人々の勢力が盛んな場所です。そんなところに行ったら、飛んで火にいる夏の虫。そんな行動弟子たちには到底賛成できませんでした。
 そこで、弟子たちの心配を鎮めるため、イエス様は「太陽の光ある昼間歩けばつまづくことはないが、光なき夜歩けばつまづく」という当時の格言、ことわざを引かれたのです。「心配しなくても良い。昼間の12時間、つまり父なる神の使命を果たす間は、誰もわたしのすることを邪魔できないから」とのメッセージでした。
 さらに、わたしたちの大切な友とラザロを呼び、親愛の情を示されたイエス様は、ラザロを眠りから覚ましに行きたいと弟子たちを励ますのです。

 11:11~15「イエスは、このように話され、それから、弟子たちに言われた。『わたしたちの友ラザロは眠っています。しかし、わたしは彼を眠りからさましに行くのです。』そこで弟子たちはイエスに言った。『主よ。眠っているのなら、彼は助かるでしょう。』しかし、イエスは、ラザロの死のことを言われたのである。だが、彼らは眠った状態のことを言われたものと思った。
  そこで、イエスはそのとき、はっきりと彼らに言われた。『ラザロは死んだのです。わたしは、あなたがたのため、すなわちあなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。』」
 
初代キリスト教会では兄弟姉妹の死を眠りと言う習慣がありました。死を婉曲に伝えると同時に、眠りから目覚めることを将来の復活になぞらえてのことでした。その源はこのことばにあったのかもしれません。
 しかし、この時弟子たちはイエス様の意図を取り違え、文字通りラザロは眠っているのだとしたら、私たちが行かなくても助かるでしょうと答えたのです。そこで、「ラザロは死んだのです」と念を押したイエス様は、「わたしが危険を承知でベタニヤ村に行くのは、あなたがたの信仰のためなのです」として、またも心鈍い弟子たちへの配慮をお示しになりました。けれども、そんなイエス様のご配慮にもかかわらず、自暴自棄とも思えることばを吐いた弟子がいたのです。

 11:16「そこで、デドモと呼ばれるトマスが、弟子の仲間に言った。「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。』」

 トマスは物事を否定的に受け取るタイプの人だったようです。ここでは、心配をよそにユダヤに向かうイエス様にあきれ、「そんなに言うんなら仕方がない。俺たちも一緒に行って死に花を咲かそう」と口にしました。やがて後にイエス様が復活した際、その場に居合わせなかったトマスは、「私はイエス様の体の傷をこの目で見るまでは信じられない」と他の弟子たちの証言を否定。その喜びに水をさすことになります。
 しかし、伝承によれば、そんな否定的、消極的なトマスが何と東方のインドまで宣教に出かけたと言うのですから驚きます。
他の弟子たちも含めて、やがて復活の主イエス様に出会った人々は身の危険も顧みず、宣教に励むことになります。そんな弟子たちは、この時自分たちの反対にもかかわらず、ベタニヤ村でイエス様が示した永遠の命の主としての栄光をしっかり心に刻んでいたと思われます。死後の復活と永遠の命を確信した弟子たちの力強い生き方は、この様なイエス様のご熱心によって生まれたものだからです。
さて、こうして読み終えたラザロの復活を記す第11章の導入の場面。私たちが心に刻みたいのは、ラザロを死から復活させるため身の危険も顧みずベタニヤ村に向かったイエス様のお姿です。
「イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」とヨハネは語り、「わたしたちの友ラザロ」とイエス様は呼び、「さあ、彼のところに行きましょう」と弟子たちに告げました。
場所は離れていても、イエス様がラザロのことをいかに心にかけておられたか、どれほど病に苦しむラザロを思っておられたか、死んだラザロを復活させるため如何なる犠牲も払う覚悟であられたのか。その尊く、熱い愛の心が伝わってくる気がします。
そして、私たちもまたラザロと等しくイエス様の心にかけて頂き、ラザロと等しく思って頂き、ラザロと等しく愛されていることを確信したいのです。また、病に苦しむ時、死の床に伏す時、「さあ、行こう」と、私たちに近づいてきてくださるイエス様を思いたいのです。
「イエスはラザロを愛しておられた」、「わたしの大切な友ラザロ」「さあ、ラザロのところに行きましょう」。ラザロとあるところに自分の名を入れ、イエス様の愛、イエス様のご臨在を日々覚えながら、歩む者でありたいと思います。

Ⅰヨハネ 4:9「 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」