2014年3月2日日曜日

ヨハネの福音書10章22節ー42節 「羊はわたしの声を聞き分け」

 指揮者は一度に様々な楽器が演奏されるシンフォニーを指揮しながら、一人の演奏者の音の狂い、違いを耳で聞いて判断できるそうです。また、打音検査士と呼ばれる職業があり、この人々は缶詰を叩いた音を聞いて、中身が何か、その量や、腐っているかどうかまで分かるのだそうです。
 これら音を聞き分ける聴覚の達人は左脳の聴覚野が発達し、脳の溝が深く、脳細胞が密集しているとのことで、音楽家のバッハなどは頭蓋骨が変形するほど聴覚野が発達していたと言われます。
 この様に音を聞き分ける脳は訓練で発達させることが可能で、例えば、目隠しをして机の上に1円、5円、10円、50円、100円、500円玉を落とし、音の違いを聞き分け、当てるという方法があります。私もやってみました。500円玉、1円玉は案外簡単ですが、10円、50円、100円の落ちる音は結構難しいものです。
 また、私たちの耳は意識せずして心地よい音と不快な音、雑音を区別していますが、これは聞きなれているかいないかに、大きく左右されるとされます。いつも聞き慣れている音は心地よいのでよく聞こうとし、聴きなれていない音は不快に感じ、耳を閉じてしまうということです。
 今日のヨハネの福音書第10章は、イエス・キリストが牧者、羊飼いに、キリストを信じる者が羊に譬えられている箇所でした。自ら身を守るものを持たない羊にとって自分の羊飼いの声を聞き分けられるかどうかは生きるか死ぬかの生命線。それと同じく、私たちもイエス・キリストのみ声を聞き分けられるかどうかが、霊的に生きるか死ぬかの生命線と教えられるところです。
 さて、ヨハネの福音書後半の舞台はユダヤの都エルサレム。時は冬12月の事でした。

10:22~24「そのころ、エルサレムで、宮きよめの祭りがあった。時は冬であった。イエスは、宮の中で、ソロモンの廊を歩いておられた。それでユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。『あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。もしあなたがキリストなら、はっきりとそう言ってください。』」

宮きよめの祭りは、イエス様の時代を遡ること200年ほど前、神聖な宮に、当時ユダヤを支配していたシリアの王が異教の偶像を据えたのに対し、ユダ・マカバイオスという英雄が戦いを挑み、みごと偶像を追い払い、宮をきよめた出来事を記念して、祝われてきたもの。有名な過越しの祭りほど歴史は古くありませんが、ユダヤ人が異邦人の支配を一時的にせよ打ち破ったという点が人々の心に残ったのでしょう。当時、大変人気があった祭りと言われます。
しかし、それ以来ユダ・マカバイオスのような英雄はトンと現れない。むしろ、シリヤよりも強力なローマの支配の下に苦しむ人々は、武力でローマを倒し、ユダヤを繁栄に導く王のような存在をキリスト、救い主として期待するようになりました。
そこに現れたイエス様。様々な奇跡を行い人気も絶大なのに、いっこうに地上の王のような活動をなさらない。武器も取らず、部下も持たない。ただ「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」というばかり。自分たちは良い羊飼いではなく、強力な王様のような救い主を期待しているのに。イエスという人は一体何を考えているのやら。
そんなじれったい思いを抱く人々が、「もしあなたがキリストなら、はっきりそう言ってください。」と迫った場面です。その様な人々に対して、わたしはもう十分話したし、父の御名によってわざ、奇跡をも行なってきた、問題は信じないあなたがたにあるとイエス様は答えます。

10:25~27「イエスは彼らに答えられた。『わたしは話しました。しかし、あなたがたは信じないのです。わたしが父の御名によって行なうわざが、わたしについて証言しています。しかし、あなたがたは信じません。それは、あなたがたがわたしの羊に属していないからです。わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』」

わたしが与える水は永遠のいのちへの水。わたしを信じる者は永遠のいのちを持つ。わたしは父なる神とともに働く者。わたしがいのちのパン。わたしは世の光。わたしは良い牧者。イエス様は様々な表現でご自分がキリストであることを話してきました。
また、一瞬で病む者を癒し、ひとことで死人を生き返らせ、風と波をただちに静め、五つのパンと二匹の魚を増やして六千人を満腹させる。父なる神の御名で行なわれたこれらの奇跡も、イエス様が神から遣わされたキリストであることを雄弁に物語っていたのです。
イエス様のことばとわざ、ことばと行動。こんなにも明々白々なしるしを耳にし、目にしながら、イエス様を救い主と認めず、信じようとしないユダヤ人たちの頑固さはどこから来たのでしょうか。自分が罪の誘惑に対して、羊のように弱い者であることを認めようとしない高慢。自分の魂は自分で守り養えるとし、羊飼い等いらないと考える自己信頼。そしてイエス様への反発でした。
聖書の神様はこの世界を創造した神。人間を愛してやまない人格的な神。そのような神様に対する人間の最大の罪は、神様に心から信頼しないこと。そう聖書は教えています。ユダヤ人たちのイエス様に対する態度は、まさに彼らが罪の中にあることを示しています。
それに対して、自分を羊、イエス様を羊飼いとして信頼する者は、「わたしの羊」と呼ばれています。羊は動物たちの中で無防備なもののひとつ。最高の羊であっても、弱く愚かで、道に迷い易いといわれます。
そんな羊にとって草むらや水辺に導き、敵と戦い命を守ってくれる羊飼いの存在は絶対に必要なもの。自分たちの無力、弱さ、性格や傷の一つ一つを知り尽くしている羊飼いへの信頼こそ生命線でした。このような意味でイエス様を羊飼いとし、自分を羊と認める者が「わたしの羊」と呼ばれたのです。
そして、イエス・キリストの羊に与えられる賜物は、その声を聞き分ける能力と永遠のいのちでした。他にどんな声がしても、キリストの羊はキリストの声を聞き分けるし、どんなに暗い谷間に落ちても、キリストの羊はキリストの守りを信頼して、心安らかに歩むことができる。皆様は、ご自分がイエス様のみ声を聞き分ける耳と永遠のいのちを与えられていることを自覚しているでしょうか。
この二つの賜物については、最後にもう一度触れることとし、次に読み進みます。

10:29,30「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。わたしと父とは一つです。」

イエス様に信頼する者の魂はイエス様の手に守られるばかりか、父なる神様の手に守られ安全、安心というおことばです。子どもがお父さんの手とお母さんの手に守られて平安であるように、私たちの魂も優しいイエス様の手と、力強い天の父の手に守られ、決して奪い去られず、滅びない。この上ない平安を感じさせてくれる宣言でした。
しかし、この時イエス様が発した「わたしと父とは一つです。」とのひとことが、ユダヤ人の反発心に油を注ぐこととなりました。わたしと父とは同じ神であり、同等の存在と言われたイエス様を怒り、彼らは石を取り上げたのです。

10:31~33「ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、また石を取り上げた。
イエスは彼らに答えられた。『わたしは、父から出た多くの良いわざを、あなたがたに示しました。そのうちのどのわざのために、わたしを石打ちにしようとするのですか。』
ユダヤ人たちはイエスに答えた。『良いわざのためにあなたを石打ちにするのではありません。冒涜のためです。あなたは人間でありながら、自分を神とするからです。』」

 ユダヤ人の怒りがどれ程凄まじいものか。先ず裁判という通常の手続きをすっ飛ばし、いきなり石打即ち死刑を執行しようとしたことから、その凄まじさが伺われます。しかし、流石に彼らもイエス様のなした良いわざを否定することはできず、「わたしと神とはひとつです」とのことばを捕え、神を冒涜する者とレッテルを貼って抹殺しようとしたようなのです。
 しかし、神様が人間を神と呼んだ例なら旧約聖書にもあると反論し、イエス様は急所を突きました。
 10:34~38「イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。もし、神のことばを受けた人々を、神と呼んだとすれば、聖書は廃棄されるものではないから、『わたしは神の子である。』とわたしが言ったからといって、どうしてあなたがたは、父が、聖であることを示して世に遣わした者について、『神を冒涜している。』と言うのですか。
もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」」

「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。」とある中の律法は旧約聖書の詩篇を、わたしは神を、あなたがたはユダヤの国を治める王を指しています。
神様が、国を治めるという尊い働きを委ねたので人間の王を神と呼んだとするなら、それ以上に尊い働きのために父なる神様から世に遣わされたわたしが、自分を神の子と言ったからといって、どうして神を冒涜することになるのか。その様な反論です。
さらに、それでもわたしの言うことが信じられないなら、わたしのわざを信用しなさい。それこそ、わたしと天の父がひとつであることの証拠ですからと語り、心頑なな人々のため忍耐強く説得を続ける姿に、自分を殺そうとする者にも心尽くしてやまないイエス様の愛を思い、心打たれます。
「父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。」様々なわざ、所謂奇跡もそうですが、この様な奇跡的な愛、愛の行動こそ、イエス様が正に神様であることの尊く、強力なしるしではないでしょうか。しかし、この懸命の愛もユダヤ人の心に通じることなく、逆に捕われる危険が迫ったため、イエス様は彼らから逃れざるをえませんでした。

10:39~42「そこで、彼らはまたイエスを捕えようとした。しかし、イエスは彼らの手からのがれられた。そして、イエスはまたヨルダンを渡って、ヨハネが初めにバプテスマを授けていた所に行かれ、そこに滞在された。多くの人々がイエスのところに来た。彼らは、「ヨハネは何一つしるしを行なわなかったけれども、彼がこの方について話したことはみな真実であった。」と言った。そして、その地方で多くの人々がイエスを信じた。」

イエス・キリストを拒む人あれば、信じる人あり。エルサレムの都を逃れバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場所に戻ると、そこでヨハネの証を聞いていた人々がイエス様を救い主として受け入れたというのです。
イエス様のことばも奇跡もじかに聞き、見ていた都の宗教指導者は信じず、ただバプテスマのヨハネの証を聞いただけの田舎人がイエス様を受け入れる。やはり、自分を霊的に無力であることを認めない高慢な者と、心低く自分を一匹の羊と認める謙遜な者。神様の前における心のあり方が大切なのだと思わせる。そんなエピソードです。
さて、こうして読み終えたヨハネの福音書第10章の後半。最後に確認したいことが二つあります。
ひとつは、イエス様が十字架にいのちをかけて与えてくださった永遠のいのちを、私たちはどれ程知り、味わっているだろうかということです。
すべての罪赦され、それにも関わらず罪の力に対して実に弱く、無力な自分の存在を丸ごとイエス様に受け入れてもらっているという安心を覚えるいのち。どのような状況でも、イエス様がともにいてくださり、守ってくださっているという平安を受け取るいのち。このイエス様とともに生き、イエス様の栄光を表すために考え、行動したいと願ういのち。皆様はこの様ないのちが自分の中にあることを知っているでしょうか。それを味わっているでしょうか。
イエス・キリストを信じた者は死後天国に行ける。これも永遠のいのちです。しかし、イエス・キリストを信じる、イエス・キリストの羊はみな、今、この世で永遠のいのちを与えられていることを自覚したいのです。
ふたつめは、この様な永遠のいのちを味わうために、私たちはイエス・キリストのみ声を聞き分ける必要があるということです。イエス・キリストを信じた時その様な能力を与えられたのですから、それを訓練し高めてゆきたいと思うのです。
最初にお話したように、神様が造ってくださった耳は訓練することによって、様々な音を聞き分ける能力を高めてゆくことができます。そして、効果的な訓練の一つは聞くべき音や声を何度でも聞くこと、聞き続け、聞き慣れたもの、快いものにしてゆくことでした。
一日24時間。私達の耳は様々な音や声を聞いています。自分の内なる声、新聞やテレビを通して聞こえてくる社会の声、身近にいる友人や仲間の声。私たちが聞く声は心に入り、わたしたちの考え方、生き方に大きな影響を及ぼしています。
しかし、私たちが最も影響を受けるべきは、みことばを通して語りかけてくださるイエス・キリストのみ声ではないでしょうか。私たちを悪の誘惑から断ち切る、戒めのみ声、私たちを失望、落胆から引き上げてくれる約束のみ声。「わたしがあなたとともにいる」というご臨在のみ声。不安を静め、平安を覚えさせてくれる愛のみ声。
聖書を読み、みことばから真の羊飼いなるイエス・キリストのみ声を聞く。聞き続ける。聞きなれ親しみ、快いものにしてゆく。そして折に触れて兄弟姉妹とその恵みを分かち合う。私たちの教会のおひとりおひとりが、日々そのような歩みを為すことができたらと思います。→今日の聖句、詩篇100:3