2014年8月31日日曜日

ウェルカム礼拝 ヨハネ4章13、14節 「喜び上手な人に」

 キリスト教の教えの中に、基本中の基本と言える教えが二つあります。一つは、この世界を造られた神様がいること。空間も時間も法則も、地球も宇宙も、私たち人間も、この方によって造られた。キリスト教が教えている神とは、世界の造り主のことです。もう一つは、その神様から私たち人間に、聖書が与えられていること。聖書は世界の造り主から私たちへのメッセージです。
 世界の造り主なる神様がいること。その方から私たちにメッセージが届いていること。今日の聖書の話は、この二つの教えを前提として進めたいと思います。この二つの教えについて、疑問がある、質問したい、詳しく聞きたいという方は、牧師のところに来て頂ければ、個別にお話ししたいと思いますが、今のところは、この二つのことを前提として話を聞いて頂ければ嬉しく思います。

 ところで皆様は、「自分はどのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」考えて生きているでしょうか。「自分はどのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」これは人生を生きる上で重要な問いだと思いますが、一般的に現代の日本は、このようなことを考えない人が多いと言われています。
 このようなことを考えなくても生きていける環境があるからなのか。目を惹く娯楽が山ほどあり、それらを楽しむので十分と感じているからなのか。忙しすぎて、そのようなことを考えている余裕がないからなのか。世界の中でも、特に今の日本は、「自分はどのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」考えない人が多いと言われています。
 聖書は神様から私たちへのメッセージが記されている書。聖書には、私たちがどのように生きるべきなのか、何を大切にして生きたら良いのか、様々な表現で記されています。この特徴を強調して言うならば、聖書は人間の取り扱い説明書です。「どのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」考えない人が多い国にあって、人間の取り扱い説明書である聖書を読むことは大事なことです。

 何か新しい物を買った時、説明書をよく読むという人もいれば、殆ど読まないという人もいます。異常に分厚い説明書を前に、読む気をなくすこと、説明書の説明書が必要ではないかと思うことがありますが、とはいえ、その物を大事に安全に、その能力を最大限使いたいのであれば、説明書を読むことは大事です。
 皆様は、説明書を読まずに、失敗した経験はあるでしょうか。私が小学生の時。焦げ付かないフライパンとして、テフロン加工のフライパンがテレビのCMで宣伝されていました。夏休みで、祖父母の家に行った時、そのCMを見た祖母が、試しに買ってみようと言い購入することに。買ったばかりのテフロン加工のフライパンで、祖母が野菜炒めを作ったのですが、「これはダメだ」と言うのです。「どうしたの」と聞くと、野菜を入れる際に、包丁がフライパンに当たった部分が焦げたと言うのです。しかし、側に置いてある説明書の最初の部分に、大きな文字で、「包丁などの硬い器具で表面を傷つけないで下さい。」と書いてありました。小学生の私をして、いくら大好きな祖母だとしても、これは祖母が悪いと思った出来事です。
 買ったばかりのフライパンが、すぐにダメになる。勿体なく思いますが、それでもこれはフライパンの話。これと同じことが、人間にも起こる。私たちにも起こるとしたら、勿体ないではすみません。しかし、聖書は人間の取り扱い説明書だとすれば、同じことが起こりうるのです。聖書を読まずに生きる、聖書に従わないで生きる時、私たちの人生はひどく勿体ない状態になることがある。説明書を読まないために、私たちの人生が、傷つき、壊れること。喜びに満ちた歩みがあるのに、それを知らない人生となることがあります。

 それでは、私たちはどのように生きるべきなのか、聖書には具体的にどのように書いてあるのでしょうか。いくつもの箇所を例に挙げることが出来ますが、例えば「十戒」という名で知られる有名な教えがあります。特に人に対して、どのように生きるべきなのか、その一部分を挙げると、
 出エジプト記20章13節~15節
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。」

 何も特別なことではない。当たり前のことではないかと思われるでしょうか。その通り。聖書には、道徳的、倫理的に当たり前のことも書いてあります。(とはいえ、怒りや憎しみがあるわけではない、ただ殺したいから殺すという殺人事件が起こり、不倫をしていても大きな問題ではないという風潮があり、次々に生み出される新たな手法の詐欺があります。殺人、不倫、盗みをしてはいけないのは、当たり前と言いきれない状況になって来ているとも言えます。)
 ところで、取り扱い説明書にしてはならないと書いてあることをした場合、どうなるでしょうか。その物が劣化する。壊れる。有害な出来事が起こる場合もあります。聖書が人間の取り扱い説明書ならば、そこに記された、してはならないことをするというのは、私たちの人生が劣化し、壊れ、有害な出来事が起こるということ。私たち自身が壊れていき、他の人に有害な存在となることがあります。
 「包丁などの硬い器具で表面を傷つけないで下さい。」とあるのに、それをしたら、焦げないフライパンが劣化するように、殺人、姦淫(不倫)、盗みをする時、私たちの人生が傷つき、良い可能性を潰すことになるのです。

 聖書の中には、このような「~してはならない」という制限をかける表現の教えもありますが、より積極的、「~をしなさい」と教える聖書箇所もあります。
 Ⅰテサロニケ5章16節~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 この言葉も非常に有名な聖書の言葉。「喜び」「祈り」「感謝」に取り組むようにと教えらています。ここでは三つのこと「喜び」と「祈り」と「感謝」が並んでいますが、今日は礼拝のテーマに合わせて、この中で特に「喜び」に焦点を当てて、考えを深めたいと思います。
 人間の取り扱い説明書に、「喜ぶように」とある。それはつまり、私たちにとって「喜ぶ」ことは造られた目的に沿っていることであり、それに取り組むことは私たちにとって有益。反対に言えば、私たちが喜ぶことに取り組まないとしたら、それは自分にとって良くないこと。危険なことだと言えます。
 これまで「喜ぶ」ことにどれ位、取り組んできたでしょうか。この一週間、喜んで生きてきたでしょうか。聖書が、「喜ぶ」ことを大事なこととして教えていたことを知っていたでしょうか。その教えを真剣に受けとめてきたでしょうか。聖書はこれ以上ないほど明確に、「喜びなさい」と教えています。その教えを真剣に受けとめて、私たち皆で喜ぶことに取り組みたいと思います。

ところで、皆様はどのような時に喜びがあるでしょうか。何に喜びを感じるでしょうか。「喜び」と言っても、色々な喜びがあります。
 一つは、「人によって異なる喜び」です。私の妻はウィンドウショッピングが好き、私は嫌いということがあります。ある人は運動するのが好き、ある人には苦痛。ある人は温泉が好き、ある人は苦手。などなど、快いと感じる状況は人によって異なります。
自分にとって喜びを感じることは何なのか、自分らしい喜びとは何か。把握しておくのは大事なことです。

 「共通する喜び」もあります。時代、地域、文化、民族に関係なく、基本的には全ての人間に共通する喜び。何だと思うでしょうか。それは「愛すること」です。聖書によれば「愛すること」が私たちが造られた目的の中心。造られた目的に沿って生きる時、私たちには大きな喜びがあります。

 「喜ぶべきでない喜び」もあります。これは喜んではいけない。何だと思うでしょうか。聖書の表現で「肉の行い」と言われるもので、不品行、好色。敵意、争い、ねたみ。酩酊、遊興。などなど。(ガラテヤ5章19節~21節)これらは喜ぶべきでないことでした。(聖書全体から、喜ぶべきでない喜びを他にも多数挙げることが出来ます。)不倫の関係を楽しむ。風俗通いが喜びである。人の悪口を止められない。危害を加える妄想にふける。我を忘れる程、お酒を飲むのが好き。あるいは薬物に手を出す。仮にこのようなことが喜びだと感じたとしても、それは喜ぶべきことではありません。喜びだと感じること自体、問題とも言えます。

 さらに聖書によりますと「永遠の喜び」があると言います。永遠の喜び。つまり、それを持っていれば、どのような状況、状態でも喜ぶことが出来る。変わらない喜び、失われない喜びです。
 変わらない喜びがあるというのは、聖書で教えられなければ、信じがたいことです。私たちが持っている喜びは、条件が付いています。自分の好きなことをしているから。快い状況の中にいるから喜びがある。愛する人と良い関係の中にいるから喜びがある。これらの喜びは、そうでなくなると失われるものです。
 しかし聖書は、変わらない喜び、失われない喜び、永遠の喜びがあると言うのです。
 ヨハネ4章13節~14節
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」

 井戸のそばで、私たちの救い主イエス・キリストと女性が話している場面。水には二種類ある。飲んでもまた渇く水と、飲むと渇くことのなくなる水です。井戸から沸き出てくる水を前に、物質的な水のことだけでなく、霊的なこと、信仰的なことを話されている場面。これまでの話に合わせて言うならば、飲んでもまた渇く水とは、条件付きの喜び、なくなりうる喜び、感情的な喜びです。飲むと渇くことのなくなる水とは、永遠の喜び、変わらない喜び、失われない喜びです。
 ここでイエス様は、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」と言われています。つまり、永遠の喜び、変わらない喜びはあるということ。そして、それは私たちが作りだしたり、生み出したりするものではない。「わたし」が、イエス様が私たちに与えるものだと言われています。
 聖書は人間の取り扱い説明書。その聖書が私たちに教える重要な生き方は、イエス・キリストという救い主を知り、信じること。イエス様より、渇くことのない水、変わることのない喜びを貰うことでした。皆様は、このような聖書の教えにどのように向き合うでしょうか。

 以上、聖書は私たちに喜ぶことを非常に大事なこととして教えていること。しかし、喜びと言っても、色々な喜びがあることを確認しました。これらのことを踏まえて、喜び上手な人になるために、どのようなことをしたら良いのか。喜ぶことへの取り組みについて考えたいと思います。

 最初に取り組みたいことは、自分の喜びは何か考えることです。それぞれに異なる喜びがあるので、自分の喜ぶことを把握する必要があります。また、喜ぶべきでないことを自分が喜んでいないか。確認する必要もあります。
自分らしい喜びはこれだと言える人がいます。少し考えれば、すぐに出てくる人もいます。しかし、そのような方々でも、もっと考えれば新たな発見があるかもしれません。自分らしい喜びはこれですと、なかなか言えない人もいます。それでも焦らずに、自分らしい喜びを見つけることに取り組んで下さい。

 自分らしい喜びを把握したら、次に取り組むのは、その自分らしい喜びを味わう時間を、一日のうちで持つこと。愛する時間を持つこと。あるいは、一週間のうち一日は、喜びの日とすることです。
毎日を生きるのに忙しい私たち。「あれもしなければならない。これもしなければならない。」と自分で決めて、喜ぶための時間を後回しにしがちです。「喜びなさい」と教えられていますので、私たちは積極的に喜ぶための時間を確保すべきです。
 少し前のこと。娘とお風呂に入りながら楽しく遊んでいました。その時、私の頭にあったのは、「この後お風呂を出て、娘の髪を乾かし、歯を磨き、家庭礼拝をする。娘が寝たら、妻との時間を持ち、妻が寝たら、今日中にやっておきたかったあれやこれやに取り組む。」と、自分で決めたスケジュールでした。そのため私の口から出た言葉は、「急いで体を洗って、お風呂から出よう。」でした。楽しく遊んでいたのに、急に「急いで体を洗って、お風呂から出よう。」と言われた娘は、「なんで?」と聞いてきたのです。
 この時の娘の「なんで?」というのはとても良い質問です。娘にはそのような意図はないでしょうが、私にとっては、娘との喜びの時間と、自分のスケジュールと、どちらが大事なのかと問われたのです。勿論、好きなだけ喜びの時間をとることは出来ません。やるべきことに取り組む時間も大事です。しかし、多くの場合、喜ぶための時間を持つことを意識しないと、私たちは愛するための時間、喜ぶための時間を後回しにしてしまいます。「喜びなさい」と教えられていることを覚えて、私たち皆で、喜ぶための時間、愛するための時間を持ちたいと思います。

 喜び上手な人となるために、喜びの達人と時間を過ごすことも良いと思います。皆様の周りで無理なく、いつも喜んでいる人いるでしょうか。喜びの達人と聞いて、頭に浮かぶ人は誰でしょうか。私は四日市キリスト教会の中で、思い浮かぶ人が多くいます。(本当は牧師である私が、そのような人になりたいのですが、残念ながら、私が教会員の方から良く言われるのは「疲れていますね。大丈夫ですか。」です。)
喜びの達人と一緒にいると、何が喜びなのか新たな発見があり、喜ぶことの大切さを体験出来、また自分からも自然と喜びが出てきます。自分が思う喜びの達人と、時間を過ごすことに取り組みたいと思います。

 喜び上手な人となるために。もう一つ取り組みたいことは、永遠の喜び。変わらない喜びを、イエス様から貰うことです。聖書は、自分の力では得ることの出来ない喜びがある。この救い主から貰うしかない喜びがあると教えています。本当に喜び上手な人を目指すならば、この喜びを得ることはとても大事。
聖書のこと、イエス・キリストのことを知らない。永遠の喜びと聞いても分からない。しかし、変わらない喜び、尽きない喜びがあるなら、それを味わいたいという方がいらっしゃるでしょうか。
 聖書の言う永遠の喜び、変わらない喜びは間違いなくあります。どのようにしたら、それをイエス様から受け取れるのか。お伝えしたいと思いますので、引き続き教会に来て頂ければ大変嬉しく思います。自分を誘った方に詳しく聞くのも良いでしょう。牧師のところに、聞きに来て頂くのも良いです。永遠の喜び、変わらない喜びを、イエス様から受け取ることを、心からお勧めいたします。
 すでにイエス様から、永遠の喜び、変わらない喜びを貰っている方々。クリスチャンの皆様。自分がどれ程大きな恵みを頂いているのか。ともに再確認しましょう。罪赦され、清い生き方が出来る命。どのような時でも、神様とともに歩むことが出来る命。全てのことが益とされると信頼出来る命。永遠の命とも、新しい命とも呼ばれる、この永遠の喜びを私たちは頂いているのです。その永遠の喜びを、ともに喜びたいと思います。
 これらのことに取り組みながら、私たち皆で、喜び上手な人になりたいと思います。

2014年8月24日日曜日

ヨハネの福音書14章12章-21節 「もうひとりの助け主」

 今NHKで「芙蓉の人」と言うドラマが放映されているのをご存知でしょうか。今から120年前の明治25年、富士山頂に私財を投じて観測所を作った野中到、千代子夫妻の物語です。当時「当たるも八卦、当たらぬも八卦。当てにならない」と酷評されていた天気予報をより正確なものとするため、富士山頂における冬期気候観測を命がけで行った野中到と、それを助けた千代子夫妻の絆が描かれ、心打たれます。
芙蓉とは雪に覆われた美しい富士山を白い蓮の花に重ねた言い方ですが、芙蓉の人と言われた千代子の生き方は凄いものでした。その頃は封建的な男尊女卑の時代。夫から「足手まといだから来るな」、「職場に女房など連れて行けないから、ついて来るな」と反対される。姑からは「嫁は家を守るべき」と釘を刺される。役人からは「女性の冬の登山など認められない」と禁止され、世間からも冷たい視線をむけられる。
その様な状況のなか、千代子と言う人は「夫の事業を助けたい」、「愛する人のそばにいき、助けになりたい」という意思を貫いて富士山頂に登り、高山病に苦しみながらも、世界初とされる冬期気候観測をやり遂げたと言うのです。
今日の箇所。妻千代子が助け手となって夫到の事業が成し遂げられたように、私たちのクリスチャンとしての歩みもまた、聖霊の神様が助け手として与えられることで初めて完成するものであることを教えられます。
私たちが読み進めているのは、ダビンチの絵で有名になったイエス・キリストと弟子たちの最後の晩餐の場面。その席上、ご自分がこの世を去ってゆくことに不安を覚え、心弱らせる弟子たちを思い遣ってイエス様が語られた惜別説教と言われるところです。
先回、イエス様は弟子たちに、ご自分がこの世を去ってゆくのは、天の父の家にあなたがたの住まいを用意するためと語り、彼らの心をやがて来るべき天の御国へと向けられました。今日の箇所では、彼らにもたらされる祝福はそれにとどまらず、何と彼らがイエス様よりもさらに大きなわざを行うと約束されたのです。

14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

この驚くべき約束は、イエス様がこの世を去った後実現します。彼らは、イエス様と同じく病人を癒し、死人を生き返らせる奇跡を行い、人々に神の国の到来を告げたのです。それも、「さらに大きなわざ」と言われている様に、イエス様の活動がユダヤの国にとどまっていたのに対し、弟子たちの活動と影響力はローマ帝国に住むあらゆる民族へと、広がって行きました。
しかし、彼らに与えられる祝福はそれにとどまりません。イエス様の名によって祈り求めることは、何でもかなえて頂けるという約束も付け加えられたのです。

14:13~15 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

  人類の罪を贖うため十字架に死ぬという天の父のみ心を成し遂げたら、わたしは栄光を受けて天に昇る。そこで、地上にいるあなたがたが祈り、求めることを天の父にとりなし、確実に実現に至らせることができる。だから、わたしが世を去ることは、あなたがたのために益となり、祝福となる。そんなメッセージがここに聞こえてきます。
 私たち個人の名で、私たちの名義で、神様に直に何かを求める資格は私たちにはありません。しかし、私たちの代わりにイエス・キリストと言う、神様のみ心を完全に成し遂げたわたしの名義であれば何事でも聞いていただけると思ってよい、そう思って安心してよいとの約束でした。
 果たして、私たちはこの様な恵みを心から感謝しているでしょうか。この様な特権を大いに活用して、何事であれイエス・キリストの御名で祈り求めているでしょうか。それとも、この様な尊い権利をほったらかし、無駄にしてはいないか。自分自身の祈りの生活を振り返りたいところです。
 ただし、求めることは何でもかなえられるではなく、イエス様の名によって求めることは何でも、と言われていることに注意したいと思います。社会一般でも、私たちが人の名義を借りるという場合、名義を貸してくださる人が同意し、承知していることしかできないのが普通です。ですから、イエス様の名で、イエス様の名義で祈り求めるとは、イエス様の示された教えにかなったことを祈り求めると言うことになります。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言うことばによって、私たちは自分の祈りが自分勝手でわがままなものにならぬよう戒めたいと思います。同時に、イエス様への愛とイエス様に従う心から祈り求める者となるよう励まされ、整えられたいと思うのです。
しかし、地上に残る弟子たちを思い遣り、語られたイエス様のことばを、弟子たち自身はどう受け止めたのでしょうか。恐らく、理解できない部分が相当あったと考えられます。特に、イエス様のわざよりもさらに大きなわざを行うことになるとの約束に至っては、「自分たちがその様なことを実現できるはずもない」と考え、信じてはいなかったと思われます。
その様な弟子たちの心を知っておられたのでしょう。イエス様は、世を去るご自分に代わって、もうひとりの助け主が与えられると告げられたのです。

14:16、17 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ここに登場する助け主ということばは、助けや弁護を必要としている人の傍らに呼び寄せられる者と言う意味があります。他の聖書を見ますと、弁護士、ヘルパー、友人などとも訳されています。つまり、苦しみ悩む人に呼ばれると、その人の傍らに、すぐそばに来て助け手となり、力を貸してくれる存在ということです。正に、厳しい冬の期間、ただ一人富士山頂で気象観測を行う覚悟をしていた野中到さんにとっての妻千代さんのような存在、それがイエス様の言うもうひとりの助け主、真理の御霊でした。
弟子たちは、イエス様とともに生活をしていた時、必要とあればイエス様を呼び、助けを乞うことができたでしょう。しかし、イエス様が世を去られたら、それはできません。今の私たちも直接地上にはおられないイエス様を呼ぶことはできません。けれども、イエス様がご自分の代わりに、天の父に願って、真理の御霊と言うもう一人の助け主に与えてくださいましたから、私たちはいつでも、どこでも、弁護士として、ヘルパーとして、また友として聖霊を呼び、力を貸してもらうことができるようになったのです。
真理の御霊の「真理」とは、イエス様ご自身を指します。聖霊は、私たちにイエス様の恵みを届け、さらに深くイエス様を知り、イエス様に従うことができるように助けてくださる助け手として、私たちのうちにおられるお方。私たちのからだはこの様な聖霊の住まいであることを自覚したいと思います。
さらに、です。続くことばは、弟子たちに対するイエス様の愛が決して耐えることのないものであることを思わせます。イエス様は彼らがみなしごの様な寂しい思いに沈んでしまわぬよう、彼らのところに戻ると言われました。

14:18、19 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

イエス様があなたがたのところに戻ってくると言われた時、それはいつのことを指していたのか。昔から議論されてきました。順番に並べれば、復活の時、ペンテコステで聖霊が下った時、そしてやがて来るべき再臨の時の三つです。個人的には二つ目の聖霊が弟子たちに下った時が、この箇所に最もふさわしく、聖書の他の箇所の教えとも合うのではないかと考えます。
つまり、人類の罪を贖うため十字架に死に、三日後に復活したイエス様は栄光を受け、天に行かれました。今も、イエス様のからだは天にあるのですが、地上にいる私たちを愛してやまないイエス様は、もう一人の助け主、聖霊を通して、私たちとともにおられ、私たちのうちに住みたもうのです。愛は片時も離れず、愛する者のそばにいたいと願うもの。正に、イエス様の私たちに対する愛は、たとえその身は地上を離れても、決して絶えることなしと教えられます。
こうして、イエス様が地上を去った後、聖霊によって、私たちはイエス様といつでも、どこでも、親しい交わりをなすことができるようになったのです。

14:20、21 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

果たして私たちは、私たちがイエス様のうちにおり、イエス様が私たちのうちにおられることを信じているでしょうか。実感しているでしょうか。イエス様を愛するがゆえに、その戒めを大切にし、守りたいと言う思いがあるでしょうか。今日の聖句をともに読みたいと思います。

6:19、20 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

この言葉を通して教えられるのは、新約聖書の時代の人々が、イエス様の約束のことばを信じて、自分たちのからだが聖霊の宮、聖霊の住まいであると自覚していたこと、この自覚を非常に大切にしていたことです。
私たちは自分自身についてこのように考えて来たでしょうか。孤独を覚える時、試練の中で気分が塞ぐ時、四方八方から攻撃されているように感じる時、この言葉によって、自分のうちにどなたが住んでおられるかを思い出したいのです。自分が聖霊の家であり、私たちを愛し、十字架に死なれたイエス・キリストが聖霊を通して、宿っておられることを思い起こして、考え方を整え、為すべき行動を選択する者となりたいと思います。
最後に覚えたいのは、この様な自覚が私たちの考え方や行動に大きな影響を与えると言うことです。パウロがこの言葉を書き送ったコリントの教会には、不品行をなす人々がいました。その様な人々に対して、パウロは「あなたがたは自分が聖霊の宮であることを知らないのか。イエス・キリストがその尊い命と言う代価を払って買い取られた者であることを知らないのか」と語りました。つまり、自分のからだは聖霊の宮、イエス・キリストが十字架に尊い命をささげ贖ってくださったからだであるという自覚が、罪に対する強力なブレーキとなるのです。
また、聖霊は、神様のみ心に従いたい、イエス・キリストのように生きたいと言う願いを、わたしたちのうちに起こしてくださる助け主でもあります。皆様のうちに、この様な願いがあるでしょうか。この様な願いが日々成長しているでしょうか。
私の小学生時代、憧れのヒーローはプロ野球巨人の王選手でした。手当たり次第、王選手に関する本を読み、その生い立ちから家庭のこと、野球選手としての成績、その練習や生活の様子まで知りました。王選手について知ることが本当に喜びでした。
それだけではありません。王選手が荒川コーチとしたと言われる練習を自分もしたいと思いました。家の居間の電球の紐に新聞紙を丸めたボールをつるし、それを新聞紙で作った刀で真ん中を切るようにして打つ。それを一本足打法で繰り返す。畳が擦り切れるまで繰り返す。おかげで、電球の紐を切り、畳が擦り切れたことで、何度母親に怒られた事か。
勿論、自分の様な者が王選手になれるわけではないとわかっていたのです。わかっていたのですが、王選手のしていることなら、何でも同じようにしてみたいという思いが本当に強かったのだと思います。
クリスチャンとは、小学生の私が王選手に対して抱いた思いをイエス・キリストに対して抱く者、抱き続ける者と言えるでしょう。イエス様のように、親しく天の父と交わりたい。イエス様のように、喜んで天の父のみ心に従いたい。イエス様のように分け隔てなく人を喜び、人を愛し、人に仕えたい。イエス様のように、弱い者には優しく、驕る者には恐れることなく接してゆきたい。この様な願いが、私たちのうちで成長し、強められたらと思います。
私たち皆が、日々聖霊の住まいと言う自覚に立ち、考え、行動することにより、神様の栄光を表す歩みを進めてゆきたいと思います。

2014年8月17日日曜日

イザヤ書43章1、2節 「わたしの名を呼んで」

 「キリスト教の神様はどのような神様ですか?」と聞かれたら、皆様はどのように答えるでしょうか。様々な答え方があります。何しろ、聖書の中に私たちの神様について様々な表現が出てきます。「天の父」「創造主」「私の羊飼い」「我が砦」などなど。他にもいくらでも挙げることが出来ます。あるいは、自分自身の経験に合わせて、言うことも出来ます。今の私で言えば、「夕森キャンプを恵みのうちに行わせて下さった神様」でしょうか。
皆様は、神様がどのようなお方だと思っているでしょうか。聖書には神様について多くの表現がある中で、次のような表現があるのを知っているでしょうか。
 イザヤ45章3節
「わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」

 私たちの神様は、私たちの名前を呼ぶ方。面白い表現です。「キリスト教の神様はどのような神様ですか?」と聞かれて、「私の名前を呼ぶ方です。」と答える方はいるでしょうか。
神様が私の名前を呼ぶ。これはどのような意味でしょうか。皆様は、神様から名前を呼ばれたいでしょうか。神様から名前を呼ばれることは喜びでしょうか。今日は「名前を呼ぶ」ことに集中したいと思います。

考えてみますと、私たちは、様々な場面で名前を呼ばれます。食事に行き、満席の時。入口で予約表に名前を書き、しばらくすると、店員から名前を呼ばれる。銀行、病院、役所などで、順番が来ると窓口で名前を呼ばれる。これらは、名前でなくても良い、番号でも良い場面。
親しい関係の中で名前が呼ばれることは、それとは異なります。親から名前で呼ばれる喜び。妻、夫に名前で呼ばれる喜びは特別なものがあります。
年を重ねても、昔ながらの友人から、以前と同じように呼ばれるあの不思議な感覚。60歳代、70歳代の方が、昔ながらの関係で親しげに名前を呼び合っているのを見ると、自分のことではなくても嬉しい気持ちになります。

 ここ数週間、私は子どもキャンプ、夏期伝道、夕森キャンプと教会の中高校生、青年と過ごす時間が多くありました。同時に、四日市キリスト教会以外の方と接する機会も多くありました。この間、他の教会の方から「大竹先生は教会の中高生、青年と関係が近いですね、親しいですね。」と何度か言われました。どのような場面で言われたか。それは教会の中高生、青年が私のことを「まもちゃん」とか、「OTK」と呼んでいるところを、他の教会の方が見聞きした時です。時に名前を呼ぶということは、親しさのあらわれにもなります。

 名前を呼ぶということが、信頼のあらわれ、認めてもらった証となることもあります。少し前のこと、木村大作というカメラマン・映画監督のインタビューをテレビで見ました。憧れの黒澤明監督のもとでカメラマンをしていた時のこと。最初の数作、カメラマンをしていて呼びかけられることもない。黒澤監督に初めて「大ちゃん」と呼びかけられた時、別な人を呼んでいると思い無視していたら、頭をはたかれて「お前を呼んでいるんだ。」と言われたそうです。この場面。木村大作さんは嬉しくて泣いたそうです。憧れの人に名前を呼ばれた。自分のことを覚えてもらっていた。自分の仕事が認められたと感じた喜びです。
 皆様にも、名前が呼ばれたことが特別に嬉しかった、喜びであったという経験はあるでしょうか。

 聖書の中にも名前が呼ばれることが重要な意味を持つ場面がいくつか出てきます。非常に有名な箇所、イエス様とザアカイの出会いの場面。
 ルカ19章5節~6節
「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」

 イエス・キリストを一目見たいと願ったザアカイは木の上に登ります。そのザアカイのもとに来たイエス様は、「あなたの家に泊まることにしてある。」と言いました。家に泊まるとは親愛のあらわれ。「あなたの家に泊まることにしてある。」とは、「あなたと親しくしたい。」「あなたと良い関係を持ちたい」という意味です。大変な嫌われ者のザアカイからすると、驚きの声かけでした。この出会いによって、ザアカイは大きく変わります。
 しかし、考えてみますと、もしここで「木の上にいる人。今日はあなたの家に泊まります。」と言われていたとしたら、どうだったでしょうか。イエス・キリストは誰の家に泊まるのでも良かった。たまたま目についた私に声をかけたとザアカイが受け取ったら、どうなっていたでしょうか。
 この場面、イエス様が「ザアカイ」と呼びかけたことが非常に重要です。「あなたのことを知っていますよ。」「あなたがどのように人々に思われているかも知っていますよ。」「そのあなたと親しくしたい。あなたと良い関係を持ちたいのです。」という意味が、名前を呼ぶことに込められています。このように考えますと、名前を呼ばれたからこそ、ザアカイは変わることが出来たとも言えます。

 名前が呼ばれることが重要な意味を持つ場面。あるいは、マリヤが復活のイエス様に会う場面も挙げることが出来ます。
 ヨハネ20章11節~16節
「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。『なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。『だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。』彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って言った。『あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。』イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った。」

 十字架にかかる前から、イエス様はご自身復活することを宣言していました。ところが、弟子たちは誰もそれを信じていなかった。死後三日目、墓に来るとその遺体がない。マリヤは墓の中で、イエス様の遺体がないことで泣き崩れます。そこにイエス様が現われる。マリヤはイエス様を見ても分からない。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と声をかけられるも、それでもイエス様だと分からない。イエス様が目の前に現われ、声をかけてもマリヤは分からない程混乱していました。ここでイエス様は何をされたでしょうか。「マリヤ」と名前を呼ぶのです。
目の前に現われ、声をかけられても、それがイエス様だと分からない。しかし、「マリヤ」と声をかけられた時、目の前にいるのが復活したイエス様だと理解します。女性ならではの感性と言って良いでしょうか。それまで何度も名前を呼ばれていた、あの声で「マリヤ」と呼ばれた途端、目の前にいる方が、あのイエス様だと直感した場面。この時、イエス様に名前を呼ばれたことが、マリヤにとってどれだけ大きな喜びだったでしょうか。

 このように見ていきますと、神様が私たちの名前を呼ぶということは、私たちのことを完全にご存知の方が、私たちと関係を持とうとされている。親愛のあらわれ。親しみの表現。更に言えば、名前を呼ぶとは愛することそのものと言うことも出来ます。

 イザヤ43章1節~2節
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』」

 イザヤ43章と言えば、非常に有名な4節の言葉があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神様が神の民を、尊く思い、愛していると言われる。その神様の愛がどのようなものか、この箇所に出てきます。
 「わたしがあなたを贖った。あなたはわたしのもの。水の中、川の中、火の中でもあなたは大丈夫。どのような所にいても、どのような場面でも、わたしはあなたを守りますよ。」と。このように、神様の愛がどのようなものか語られている中の一つに、名前を呼ぶことが入っています。神様の目に私たちは高価で尊く、愛の対象であるから、神様は私たちの名前を呼ぶ。名前を呼ぶとは、愛することそのものと言うのです。

 皆様は神様から名前を呼ばれたことはあるでしょうか。
ある時、急に天から声が聞こえて、「〇〇よ。」と聞こえたということはないかもしれません。ザアカイやマリヤのように、直接イエス様に会って名前を呼ばれたこともありません。
しかし、間違いなく、私たちは神様から名前を呼ばれています。私たちが気付いていようと、いなかろうと、名前を呼ばれています。聖書の宣言は、私たちの神様は、私たちの名前を呼ぶ方。神の民である私たちは、すでに名前を呼ばれているのです。私のことを完全にご存知の方が、親しく名前を呼んで下さっている。私は神様に名前を呼ばれている者。今日は、このことをよくよく覚えたいと思います。

 ところで皆様は、神様から名前を呼ばれていることは、喜びでしょうか。嬉しいことでしょうか。感謝なことでしょうか。世界を造り、私を造られた方が、私の名前を呼んでいることは、どうでも良いことでしょうか。
 私自身、昨日考えました。神様が名前を呼んで下さることは、私にとって喜びかどうか。そして、初めて気付いたことがあります。私の名前は、祖父が考えたもの。「護」という名前の意味は、神に護られし者という意味です。この名前を神様が呼んで下さる。そうすると私にとって、神様に「護」と呼ばれるというのは、「わたしがあなたを護りますよ。」と呼びかけられていることになります。「神に護られし者」と、神様が呼びかけて下さる。そのように思った時、何とも言えない喜びが沸き出てきました。神様に名前が呼ばれるというのは、とても嬉しいこと。感謝なことです。
 皆様も、神様に名前が呼ばれることが、喜びなのか。感謝なことなのか。よくよく味わって頂ければと思います。

 このように私たちの神様は私たちの名前を呼ぶ方。しかし、私たちと神様との関係は、それだけではありません。私たちは名前を呼ばれるだけではない。神様は私たちに、「わたしの名前を呼びなさい」と言われます。

色々な箇所を挙げることが出来ますが、例えば、
ヨエル2章32節
「主の名を呼ぶ者はみな救われる。」

 有名な言葉。ペンテコステの説教で、ペテロが引用した言葉。パウロもローマ書の中で引用しています。救いが、名前を呼ぶことと関連付けられています。私たちの救いは、主の名を呼ぶことによって起こる。神様は私たちに、「わたしの名前を呼ぶように」と迫るお方。
 ただ、主の名を呼ぶのも無闇矢鱈に呼ぶことは良いことではなく、正しい恐れと信頼、愛をもって呼ぶようにとも教えられています。十戒の第二戒です。

 出エジプト20章7節
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」

 私たちの神様は、親しい関係の中で、愛する関係の中で、私たちと名前を呼び合うことを望まれておられる方。神様と名前を呼び合う関係に召されている。これは凄いことです。しかも私だけではない。より多くの人が、神様の名前を呼ぶことを願われて、私たちもそのために祈るようにと教えられています。主の祈りの一つ目の願いです。
 マタイ6章9節
 「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』」

 「御名があがめられますように。」この祈りの一つの意味は、「世界中の人が、主の名を呼ぶように」というもの。神様と名前を呼び合う関係になった私たちは、主の祈りを通して、より多くの人がこの関係に入るようにと願うのです。
 キリストを信じた者。神の民。クリスチャンとはどのような者なのか。一つの答えは、神様と名前を呼び合う関係になった者。その喜びを他の者たちに分かち合う者と言うことが出来ます。

 この神様と私たちの関係。名前を呼び合う関係は、神様と私たちの関係だけではない。私たち同士で築き上げるべき関係でもありました。今日の聖句を皆さまとともに読みたいと思います。
 ヨハネ13章34節
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」

 イエス様が弟子たちを愛した。そのように互いに愛し合いなさいと言われます。イエス様は弟子たちをどのように愛したでしょうか。具体的に色々な方法で愛を示して下さいましたが、その中の一つが、名前を呼ぶということ。イエス様が弟子たちの名前を呼んだ。だから私たちも互いに名前を呼び合うのです。
 四日市キリスト教会は大きな教会。ともに礼拝をささげる仲間でも、名前を知らない方が多くいると思います。まずは名前を知るところから取り組みましょう。そして、ただ名前を呼ぶだけでなく、与えられた関係の中で、親愛のあらわれとして、良い関係を築き上げるものとして、愛の実践として名前を呼ぶことに取り組みたいと思います。
 神様から名前を呼ばれる者として、その喜びを味わうこと。神様の名前を呼ぶ者として、相応しく生きること。仲間とともに互いに名前を呼び合う関係を築き上げることを、私たち皆で取り組みたいと思います。

2014年8月10日日曜日

マタイの福音書20章25節~28節 「仕えられた者として」

 約三ヶ月前のことです。父が骨折し入院。軽度のアルツハイマーを患っている母が、一人自宅で生活し、毎日父のお見舞いに行く状況となりました。一応、それでも生活が成り立っていましたが、母が大変そうだということで、二週間ばかり母が四日市に来て私たち家族とともに生活をすることになりました。その節は、教会員の皆さまに良くして頂きまして、本当に感謝しております。
当初は二週間、四日市に滞在する予定で準備をしました。母も四日市を満喫していましたが、しばらくすると、千葉へ帰ると言うのです。どうして帰りたいのか聞くと、私たちに申し訳ないと言うのです。気にしないで、滞在して欲しいこと。予定を変更すると、その方が大変なことを伝えて、その時は納得するのですが、しばらくするとまた、千葉へ帰りたいと言うのです。何日かこのやりとりを繰り返したのですが、最終的に母が言った、帰らないと行けない理由が、「教会を守らないといけない」となりました。「教会を守る」。そう言われた時、これは帰らせないといけないと感じました。千葉の小倉台キリスト教会には、立派な伝道師の方がいましたし、長老の方々もいます。母が帰って、「教会を守る」ために出来ることは、具体的には思いつかない状況。それでも母は真剣に、教会を守るために自分は帰ると言う。
「伝道師の先生がいるから。」「長老の方々がいるから。」「教会を守ると言っても、やることはないでしょう。」などなど、引きとめる言葉はあるかもしれませんが、それは言うべきではない。予定を変更してでも、帰さないといけないと感じました。「教会を守る」という言葉に母の信仰を見たからです。自分を何者として生きるのか。母は自分を、教会を支える者としていることが分かったので、それを邪魔してはいけないと思ったのです。
この母を前にした時、私は考えさせられました。果たして、自分が母と同じ状況になった時。病を患い、記憶や論理的思考があやふやになった時、私の口から出てくるのは、どのような言葉なのか。意識がはっきりしていれば、信仰者らしい言葉、牧師らしい言葉を言うことは出来ます。しかし、自分の本性がそのまま出る時、一体、私は何を言うだろうかと考えさせられたのです。皆さまが同じ状況になったとしたら、どのようなことを言うでしょうか。

これはつまり、自分を何者として生きるのか。自分のアイデンティティは何か。自分の本性は何かというテーマです。皆様は、自分を何者として生きているでしょうか。
自分はどのように生きたいのか。それと同時に、聖書は私たちに、どのように生きるよう勧めているのか。今日の箇所より皆様とともに考えたいと思います。

 約二千年前、十字架にかかる直前のイエス様と弟子たちのやりとりの場面。ここでイエス様は、自分が何者であるのか、次のように言われています。

マタイ20章28節a
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、」

 イエス様はご自身を何者として生きていたのか。どのように生きたいと考えておられたのか。私たちの救い主の生き方の中心は、仕えること。神の一人子。王の王、主の主であられる方が、自分を何者だと考えていたのかと言えば、仕える者と考えていた。驚くべき言葉です。
私たちの神様は、私たちに仕えるために、人となられた神様。その重さ。ここでイエス様が語られた言葉が、いかに凄いことを語っているのか。果たして私たちは正しく理解しているでしょうか。

 イエス様がここで、ご自身を仕える者として紹介したのには、背景があります。どのような場面で語られたのか、確認していきたいと思います。
 マタイ20章18節~19節
「『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』」

 キリストは実際に十字架で死に復活する前に、何度かそのことを弟子たちに教えていました。マタイの福音書に沿って言えば、ここは三回目の予告。これまでは、ご自身の死は宣言していましたが、十字架で死ぬとはっきりと言われたのは、ここが初めてです。十字架の死を間近にした、緊迫した真剣な場面。
 ところが、ここでとんでもない願いをしてくる者が現れる。それも直弟子の中からです。

 マタイ20章20節~21節
「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、『どんな願いですか。』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」

 ゼベダイの子たちとは、ヤコブとヨハネのこと。十二弟子の中でも、特に中心的な人物たち。その母が願い出たのです。「二人の息子に高い地位を与えて下さい。その約束を下さい。」と。子ども思いの母が、本人たちの願いとは別に、キリストに願い出たというのならばまだ理解出来ます。しかし、他の福音書と合わせて読むと、ヤコブとヨハネ自身も同じ願いを持っていたことが分かるのです。
 ヤコブとヨハネと言えば、あまりの気性の荒さに、キリストに雷の子とあだ名をつけられた人たち。その二人が、高い地位に着きたいと願いをする時は、母の背中に隠れていた。普段は気性荒く振る舞うくせに、地位を求める時は母に隠れる。情けない場面。

 この願いに対してイエス様は、いくつかのやりとりを経て答えています。「それは父が備えるのだ」と。ですので、ヤコブとヨハネ兄弟、その母の願いは、願い通りとはなりませんでした。
 ところが、二人が抜け駆けして、高い地位を願ったということに、十二弟子の残りの者たちは腹を立てたと言います。

 マタイ20章24節
「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」

 なぜ腹を立てたのでしょうか。簡単です。残りの十人も、ヤコブとヨハネ兄弟と同じ思いだったからでしょう。私こそ、イエス様の左か右に座るのに相応しい。座るべきだと考えていた。だから、抜け駆けをしたヤコブ、ヨハネに腹を立てたのです。これが弟子たちの姿。それもイエス様が十字架での死と復活を予告した直後の弟子たちの姿です。
皆様はどのように思われるでしょうか。情けない、恥ずかしい、ひどい体たらくだと思うでしょうか。それとも、私も同じ、この十二人と何ら変わらないと思うでしょうか。

 神様から離れた人間。罪人の思いの一つは、自分を高くしたい。人を従え、仕えられる立場に着きたいというもの。仕えるよりも、仕えられたい。どうしても、自分を低くするということが分からない。罪の思いというのは、自分を高く高く、上へ上へと向かわせるのです。いかがでしょうか。どのように生きたいのかと問われたら、人を従え、仕えられる者になりたいという思いはないでしょうか。
 これがキリストの弟子たちのうちに起こった姿であるというのが深刻です。彼らはキリストに従っていた者たち。信仰を持った者たちです。その者たちをして、誰が偉いのか、誰の地位が高いのか。誰が仕える者で、誰が仕えられる者なのか。キリストの十字架を目の前にしながら、それよりも自分が大切なのです。信仰の世界でも、これが起こるのです。
私は何年、何十年と教会生活を守った。私は聖書を読むことを欠かさない。祈ることを欠かさない。これだけ奉仕した。これだけ伝道した。そのようにして自分を偉く見せたい。自分で自分を偉いと思いたい。そのような思いが、私たちクリスチャンの心から沸いてくるのです。この時の弟子たちの姿は、私たちの姿でもある。そのように読めます。

 このような弟子たちに。このような私たちに、イエス様は何を語られたのか。
 マタイ20章25節~27節
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。』」

 十字架での死と復活を宣告した直後に、偉くなりたいと騒ぐ弟子たち。ご自身が徹底的に低くなることを宣言されているのに、仕えられたいと騒ぐ弟子たち。少しも主の心を慮らず傷つけるだけの弟子たち。自分がイエス様の立場であれば、この弟子たちを見捨てても良いと思うところ。しかし、我らが救い主は、これでも弟子たちに懇切丁寧に教えるのです。ありがたいというか、勿体ないというか。
 「いいですか。人を思い通りに動かすこと。人に仕えられること。それが、地位が高いこと。偉いことだと思っているのでしょう。しかし、それは神を知らない異邦人の考え方です。この世界の作り主を知らず、どのように生きたら良いのか知らない異邦人は、支配し、権力をふるうことこそ、地位があり偉いことだと考えています。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。むしろ地位があり、偉いというのは、皆に仕える者であり、しもべとなること。神無しの考え方、異邦人の考え方に染まるのではなく、神の国の考え方を忘れないように。」と語られるのです。
 この世界の考え方とは正反対。逆説的。しかし、これが真の宗教であり、キリスト教です。この言葉を私たち一人一人が本当に受け入れたとしたら、この地にあって大きな影響力を持つ教会となります。多くの者が人を従え、仕えられたいと考える世にあって、仕えることを目指す者たちとなる。四日市キリスト教会が、ますます互いに仕え合う教会、世界に仕える教会として、成長していきたいと願います。

 さて、それではどのようにしたら、私たちは喜んで仕えることを選びとれるのでしょうか。先に確認したように、クリスチャンの中にも、偉くなりたいという思い。それも異邦人の思として、偉くなりたいというものが存在するのです。真面目にクリスチャン生活を続ければ続ける程、その誘惑が強くなるとも言えます。私たちはどうしたら、仕える者となれるのか。それは次のイエス様の言葉を真正面から受け止めることです。

 マタイ20章28節
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 イエス様はただ、私たちに仕える者となりなさいとは言われませんでした。まずご自身が仕える者となられた。それも、私たちに仕えて下さった。
 どのように仕えるのでしょうか。それは贖いの代価として。自分の命を与える。つまり私たちの身代わりに十字架につく。それ程まで徹底的に仕えるのです。これ以上ないほど、低く低くなって私たちに仕えるというのです。

 イエス様は私たちに言います。「仕える者となりなさい」と。しかし、その前に言うのです。「あなたがたは仕えられた者ですよ」と。私たちは自分を何者として生きるでしょうか。「仕える者」でしょうか。それは正しいことですが、その前に「仕えられた者」として生きるべきです。イエス様に仕えてもらったことを味わないで、仕える者となることは出来ません。まずは「仕えられた者」として生きること。つまり、イエス様に仕えてもらったことを、よくよく覚えるべきです。

 そのようなわけで、今日はこの「仕えるために来た」と言われたイエス様の言葉に真正面しましょう。この言葉を真剣に味わいましょう。この言葉を胸に刻みましょう。世界のつくり主が、私のために、徹底的に低くなり仕えられた。王の王、主の主である方が、私に仕えるということを受け取りましょう。
この聖書の言葉を本気で受け止める時、偉くなりたい、仕えられたいという思いが治まっていきます。神様に仕えてもらったのですから、十分なのです。十分過ぎるのです。
「世界をつくり、支配される神が、あなたに仕えるために人となられた。それもあなたの身代わりに十字架で命を落とす。それ程までにあなたに仕えられました。」これが福音の中心です。この福音を信じる者の幸いを皆で味わいたいと思います。

 今日の聖句を皆で読みたいと思います。
 Ⅰヨハネ4章10節~11節
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」

 以上、今日の箇所から、私たちは自分を何者として生きるのが良いのか考えました。イエス様に仕えられた者として、互いに仕え合う者となる。徹底的に神様に仕えられた者として、私たち自身も仕える者となる。今日のイエス様の言葉に従って、具体的に人に仕える歩みを、皆で取り組みたいと思います。

2014年8月3日日曜日

ヨハネの福音書12章36節~14章11節 「心を騒がせてはなりません」

 子育てをしていて驚いた経験の一つに、子どもたちが赤ん坊の時代に見せた後追い現象があります。お母さんの姿が見えなくなると、「どこに行ったの?」と探し求めて、台所でも風呂場でもトイレでも、後を追いかける。見つからないとなると不安を感じ、大声で泣き出して、姿が見えて抱っこしてもらうまで泣き止まない、あの姿です。お蔭で、お母さんは家事や仕事ができず困ってしまうのですが、これは愛着のある人や物を探し求める赤ん坊特有の行動で、社会性の発達には欠かせないものなのだそうです。
 勿論、このままの状態で良いわけではありません。ある心理学の本に、私たちは5歳ごろまでに、母親とのつながりを通して心にエネルギーを蓄える電池を貰い、この電池のおかげである程度の年齢に達すると、子どもは母親がそばにいなくて寂しくなっても、母親から充電したエネルギーを使って環境に対応することができるようになる、つまり自立の第一歩を踏み出すことができるとありました。
 私たちは、イエス・キリストが十字架の死を間近に見つめながら、地上に残してゆく弟子たちに対して語られたことば、惜別説教と言われる箇所を読み進めています。そして、今日の箇所に登場する弟子たちは、視界から消える母親の後を追う赤ん坊と同じ心境にあったように思われるのです。
この時、弟子たちはイエス様と共に過越しの食事の席についていました。しかし、和やかに進められてきた交わりの場に、突如緊張が走ります。「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切る」と、イエス様が告げられたからです。さらに「今しばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいますが、その後あなたがたはわたしを探すでしょう」と言われ、ついに「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と語られるに及んで、彼らの心は今まで信頼してきたイエス様が自分たちのもとを離れ去ってゆくという不安で一杯になったようです。そうなると、思っていることを口に出さずにはいられない性質の人、ペテロが声をあげ、弟子としての覚悟の程を示します。

13:36、37 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」

 イエス様の使命である十字架。人類の罪を贖うための十字架の死はイエス様が一人歩む厳しい道であり、誰もその後に従うことはできないと、イエス様は言われます。事実、このすぐ後、役人に捕えられたイエス様の後を追うペテロは、身の危険を感じると、人々の前で「私はイエスなど知らない、何の関係もない」と断言。心に抱いた強い覚悟とは裏腹に、脆くもイエス様を否定してしまったのです。
 その様なペテロが、人々を助ける弟子となり、イエス様に従う人生を全うできたのは、復活のイエス様に出会い、十字架の死の意味を悟った後のことでした。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と語られたイエス様は、十字架につまづいたペテロが、やがて十字架の愛によって立ち直り、活躍する姿を見ておられたのです。
 しかし、この時のペテロは熱心で勇敢の人にありがちなことですが、自分に頼む思いが強く、「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」と猛反発しました。そのペテロに告げられた言葉が38節です。

13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」

 イエス様は、ご自分に従う者となるために、ペテロが自分の弱さを徹底的に知ることが重要と考えておられたようです。自分の弱さを思い知る時、本当の意味でペテロがご自分に頼り、ご自分の愛を受け取ることができると知っておられたのです。
「自分の力でわたしに従っていると思っているうちは、弟子として半人前。あなたが心からわたしを愛し、従うことのできない自分の現実を知るのは辛いことだが、その様な時こそ、弱き者を心から大切に思い、期待し、十字架の愛で支えるわたしを知り、仰ぐことができる。」やがて、ペテロは、この時は無情とも聞こえたこのことばに、どれ程イエス様の愛と期待が込められていたかを知ることになります。
 こうしてペテロに話をされたイエス様ですが、今度はご自分が地上を離れるのは天に永遠の住まいを準備するためと説明し、彼らの不安を和らげ、心を将来に向け、励まそうとされます。

14:1~4 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」

 天の御国が一つの家にたとえられています。「わたしの父の家」とある通り、所有者は天の父なる神様。英語の聖書にはこの「家」をマンションと訳すものがありますが、マンションは大邸宅、多くの部屋と十分な広さをもつ大邸宅を意味します。大邸宅に等住んだことのない弟子たちは目を丸くしたかもしれませんが、イエス様が天の御国をいかに身近で、現実的なものとして知って欲しかったかが伝わってきます。
 「天の父が造られた家に、あなたがたひとりひとりの部屋を整えるため、わたしは行く。あなたがたが地上を去る時は、わたしが迎えに来てあなたがたをそこに連れてゆく。だから、この望み、この祝福を思って、今直面している不安や寂しさを忍耐せよ。父なる神とわたしを信じて心を騒がせるな、平安であれ。」この様なイエス様の優しいメッセージを聞きたいところです。しかし、弟子たちの心には、このイエス様のことばも届かなかったようです。ペテロに続いて声を上げたのはトマスでした。

14:5、6 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 イエス様が「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と言われたのに対し、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と答えたトマス。
トマスは、弟子たちの中で一番最後にイエス・キリストの復活を信じた人として登場します。「私は、主のわき腹と、その手に空いた釘の跡に、指をさしこまないかぎり決して信じない。」と語った現実主義者。自分が見たこと、自分が触ったものしか信じないという頑固者でした。
その性格がこの言葉にも表れています。「父の家」と言って、そんな夢のような場所がどこにあるのですか。「わたしのゆく道」と言われますが、その道はどこに存在するのですか。私にはさっぱりわかりません。
遠慮がないと言うか何と言うか。イエス様が言われた事だから信じよう、仲間の言うことだから信じようと言うような、おおよそ人を信頼することの苦手な人、自分しか信じないという手の付けられない頑固者。それがトマスでした。
しかし、こんなトマスの為にもご自分を表してくださるのがイエス様です。聖書の中でも有名なあのことばがこの時発せられました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
お釈迦様に孔子にソクラテス。昔から人として生きるべき道を教えた人は大勢います。しかし、「わたしが道である」と言われたのはイエス・キリストただ一人。ご自分こそ真理つまり神への道であり、ご自分こそいのちつまり永遠のいのちへの道であることを宣言された、イエス様にしか語れないことばです。そして、この様にご自分を神と主張されたので十字架の死に追いやられる事態を招きましたから、これはイエス様の命がけのことばと言っても良いものです。
 トマスよ。自分が見たものしか信じない。自分が触ったものしか信じない。そんな頑固な心を捨てて、わたしを信頼せよ。それが、あなたが心から願っている神を知る道、永遠のいのちに至る道なのだよ。
現実主義とか経験主義と言えば聞こえが良いかもしれませんが、自分しか信じないという罪、頑固で高慢な心の持ち主すべてが聞くべき、イエス様渾身の語りかけでした。
さらに、トマスの次はピリポです。ピリポは「今やあなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです」というイエス様のことばに、「そうかな」と感じたらしいのです。

14:7、8 「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 ピリポは最初の頃からのイエス様の弟子。ペテロやヨハネ同様、最も長い間一緒に過ごした弟子であるはずなのに、どうやらイエス様のわざと教えを通して、十分満足するほどに、天の父の姿を見ることができなかったと感じているようなのです。それに対するイエス様のお答えは、逆にピリポの姿勢を問うものとなっています。

14:9~11 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」

 イエス様が今まで語られた教えでは物足りない、今まで行ったわざだけでは天の父を知るには十分ではないと感じていたピリポ。何故、ピリポは足りないと感じたのでしょうか。イエス様は十分教え、十分わざを為したと言っておられるのに、ピリポが物足りないと感じていた原因はどこにあったのでしょう。
 ずばり、イエス様は、ピリポの側の求める姿勢に問題があると言っておられます。こんなに長い間わたしとともにいながら、あなたは何を聞き、何を見てきたのですか。本当にあなたはわたしを通して、天の父のことを知ろうと求めてきたのですか。
 このイエス様の問いは、私たちに向けられた問いでもあります。私たちは余りにも簡単に聖書が分からないと言ってしまうことがないでしょうか。説教を聞く際も、関心は自分の心の満足であって、もっと神様を知りたいと言う心の渇きをもっていたでしょうか。神様のみ心がなりますようにと祈りながら、みことばのなかに真剣にみ心は何かと答えを見出そうとしてきたでしょうか。わかったつもりにならないで、常に神様を知ること、神様に従うことを求める姿勢を持ち続けていたいと思います。
 それにしても、己の弱さを知らず、猪突猛進型のペテロ、頑固者のトマスに神様を真剣に求める姿勢に欠けていたと思われるピリポ。十二弟子と言っても、情けないと言うか心もとない者たちに、よくもイエス様は謙遜に、寛容に接しておられると感じます。一人一人の弟子を受け入れ、仕えておられるイエス様の姿は、私たちもまた弱さや欠点をもったまま、イエス様に愛されている者であることを思わせ、安心を覚えます。
 最後に、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」と語られたイエス様の思いを考えてみたいと思います。もとのことばでは、「あなたがたの心が騒がされることがないように」となっています。つまり、イエス様は、私たちの心を動揺させるような悲しみや困難がこの世には起こること、その様な出来事に私たちの心がどれ程騒がされ、不安を覚えるものか、よくよく理解してくださっているお方なのです。
 しかし、いつまでもそれらが私たちの心を騒がせ、私たちの心が支配されてしまうことを許してはならないと、イエス様は言われるのです。そうしたことに私たちの心を委ねてしまうのではなく、私たちの心を委ねるべきは天の父であり、わたしなのだと語っておられるのです。最初にも言いましたように、子どもが母親の姿が見えなくても、困難な状況に直面して対応してゆけるのは、母親の愛情と言うエネルギーを心の中に蓄えているからです。おなじことが、神様と私たちの関係についても言えます。
 今日の箇所、私たちはイエス様が弟子たちの弱さも欠点も知ったうえで、愛を注がれる姿を見てきました。彼らが復活のイエス様に出会い、十字架の意味を悟った時、この時注がれた愛がエネルギーとなって、迫害と言う困難の中、彼らは神と人を愛する弟子として活躍することができたのです。
 神を信じる、イエス・キリストを信じるということは、私たちの心に愛と言うエネルギーを送ってくださる父なる神様とイエス・キリストに心を向けること、心を委ねることを、人生の優先順位の一番に置くと言うことです。
 果たして、私たちは何にどれぐらいの割合で心を使っているでしょうか。起きてしまった取り返しのつかないことを繰り返し悔やむことに心を使っているでしょうか。あの人が手を差し伸べてくれないと、人を責める続けることに心を向けているでしょうか。これは、心を騒がせること、心のエネルギーが限りなくゼロに近づく道です。
 イエス様が命じているのは、私たちの心に惜しみなく愛を注いでくださる父なる神様とイエス様ご自身に心を向けること、心を委ねることなのです。今目の前にある不安を覚えさせる出来事や苦しい状況だけを見つめて心を騒がせないように、むしろ私たちのために最善の祝福を備えてくださる神様を信頼し、神様に心を向ける歩みをしたいと思います。

Ⅰコリント10:13  あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。