皆様は、神様がどのようなお方だと思っているでしょうか。聖書には神様について多くの表現がある中で、次のような表現があるのを知っているでしょうか。
イザヤ45章3節
「わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。」
私たちの神様は、私たちの名前を呼ぶ方。面白い表現です。「キリスト教の神様はどのような神様ですか?」と聞かれて、「私の名前を呼ぶ方です。」と答える方はいるでしょうか。
神様が私の名前を呼ぶ。これはどのような意味でしょうか。皆様は、神様から名前を呼ばれたいでしょうか。神様から名前を呼ばれることは喜びでしょうか。今日は「名前を呼ぶ」ことに集中したいと思います。
考えてみますと、私たちは、様々な場面で名前を呼ばれます。食事に行き、満席の時。入口で予約表に名前を書き、しばらくすると、店員から名前を呼ばれる。銀行、病院、役所などで、順番が来ると窓口で名前を呼ばれる。これらは、名前でなくても良い、番号でも良い場面。
親しい関係の中で名前が呼ばれることは、それとは異なります。親から名前で呼ばれる喜び。妻、夫に名前で呼ばれる喜びは特別なものがあります。
年を重ねても、昔ながらの友人から、以前と同じように呼ばれるあの不思議な感覚。60歳代、70歳代の方が、昔ながらの関係で親しげに名前を呼び合っているのを見ると、自分のことではなくても嬉しい気持ちになります。
ここ数週間、私は子どもキャンプ、夏期伝道、夕森キャンプと教会の中高校生、青年と過ごす時間が多くありました。同時に、四日市キリスト教会以外の方と接する機会も多くありました。この間、他の教会の方から「大竹先生は教会の中高生、青年と関係が近いですね、親しいですね。」と何度か言われました。どのような場面で言われたか。それは教会の中高生、青年が私のことを「まもちゃん」とか、「OTK」と呼んでいるところを、他の教会の方が見聞きした時です。時に名前を呼ぶということは、親しさのあらわれにもなります。
名前を呼ぶということが、信頼のあらわれ、認めてもらった証となることもあります。少し前のこと、木村大作というカメラマン・映画監督のインタビューをテレビで見ました。憧れの黒澤明監督のもとでカメラマンをしていた時のこと。最初の数作、カメラマンをしていて呼びかけられることもない。黒澤監督に初めて「大ちゃん」と呼びかけられた時、別な人を呼んでいると思い無視していたら、頭をはたかれて「お前を呼んでいるんだ。」と言われたそうです。この場面。木村大作さんは嬉しくて泣いたそうです。憧れの人に名前を呼ばれた。自分のことを覚えてもらっていた。自分の仕事が認められたと感じた喜びです。
皆様にも、名前が呼ばれたことが特別に嬉しかった、喜びであったという経験はあるでしょうか。
聖書の中にも名前が呼ばれることが重要な意味を持つ場面がいくつか出てきます。非常に有名な箇所、イエス様とザアカイの出会いの場面。
ルカ19章5節~6節
「イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。『ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。』ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。」
イエス・キリストを一目見たいと願ったザアカイは木の上に登ります。そのザアカイのもとに来たイエス様は、「あなたの家に泊まることにしてある。」と言いました。家に泊まるとは親愛のあらわれ。「あなたの家に泊まることにしてある。」とは、「あなたと親しくしたい。」「あなたと良い関係を持ちたい」という意味です。大変な嫌われ者のザアカイからすると、驚きの声かけでした。この出会いによって、ザアカイは大きく変わります。
しかし、考えてみますと、もしここで「木の上にいる人。今日はあなたの家に泊まります。」と言われていたとしたら、どうだったでしょうか。イエス・キリストは誰の家に泊まるのでも良かった。たまたま目についた私に声をかけたとザアカイが受け取ったら、どうなっていたでしょうか。
この場面、イエス様が「ザアカイ」と呼びかけたことが非常に重要です。「あなたのことを知っていますよ。」「あなたがどのように人々に思われているかも知っていますよ。」「そのあなたと親しくしたい。あなたと良い関係を持ちたいのです。」という意味が、名前を呼ぶことに込められています。このように考えますと、名前を呼ばれたからこそ、ザアカイは変わることが出来たとも言えます。
名前が呼ばれることが重要な意味を持つ場面。あるいは、マリヤが復活のイエス様に会う場面も挙げることが出来ます。
ヨハネ20章11節~16節
「しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。彼らは彼女に言った。『なぜ泣いているのですか。』彼女は言った。『だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。』彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。イエスは彼女に言われた。『なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。』彼女は、それを園の管理人だと思って言った。『あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。』イエスは彼女に言われた。『マリヤ。』彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ(すなわち、先生)。』とイエスに言った。」
十字架にかかる前から、イエス様はご自身復活することを宣言していました。ところが、弟子たちは誰もそれを信じていなかった。死後三日目、墓に来るとその遺体がない。マリヤは墓の中で、イエス様の遺体がないことで泣き崩れます。そこにイエス様が現われる。マリヤはイエス様を見ても分からない。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」と声をかけられるも、それでもイエス様だと分からない。イエス様が目の前に現われ、声をかけてもマリヤは分からない程混乱していました。ここでイエス様は何をされたでしょうか。「マリヤ」と名前を呼ぶのです。
目の前に現われ、声をかけられても、それがイエス様だと分からない。しかし、「マリヤ」と声をかけられた時、目の前にいるのが復活したイエス様だと理解します。女性ならではの感性と言って良いでしょうか。それまで何度も名前を呼ばれていた、あの声で「マリヤ」と呼ばれた途端、目の前にいる方が、あのイエス様だと直感した場面。この時、イエス様に名前を呼ばれたことが、マリヤにとってどれだけ大きな喜びだったでしょうか。
このように見ていきますと、神様が私たちの名前を呼ぶということは、私たちのことを完全にご存知の方が、私たちと関係を持とうとされている。親愛のあらわれ。親しみの表現。更に言えば、名前を呼ぶとは愛することそのものと言うことも出来ます。
イザヤ43章1節~2節
「だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。『恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』」
イザヤ43章と言えば、非常に有名な4節の言葉があります。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」神様が神の民を、尊く思い、愛していると言われる。その神様の愛がどのようなものか、この箇所に出てきます。
「わたしがあなたを贖った。あなたはわたしのもの。水の中、川の中、火の中でもあなたは大丈夫。どのような所にいても、どのような場面でも、わたしはあなたを守りますよ。」と。このように、神様の愛がどのようなものか語られている中の一つに、名前を呼ぶことが入っています。神様の目に私たちは高価で尊く、愛の対象であるから、神様は私たちの名前を呼ぶ。名前を呼ぶとは、愛することそのものと言うのです。
皆様は神様から名前を呼ばれたことはあるでしょうか。
ある時、急に天から声が聞こえて、「〇〇よ。」と聞こえたということはないかもしれません。ザアカイやマリヤのように、直接イエス様に会って名前を呼ばれたこともありません。
しかし、間違いなく、私たちは神様から名前を呼ばれています。私たちが気付いていようと、いなかろうと、名前を呼ばれています。聖書の宣言は、私たちの神様は、私たちの名前を呼ぶ方。神の民である私たちは、すでに名前を呼ばれているのです。私のことを完全にご存知の方が、親しく名前を呼んで下さっている。私は神様に名前を呼ばれている者。今日は、このことをよくよく覚えたいと思います。
ところで皆様は、神様から名前を呼ばれていることは、喜びでしょうか。嬉しいことでしょうか。感謝なことでしょうか。世界を造り、私を造られた方が、私の名前を呼んでいることは、どうでも良いことでしょうか。
私自身、昨日考えました。神様が名前を呼んで下さることは、私にとって喜びかどうか。そして、初めて気付いたことがあります。私の名前は、祖父が考えたもの。「護」という名前の意味は、神に護られし者という意味です。この名前を神様が呼んで下さる。そうすると私にとって、神様に「護」と呼ばれるというのは、「わたしがあなたを護りますよ。」と呼びかけられていることになります。「神に護られし者」と、神様が呼びかけて下さる。そのように思った時、何とも言えない喜びが沸き出てきました。神様に名前が呼ばれるというのは、とても嬉しいこと。感謝なことです。
皆様も、神様に名前が呼ばれることが、喜びなのか。感謝なことなのか。よくよく味わって頂ければと思います。
このように私たちの神様は私たちの名前を呼ぶ方。しかし、私たちと神様との関係は、それだけではありません。私たちは名前を呼ばれるだけではない。神様は私たちに、「わたしの名前を呼びなさい」と言われます。
色々な箇所を挙げることが出来ますが、例えば、
ヨエル2章32節
「主の名を呼ぶ者はみな救われる。」
有名な言葉。ペンテコステの説教で、ペテロが引用した言葉。パウロもローマ書の中で引用しています。救いが、名前を呼ぶことと関連付けられています。私たちの救いは、主の名を呼ぶことによって起こる。神様は私たちに、「わたしの名前を呼ぶように」と迫るお方。
ただ、主の名を呼ぶのも無闇矢鱈に呼ぶことは良いことではなく、正しい恐れと信頼、愛をもって呼ぶようにとも教えられています。十戒の第二戒です。
出エジプト20章7節
「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」
私たちの神様は、親しい関係の中で、愛する関係の中で、私たちと名前を呼び合うことを望まれておられる方。神様と名前を呼び合う関係に召されている。これは凄いことです。しかも私だけではない。より多くの人が、神様の名前を呼ぶことを願われて、私たちもそのために祈るようにと教えられています。主の祈りの一つ目の願いです。
マタイ6章9節
「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。』」
「御名があがめられますように。」この祈りの一つの意味は、「世界中の人が、主の名を呼ぶように」というもの。神様と名前を呼び合う関係になった私たちは、主の祈りを通して、より多くの人がこの関係に入るようにと願うのです。
キリストを信じた者。神の民。クリスチャンとはどのような者なのか。一つの答えは、神様と名前を呼び合う関係になった者。その喜びを他の者たちに分かち合う者と言うことが出来ます。
この神様と私たちの関係。名前を呼び合う関係は、神様と私たちの関係だけではない。私たち同士で築き上げるべき関係でもありました。今日の聖句を皆さまとともに読みたいと思います。
ヨハネ13章34節
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」
イエス様が弟子たちを愛した。そのように互いに愛し合いなさいと言われます。イエス様は弟子たちをどのように愛したでしょうか。具体的に色々な方法で愛を示して下さいましたが、その中の一つが、名前を呼ぶということ。イエス様が弟子たちの名前を呼んだ。だから私たちも互いに名前を呼び合うのです。
四日市キリスト教会は大きな教会。ともに礼拝をささげる仲間でも、名前を知らない方が多くいると思います。まずは名前を知るところから取り組みましょう。そして、ただ名前を呼ぶだけでなく、与えられた関係の中で、親愛のあらわれとして、良い関係を築き上げるものとして、愛の実践として名前を呼ぶことに取り組みたいと思います。
神様から名前を呼ばれる者として、その喜びを味わうこと。神様の名前を呼ぶ者として、相応しく生きること。仲間とともに互いに名前を呼び合う関係を築き上げることを、私たち皆で取り組みたいと思います。