2014年8月31日日曜日

ウェルカム礼拝 ヨハネ4章13、14節 「喜び上手な人に」

 キリスト教の教えの中に、基本中の基本と言える教えが二つあります。一つは、この世界を造られた神様がいること。空間も時間も法則も、地球も宇宙も、私たち人間も、この方によって造られた。キリスト教が教えている神とは、世界の造り主のことです。もう一つは、その神様から私たち人間に、聖書が与えられていること。聖書は世界の造り主から私たちへのメッセージです。
 世界の造り主なる神様がいること。その方から私たちにメッセージが届いていること。今日の聖書の話は、この二つの教えを前提として進めたいと思います。この二つの教えについて、疑問がある、質問したい、詳しく聞きたいという方は、牧師のところに来て頂ければ、個別にお話ししたいと思いますが、今のところは、この二つのことを前提として話を聞いて頂ければ嬉しく思います。

 ところで皆様は、「自分はどのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」考えて生きているでしょうか。「自分はどのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」これは人生を生きる上で重要な問いだと思いますが、一般的に現代の日本は、このようなことを考えない人が多いと言われています。
 このようなことを考えなくても生きていける環境があるからなのか。目を惹く娯楽が山ほどあり、それらを楽しむので十分と感じているからなのか。忙しすぎて、そのようなことを考えている余裕がないからなのか。世界の中でも、特に今の日本は、「自分はどのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」考えない人が多いと言われています。
 聖書は神様から私たちへのメッセージが記されている書。聖書には、私たちがどのように生きるべきなのか、何を大切にして生きたら良いのか、様々な表現で記されています。この特徴を強調して言うならば、聖書は人間の取り扱い説明書です。「どのように生きるべきなのか。」「何を大切に生きたいのか。」考えない人が多い国にあって、人間の取り扱い説明書である聖書を読むことは大事なことです。

 何か新しい物を買った時、説明書をよく読むという人もいれば、殆ど読まないという人もいます。異常に分厚い説明書を前に、読む気をなくすこと、説明書の説明書が必要ではないかと思うことがありますが、とはいえ、その物を大事に安全に、その能力を最大限使いたいのであれば、説明書を読むことは大事です。
 皆様は、説明書を読まずに、失敗した経験はあるでしょうか。私が小学生の時。焦げ付かないフライパンとして、テフロン加工のフライパンがテレビのCMで宣伝されていました。夏休みで、祖父母の家に行った時、そのCMを見た祖母が、試しに買ってみようと言い購入することに。買ったばかりのテフロン加工のフライパンで、祖母が野菜炒めを作ったのですが、「これはダメだ」と言うのです。「どうしたの」と聞くと、野菜を入れる際に、包丁がフライパンに当たった部分が焦げたと言うのです。しかし、側に置いてある説明書の最初の部分に、大きな文字で、「包丁などの硬い器具で表面を傷つけないで下さい。」と書いてありました。小学生の私をして、いくら大好きな祖母だとしても、これは祖母が悪いと思った出来事です。
 買ったばかりのフライパンが、すぐにダメになる。勿体なく思いますが、それでもこれはフライパンの話。これと同じことが、人間にも起こる。私たちにも起こるとしたら、勿体ないではすみません。しかし、聖書は人間の取り扱い説明書だとすれば、同じことが起こりうるのです。聖書を読まずに生きる、聖書に従わないで生きる時、私たちの人生はひどく勿体ない状態になることがある。説明書を読まないために、私たちの人生が、傷つき、壊れること。喜びに満ちた歩みがあるのに、それを知らない人生となることがあります。

 それでは、私たちはどのように生きるべきなのか、聖書には具体的にどのように書いてあるのでしょうか。いくつもの箇所を例に挙げることが出来ますが、例えば「十戒」という名で知られる有名な教えがあります。特に人に対して、どのように生きるべきなのか、その一部分を挙げると、
 出エジプト記20章13節~15節
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。」

 何も特別なことではない。当たり前のことではないかと思われるでしょうか。その通り。聖書には、道徳的、倫理的に当たり前のことも書いてあります。(とはいえ、怒りや憎しみがあるわけではない、ただ殺したいから殺すという殺人事件が起こり、不倫をしていても大きな問題ではないという風潮があり、次々に生み出される新たな手法の詐欺があります。殺人、不倫、盗みをしてはいけないのは、当たり前と言いきれない状況になって来ているとも言えます。)
 ところで、取り扱い説明書にしてはならないと書いてあることをした場合、どうなるでしょうか。その物が劣化する。壊れる。有害な出来事が起こる場合もあります。聖書が人間の取り扱い説明書ならば、そこに記された、してはならないことをするというのは、私たちの人生が劣化し、壊れ、有害な出来事が起こるということ。私たち自身が壊れていき、他の人に有害な存在となることがあります。
 「包丁などの硬い器具で表面を傷つけないで下さい。」とあるのに、それをしたら、焦げないフライパンが劣化するように、殺人、姦淫(不倫)、盗みをする時、私たちの人生が傷つき、良い可能性を潰すことになるのです。

 聖書の中には、このような「~してはならない」という制限をかける表現の教えもありますが、より積極的、「~をしなさい」と教える聖書箇所もあります。
 Ⅰテサロニケ5章16節~18節
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

 この言葉も非常に有名な聖書の言葉。「喜び」「祈り」「感謝」に取り組むようにと教えらています。ここでは三つのこと「喜び」と「祈り」と「感謝」が並んでいますが、今日は礼拝のテーマに合わせて、この中で特に「喜び」に焦点を当てて、考えを深めたいと思います。
 人間の取り扱い説明書に、「喜ぶように」とある。それはつまり、私たちにとって「喜ぶ」ことは造られた目的に沿っていることであり、それに取り組むことは私たちにとって有益。反対に言えば、私たちが喜ぶことに取り組まないとしたら、それは自分にとって良くないこと。危険なことだと言えます。
 これまで「喜ぶ」ことにどれ位、取り組んできたでしょうか。この一週間、喜んで生きてきたでしょうか。聖書が、「喜ぶ」ことを大事なこととして教えていたことを知っていたでしょうか。その教えを真剣に受けとめてきたでしょうか。聖書はこれ以上ないほど明確に、「喜びなさい」と教えています。その教えを真剣に受けとめて、私たち皆で喜ぶことに取り組みたいと思います。

ところで、皆様はどのような時に喜びがあるでしょうか。何に喜びを感じるでしょうか。「喜び」と言っても、色々な喜びがあります。
 一つは、「人によって異なる喜び」です。私の妻はウィンドウショッピングが好き、私は嫌いということがあります。ある人は運動するのが好き、ある人には苦痛。ある人は温泉が好き、ある人は苦手。などなど、快いと感じる状況は人によって異なります。
自分にとって喜びを感じることは何なのか、自分らしい喜びとは何か。把握しておくのは大事なことです。

 「共通する喜び」もあります。時代、地域、文化、民族に関係なく、基本的には全ての人間に共通する喜び。何だと思うでしょうか。それは「愛すること」です。聖書によれば「愛すること」が私たちが造られた目的の中心。造られた目的に沿って生きる時、私たちには大きな喜びがあります。

 「喜ぶべきでない喜び」もあります。これは喜んではいけない。何だと思うでしょうか。聖書の表現で「肉の行い」と言われるもので、不品行、好色。敵意、争い、ねたみ。酩酊、遊興。などなど。(ガラテヤ5章19節~21節)これらは喜ぶべきでないことでした。(聖書全体から、喜ぶべきでない喜びを他にも多数挙げることが出来ます。)不倫の関係を楽しむ。風俗通いが喜びである。人の悪口を止められない。危害を加える妄想にふける。我を忘れる程、お酒を飲むのが好き。あるいは薬物に手を出す。仮にこのようなことが喜びだと感じたとしても、それは喜ぶべきことではありません。喜びだと感じること自体、問題とも言えます。

 さらに聖書によりますと「永遠の喜び」があると言います。永遠の喜び。つまり、それを持っていれば、どのような状況、状態でも喜ぶことが出来る。変わらない喜び、失われない喜びです。
 変わらない喜びがあるというのは、聖書で教えられなければ、信じがたいことです。私たちが持っている喜びは、条件が付いています。自分の好きなことをしているから。快い状況の中にいるから喜びがある。愛する人と良い関係の中にいるから喜びがある。これらの喜びは、そうでなくなると失われるものです。
 しかし聖書は、変わらない喜び、失われない喜び、永遠の喜びがあると言うのです。
 ヨハネ4章13節~14節
「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」

 井戸のそばで、私たちの救い主イエス・キリストと女性が話している場面。水には二種類ある。飲んでもまた渇く水と、飲むと渇くことのなくなる水です。井戸から沸き出てくる水を前に、物質的な水のことだけでなく、霊的なこと、信仰的なことを話されている場面。これまでの話に合わせて言うならば、飲んでもまた渇く水とは、条件付きの喜び、なくなりうる喜び、感情的な喜びです。飲むと渇くことのなくなる水とは、永遠の喜び、変わらない喜び、失われない喜びです。
 ここでイエス様は、「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。」と言われています。つまり、永遠の喜び、変わらない喜びはあるということ。そして、それは私たちが作りだしたり、生み出したりするものではない。「わたし」が、イエス様が私たちに与えるものだと言われています。
 聖書は人間の取り扱い説明書。その聖書が私たちに教える重要な生き方は、イエス・キリストという救い主を知り、信じること。イエス様より、渇くことのない水、変わることのない喜びを貰うことでした。皆様は、このような聖書の教えにどのように向き合うでしょうか。

 以上、聖書は私たちに喜ぶことを非常に大事なこととして教えていること。しかし、喜びと言っても、色々な喜びがあることを確認しました。これらのことを踏まえて、喜び上手な人になるために、どのようなことをしたら良いのか。喜ぶことへの取り組みについて考えたいと思います。

 最初に取り組みたいことは、自分の喜びは何か考えることです。それぞれに異なる喜びがあるので、自分の喜ぶことを把握する必要があります。また、喜ぶべきでないことを自分が喜んでいないか。確認する必要もあります。
自分らしい喜びはこれだと言える人がいます。少し考えれば、すぐに出てくる人もいます。しかし、そのような方々でも、もっと考えれば新たな発見があるかもしれません。自分らしい喜びはこれですと、なかなか言えない人もいます。それでも焦らずに、自分らしい喜びを見つけることに取り組んで下さい。

 自分らしい喜びを把握したら、次に取り組むのは、その自分らしい喜びを味わう時間を、一日のうちで持つこと。愛する時間を持つこと。あるいは、一週間のうち一日は、喜びの日とすることです。
毎日を生きるのに忙しい私たち。「あれもしなければならない。これもしなければならない。」と自分で決めて、喜ぶための時間を後回しにしがちです。「喜びなさい」と教えられていますので、私たちは積極的に喜ぶための時間を確保すべきです。
 少し前のこと。娘とお風呂に入りながら楽しく遊んでいました。その時、私の頭にあったのは、「この後お風呂を出て、娘の髪を乾かし、歯を磨き、家庭礼拝をする。娘が寝たら、妻との時間を持ち、妻が寝たら、今日中にやっておきたかったあれやこれやに取り組む。」と、自分で決めたスケジュールでした。そのため私の口から出た言葉は、「急いで体を洗って、お風呂から出よう。」でした。楽しく遊んでいたのに、急に「急いで体を洗って、お風呂から出よう。」と言われた娘は、「なんで?」と聞いてきたのです。
 この時の娘の「なんで?」というのはとても良い質問です。娘にはそのような意図はないでしょうが、私にとっては、娘との喜びの時間と、自分のスケジュールと、どちらが大事なのかと問われたのです。勿論、好きなだけ喜びの時間をとることは出来ません。やるべきことに取り組む時間も大事です。しかし、多くの場合、喜ぶための時間を持つことを意識しないと、私たちは愛するための時間、喜ぶための時間を後回しにしてしまいます。「喜びなさい」と教えられていることを覚えて、私たち皆で、喜ぶための時間、愛するための時間を持ちたいと思います。

 喜び上手な人となるために、喜びの達人と時間を過ごすことも良いと思います。皆様の周りで無理なく、いつも喜んでいる人いるでしょうか。喜びの達人と聞いて、頭に浮かぶ人は誰でしょうか。私は四日市キリスト教会の中で、思い浮かぶ人が多くいます。(本当は牧師である私が、そのような人になりたいのですが、残念ながら、私が教会員の方から良く言われるのは「疲れていますね。大丈夫ですか。」です。)
喜びの達人と一緒にいると、何が喜びなのか新たな発見があり、喜ぶことの大切さを体験出来、また自分からも自然と喜びが出てきます。自分が思う喜びの達人と、時間を過ごすことに取り組みたいと思います。

 喜び上手な人となるために。もう一つ取り組みたいことは、永遠の喜び。変わらない喜びを、イエス様から貰うことです。聖書は、自分の力では得ることの出来ない喜びがある。この救い主から貰うしかない喜びがあると教えています。本当に喜び上手な人を目指すならば、この喜びを得ることはとても大事。
聖書のこと、イエス・キリストのことを知らない。永遠の喜びと聞いても分からない。しかし、変わらない喜び、尽きない喜びがあるなら、それを味わいたいという方がいらっしゃるでしょうか。
 聖書の言う永遠の喜び、変わらない喜びは間違いなくあります。どのようにしたら、それをイエス様から受け取れるのか。お伝えしたいと思いますので、引き続き教会に来て頂ければ大変嬉しく思います。自分を誘った方に詳しく聞くのも良いでしょう。牧師のところに、聞きに来て頂くのも良いです。永遠の喜び、変わらない喜びを、イエス様から受け取ることを、心からお勧めいたします。
 すでにイエス様から、永遠の喜び、変わらない喜びを貰っている方々。クリスチャンの皆様。自分がどれ程大きな恵みを頂いているのか。ともに再確認しましょう。罪赦され、清い生き方が出来る命。どのような時でも、神様とともに歩むことが出来る命。全てのことが益とされると信頼出来る命。永遠の命とも、新しい命とも呼ばれる、この永遠の喜びを私たちは頂いているのです。その永遠の喜びを、ともに喜びたいと思います。
 これらのことに取り組みながら、私たち皆で、喜び上手な人になりたいと思います。