勿論、このままの状態で良いわけではありません。ある心理学の本に、私たちは5歳ごろまでに、母親とのつながりを通して心にエネルギーを蓄える電池を貰い、この電池のおかげである程度の年齢に達すると、子どもは母親がそばにいなくて寂しくなっても、母親から充電したエネルギーを使って環境に対応することができるようになる、つまり自立の第一歩を踏み出すことができるとありました。
私たちは、イエス・キリストが十字架の死を間近に見つめながら、地上に残してゆく弟子たちに対して語られたことば、惜別説教と言われる箇所を読み進めています。そして、今日の箇所に登場する弟子たちは、視界から消える母親の後を追う赤ん坊と同じ心境にあったように思われるのです。
この時、弟子たちはイエス様と共に過越しの食事の席についていました。しかし、和やかに進められてきた交わりの場に、突如緊張が走ります。「あなたがたのうちのひとりがわたしを裏切る」と、イエス様が告げられたからです。さらに「今しばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいますが、その後あなたがたはわたしを探すでしょう」と言われ、ついに「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」と語られるに及んで、彼らの心は今まで信頼してきたイエス様が自分たちのもとを離れ去ってゆくという不安で一杯になったようです。そうなると、思っていることを口に出さずにはいられない性質の人、ペテロが声をあげ、弟子としての覚悟の程を示します。
13:36、37 シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」
イエス様の使命である十字架。人類の罪を贖うための十字架の死はイエス様が一人歩む厳しい道であり、誰もその後に従うことはできないと、イエス様は言われます。事実、このすぐ後、役人に捕えられたイエス様の後を追うペテロは、身の危険を感じると、人々の前で「私はイエスなど知らない、何の関係もない」と断言。心に抱いた強い覚悟とは裏腹に、脆くもイエス様を否定してしまったのです。
その様なペテロが、人々を助ける弟子となり、イエス様に従う人生を全うできたのは、復活のイエス様に出会い、十字架の死の意味を悟った後のことでした。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」と語られたイエス様は、十字架につまづいたペテロが、やがて十字架の愛によって立ち直り、活躍する姿を見ておられたのです。
しかし、この時のペテロは熱心で勇敢の人にありがちなことですが、自分に頼む思いが強く、「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」と猛反発しました。そのペテロに告げられた言葉が38節です。
13:38 イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」
イエス様は、ご自分に従う者となるために、ペテロが自分の弱さを徹底的に知ることが重要と考えておられたようです。自分の弱さを思い知る時、本当の意味でペテロがご自分に頼り、ご自分の愛を受け取ることができると知っておられたのです。
「自分の力でわたしに従っていると思っているうちは、弟子として半人前。あなたが心からわたしを愛し、従うことのできない自分の現実を知るのは辛いことだが、その様な時こそ、弱き者を心から大切に思い、期待し、十字架の愛で支えるわたしを知り、仰ぐことができる。」やがて、ペテロは、この時は無情とも聞こえたこのことばに、どれ程イエス様の愛と期待が込められていたかを知ることになります。
こうしてペテロに話をされたイエス様ですが、今度はご自分が地上を離れるのは天に永遠の住まいを準備するためと説明し、彼らの不安を和らげ、心を将来に向け、励まそうとされます。
14:1~4 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
天の御国が一つの家にたとえられています。「わたしの父の家」とある通り、所有者は天の父なる神様。英語の聖書にはこの「家」をマンションと訳すものがありますが、マンションは大邸宅、多くの部屋と十分な広さをもつ大邸宅を意味します。大邸宅に等住んだことのない弟子たちは目を丸くしたかもしれませんが、イエス様が天の御国をいかに身近で、現実的なものとして知って欲しかったかが伝わってきます。
「天の父が造られた家に、あなたがたひとりひとりの部屋を整えるため、わたしは行く。あなたがたが地上を去る時は、わたしが迎えに来てあなたがたをそこに連れてゆく。だから、この望み、この祝福を思って、今直面している不安や寂しさを忍耐せよ。父なる神とわたしを信じて心を騒がせるな、平安であれ。」この様なイエス様の優しいメッセージを聞きたいところです。しかし、弟子たちの心には、このイエス様のことばも届かなかったようです。ペテロに続いて声を上げたのはトマスでした。
14:5、6 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
イエス様が「わたしの行く道はあなたがたも知っています。」と言われたのに対し、「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」と答えたトマス。
トマスは、弟子たちの中で一番最後にイエス・キリストの復活を信じた人として登場します。「私は、主のわき腹と、その手に空いた釘の跡に、指をさしこまないかぎり決して信じない。」と語った現実主義者。自分が見たこと、自分が触ったものしか信じないという頑固者でした。
その性格がこの言葉にも表れています。「父の家」と言って、そんな夢のような場所がどこにあるのですか。「わたしのゆく道」と言われますが、その道はどこに存在するのですか。私にはさっぱりわかりません。
遠慮がないと言うか何と言うか。イエス様が言われた事だから信じよう、仲間の言うことだから信じようと言うような、おおよそ人を信頼することの苦手な人、自分しか信じないという手の付けられない頑固者。それがトマスでした。
しかし、こんなトマスの為にもご自分を表してくださるのがイエス様です。聖書の中でも有名なあのことばがこの時発せられました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
お釈迦様に孔子にソクラテス。昔から人として生きるべき道を教えた人は大勢います。しかし、「わたしが道である」と言われたのはイエス・キリストただ一人。ご自分こそ真理つまり神への道であり、ご自分こそいのちつまり永遠のいのちへの道であることを宣言された、イエス様にしか語れないことばです。そして、この様にご自分を神と主張されたので十字架の死に追いやられる事態を招きましたから、これはイエス様の命がけのことばと言っても良いものです。
トマスよ。自分が見たものしか信じない。自分が触ったものしか信じない。そんな頑固な心を捨てて、わたしを信頼せよ。それが、あなたが心から願っている神を知る道、永遠のいのちに至る道なのだよ。
現実主義とか経験主義と言えば聞こえが良いかもしれませんが、自分しか信じないという罪、頑固で高慢な心の持ち主すべてが聞くべき、イエス様渾身の語りかけでした。
さらに、トマスの次はピリポです。ピリポは「今やあなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです」というイエス様のことばに、「そうかな」と感じたらしいのです。
14:7、8 「あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
ピリポは最初の頃からのイエス様の弟子。ペテロやヨハネ同様、最も長い間一緒に過ごした弟子であるはずなのに、どうやらイエス様のわざと教えを通して、十分満足するほどに、天の父の姿を見ることができなかったと感じているようなのです。それに対するイエス様のお答えは、逆にピリポの姿勢を問うものとなっています。
14:9~11 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」
イエス様が今まで語られた教えでは物足りない、今まで行ったわざだけでは天の父を知るには十分ではないと感じていたピリポ。何故、ピリポは足りないと感じたのでしょうか。イエス様は十分教え、十分わざを為したと言っておられるのに、ピリポが物足りないと感じていた原因はどこにあったのでしょう。
ずばり、イエス様は、ピリポの側の求める姿勢に問題があると言っておられます。こんなに長い間わたしとともにいながら、あなたは何を聞き、何を見てきたのですか。本当にあなたはわたしを通して、天の父のことを知ろうと求めてきたのですか。
このイエス様の問いは、私たちに向けられた問いでもあります。私たちは余りにも簡単に聖書が分からないと言ってしまうことがないでしょうか。説教を聞く際も、関心は自分の心の満足であって、もっと神様を知りたいと言う心の渇きをもっていたでしょうか。神様のみ心がなりますようにと祈りながら、みことばのなかに真剣にみ心は何かと答えを見出そうとしてきたでしょうか。わかったつもりにならないで、常に神様を知ること、神様に従うことを求める姿勢を持ち続けていたいと思います。
それにしても、己の弱さを知らず、猪突猛進型のペテロ、頑固者のトマスに神様を真剣に求める姿勢に欠けていたと思われるピリポ。十二弟子と言っても、情けないと言うか心もとない者たちに、よくもイエス様は謙遜に、寛容に接しておられると感じます。一人一人の弟子を受け入れ、仕えておられるイエス様の姿は、私たちもまた弱さや欠点をもったまま、イエス様に愛されている者であることを思わせ、安心を覚えます。
最後に、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。」と語られたイエス様の思いを考えてみたいと思います。もとのことばでは、「あなたがたの心が騒がされることがないように」となっています。つまり、イエス様は、私たちの心を動揺させるような悲しみや困難がこの世には起こること、その様な出来事に私たちの心がどれ程騒がされ、不安を覚えるものか、よくよく理解してくださっているお方なのです。
しかし、いつまでもそれらが私たちの心を騒がせ、私たちの心が支配されてしまうことを許してはならないと、イエス様は言われるのです。そうしたことに私たちの心を委ねてしまうのではなく、私たちの心を委ねるべきは天の父であり、わたしなのだと語っておられるのです。最初にも言いましたように、子どもが母親の姿が見えなくても、困難な状況に直面して対応してゆけるのは、母親の愛情と言うエネルギーを心の中に蓄えているからです。おなじことが、神様と私たちの関係についても言えます。
今日の箇所、私たちはイエス様が弟子たちの弱さも欠点も知ったうえで、愛を注がれる姿を見てきました。彼らが復活のイエス様に出会い、十字架の意味を悟った時、この時注がれた愛がエネルギーとなって、迫害と言う困難の中、彼らは神と人を愛する弟子として活躍することができたのです。
神を信じる、イエス・キリストを信じるということは、私たちの心に愛と言うエネルギーを送ってくださる父なる神様とイエス・キリストに心を向けること、心を委ねることを、人生の優先順位の一番に置くと言うことです。
果たして、私たちは何にどれぐらいの割合で心を使っているでしょうか。起きてしまった取り返しのつかないことを繰り返し悔やむことに心を使っているでしょうか。あの人が手を差し伸べてくれないと、人を責める続けることに心を向けているでしょうか。これは、心を騒がせること、心のエネルギーが限りなくゼロに近づく道です。
イエス様が命じているのは、私たちの心に惜しみなく愛を注いでくださる父なる神様とイエス様ご自身に心を向けること、心を委ねることなのです。今目の前にある不安を覚えさせる出来事や苦しい状況だけを見つめて心を騒がせないように、むしろ私たちのために最善の祝福を備えてくださる神様を信頼し、神様に心を向ける歩みをしたいと思います。
Ⅰコリント10:13 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。