2014年8月10日日曜日

マタイの福音書20章25節~28節 「仕えられた者として」

 約三ヶ月前のことです。父が骨折し入院。軽度のアルツハイマーを患っている母が、一人自宅で生活し、毎日父のお見舞いに行く状況となりました。一応、それでも生活が成り立っていましたが、母が大変そうだということで、二週間ばかり母が四日市に来て私たち家族とともに生活をすることになりました。その節は、教会員の皆さまに良くして頂きまして、本当に感謝しております。
当初は二週間、四日市に滞在する予定で準備をしました。母も四日市を満喫していましたが、しばらくすると、千葉へ帰ると言うのです。どうして帰りたいのか聞くと、私たちに申し訳ないと言うのです。気にしないで、滞在して欲しいこと。予定を変更すると、その方が大変なことを伝えて、その時は納得するのですが、しばらくするとまた、千葉へ帰りたいと言うのです。何日かこのやりとりを繰り返したのですが、最終的に母が言った、帰らないと行けない理由が、「教会を守らないといけない」となりました。「教会を守る」。そう言われた時、これは帰らせないといけないと感じました。千葉の小倉台キリスト教会には、立派な伝道師の方がいましたし、長老の方々もいます。母が帰って、「教会を守る」ために出来ることは、具体的には思いつかない状況。それでも母は真剣に、教会を守るために自分は帰ると言う。
「伝道師の先生がいるから。」「長老の方々がいるから。」「教会を守ると言っても、やることはないでしょう。」などなど、引きとめる言葉はあるかもしれませんが、それは言うべきではない。予定を変更してでも、帰さないといけないと感じました。「教会を守る」という言葉に母の信仰を見たからです。自分を何者として生きるのか。母は自分を、教会を支える者としていることが分かったので、それを邪魔してはいけないと思ったのです。
この母を前にした時、私は考えさせられました。果たして、自分が母と同じ状況になった時。病を患い、記憶や論理的思考があやふやになった時、私の口から出てくるのは、どのような言葉なのか。意識がはっきりしていれば、信仰者らしい言葉、牧師らしい言葉を言うことは出来ます。しかし、自分の本性がそのまま出る時、一体、私は何を言うだろうかと考えさせられたのです。皆さまが同じ状況になったとしたら、どのようなことを言うでしょうか。

これはつまり、自分を何者として生きるのか。自分のアイデンティティは何か。自分の本性は何かというテーマです。皆様は、自分を何者として生きているでしょうか。
自分はどのように生きたいのか。それと同時に、聖書は私たちに、どのように生きるよう勧めているのか。今日の箇所より皆様とともに考えたいと思います。

 約二千年前、十字架にかかる直前のイエス様と弟子たちのやりとりの場面。ここでイエス様は、自分が何者であるのか、次のように言われています。

マタイ20章28節a
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、」

 イエス様はご自身を何者として生きていたのか。どのように生きたいと考えておられたのか。私たちの救い主の生き方の中心は、仕えること。神の一人子。王の王、主の主であられる方が、自分を何者だと考えていたのかと言えば、仕える者と考えていた。驚くべき言葉です。
私たちの神様は、私たちに仕えるために、人となられた神様。その重さ。ここでイエス様が語られた言葉が、いかに凄いことを語っているのか。果たして私たちは正しく理解しているでしょうか。

 イエス様がここで、ご自身を仕える者として紹介したのには、背景があります。どのような場面で語られたのか、確認していきたいと思います。
 マタイ20章18節~19節
「『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。』」

 キリストは実際に十字架で死に復活する前に、何度かそのことを弟子たちに教えていました。マタイの福音書に沿って言えば、ここは三回目の予告。これまでは、ご自身の死は宣言していましたが、十字架で死ぬとはっきりと言われたのは、ここが初めてです。十字架の死を間近にした、緊迫した真剣な場面。
 ところが、ここでとんでもない願いをしてくる者が現れる。それも直弟子の中からです。

 マタイ20章20節~21節
「そのとき、ゼベダイの子たちの母が、子どもたちといっしょにイエスのもとに来て、ひれ伏して、お願いがありますと言った。イエスが彼女に、『どんな願いですか。』と言われると、彼女は言った。『私のこのふたりの息子が、あなたの御国で、ひとりはあなたの右に、ひとりは左にすわれるようにおことばを下さい。』」

 ゼベダイの子たちとは、ヤコブとヨハネのこと。十二弟子の中でも、特に中心的な人物たち。その母が願い出たのです。「二人の息子に高い地位を与えて下さい。その約束を下さい。」と。子ども思いの母が、本人たちの願いとは別に、キリストに願い出たというのならばまだ理解出来ます。しかし、他の福音書と合わせて読むと、ヤコブとヨハネ自身も同じ願いを持っていたことが分かるのです。
 ヤコブとヨハネと言えば、あまりの気性の荒さに、キリストに雷の子とあだ名をつけられた人たち。その二人が、高い地位に着きたいと願いをする時は、母の背中に隠れていた。普段は気性荒く振る舞うくせに、地位を求める時は母に隠れる。情けない場面。

 この願いに対してイエス様は、いくつかのやりとりを経て答えています。「それは父が備えるのだ」と。ですので、ヤコブとヨハネ兄弟、その母の願いは、願い通りとはなりませんでした。
 ところが、二人が抜け駆けして、高い地位を願ったということに、十二弟子の残りの者たちは腹を立てたと言います。

 マタイ20章24節
「このことを聞いたほかの十人は、このふたりの兄弟のことで腹を立てた。」

 なぜ腹を立てたのでしょうか。簡単です。残りの十人も、ヤコブとヨハネ兄弟と同じ思いだったからでしょう。私こそ、イエス様の左か右に座るのに相応しい。座るべきだと考えていた。だから、抜け駆けをしたヤコブ、ヨハネに腹を立てたのです。これが弟子たちの姿。それもイエス様が十字架での死と復活を予告した直後の弟子たちの姿です。
皆様はどのように思われるでしょうか。情けない、恥ずかしい、ひどい体たらくだと思うでしょうか。それとも、私も同じ、この十二人と何ら変わらないと思うでしょうか。

 神様から離れた人間。罪人の思いの一つは、自分を高くしたい。人を従え、仕えられる立場に着きたいというもの。仕えるよりも、仕えられたい。どうしても、自分を低くするということが分からない。罪の思いというのは、自分を高く高く、上へ上へと向かわせるのです。いかがでしょうか。どのように生きたいのかと問われたら、人を従え、仕えられる者になりたいという思いはないでしょうか。
 これがキリストの弟子たちのうちに起こった姿であるというのが深刻です。彼らはキリストに従っていた者たち。信仰を持った者たちです。その者たちをして、誰が偉いのか、誰の地位が高いのか。誰が仕える者で、誰が仕えられる者なのか。キリストの十字架を目の前にしながら、それよりも自分が大切なのです。信仰の世界でも、これが起こるのです。
私は何年、何十年と教会生活を守った。私は聖書を読むことを欠かさない。祈ることを欠かさない。これだけ奉仕した。これだけ伝道した。そのようにして自分を偉く見せたい。自分で自分を偉いと思いたい。そのような思いが、私たちクリスチャンの心から沸いてくるのです。この時の弟子たちの姿は、私たちの姿でもある。そのように読めます。

 このような弟子たちに。このような私たちに、イエス様は何を語られたのか。
 マタイ20章25節~27節
「そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。『あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは彼らを支配し、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。』」

 十字架での死と復活を宣告した直後に、偉くなりたいと騒ぐ弟子たち。ご自身が徹底的に低くなることを宣言されているのに、仕えられたいと騒ぐ弟子たち。少しも主の心を慮らず傷つけるだけの弟子たち。自分がイエス様の立場であれば、この弟子たちを見捨てても良いと思うところ。しかし、我らが救い主は、これでも弟子たちに懇切丁寧に教えるのです。ありがたいというか、勿体ないというか。
 「いいですか。人を思い通りに動かすこと。人に仕えられること。それが、地位が高いこと。偉いことだと思っているのでしょう。しかし、それは神を知らない異邦人の考え方です。この世界の作り主を知らず、どのように生きたら良いのか知らない異邦人は、支配し、権力をふるうことこそ、地位があり偉いことだと考えています。しかし、あなたがたの間では、そうではありません。むしろ地位があり、偉いというのは、皆に仕える者であり、しもべとなること。神無しの考え方、異邦人の考え方に染まるのではなく、神の国の考え方を忘れないように。」と語られるのです。
 この世界の考え方とは正反対。逆説的。しかし、これが真の宗教であり、キリスト教です。この言葉を私たち一人一人が本当に受け入れたとしたら、この地にあって大きな影響力を持つ教会となります。多くの者が人を従え、仕えられたいと考える世にあって、仕えることを目指す者たちとなる。四日市キリスト教会が、ますます互いに仕え合う教会、世界に仕える教会として、成長していきたいと願います。

 さて、それではどのようにしたら、私たちは喜んで仕えることを選びとれるのでしょうか。先に確認したように、クリスチャンの中にも、偉くなりたいという思い。それも異邦人の思として、偉くなりたいというものが存在するのです。真面目にクリスチャン生活を続ければ続ける程、その誘惑が強くなるとも言えます。私たちはどうしたら、仕える者となれるのか。それは次のイエス様の言葉を真正面から受け止めることです。

 マタイ20章28節
「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

 イエス様はただ、私たちに仕える者となりなさいとは言われませんでした。まずご自身が仕える者となられた。それも、私たちに仕えて下さった。
 どのように仕えるのでしょうか。それは贖いの代価として。自分の命を与える。つまり私たちの身代わりに十字架につく。それ程まで徹底的に仕えるのです。これ以上ないほど、低く低くなって私たちに仕えるというのです。

 イエス様は私たちに言います。「仕える者となりなさい」と。しかし、その前に言うのです。「あなたがたは仕えられた者ですよ」と。私たちは自分を何者として生きるでしょうか。「仕える者」でしょうか。それは正しいことですが、その前に「仕えられた者」として生きるべきです。イエス様に仕えてもらったことを味わないで、仕える者となることは出来ません。まずは「仕えられた者」として生きること。つまり、イエス様に仕えてもらったことを、よくよく覚えるべきです。

 そのようなわけで、今日はこの「仕えるために来た」と言われたイエス様の言葉に真正面しましょう。この言葉を真剣に味わいましょう。この言葉を胸に刻みましょう。世界のつくり主が、私のために、徹底的に低くなり仕えられた。王の王、主の主である方が、私に仕えるということを受け取りましょう。
この聖書の言葉を本気で受け止める時、偉くなりたい、仕えられたいという思いが治まっていきます。神様に仕えてもらったのですから、十分なのです。十分過ぎるのです。
「世界をつくり、支配される神が、あなたに仕えるために人となられた。それもあなたの身代わりに十字架で命を落とす。それ程までにあなたに仕えられました。」これが福音の中心です。この福音を信じる者の幸いを皆で味わいたいと思います。

 今日の聖句を皆で読みたいと思います。
 Ⅰヨハネ4章10節~11節
「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」

 以上、今日の箇所から、私たちは自分を何者として生きるのが良いのか考えました。イエス様に仕えられた者として、互いに仕え合う者となる。徹底的に神様に仕えられた者として、私たち自身も仕える者となる。今日のイエス様の言葉に従って、具体的に人に仕える歩みを、皆で取り組みたいと思います。