2014年8月24日日曜日

ヨハネの福音書14章12章-21節 「もうひとりの助け主」

 今NHKで「芙蓉の人」と言うドラマが放映されているのをご存知でしょうか。今から120年前の明治25年、富士山頂に私財を投じて観測所を作った野中到、千代子夫妻の物語です。当時「当たるも八卦、当たらぬも八卦。当てにならない」と酷評されていた天気予報をより正確なものとするため、富士山頂における冬期気候観測を命がけで行った野中到と、それを助けた千代子夫妻の絆が描かれ、心打たれます。
芙蓉とは雪に覆われた美しい富士山を白い蓮の花に重ねた言い方ですが、芙蓉の人と言われた千代子の生き方は凄いものでした。その頃は封建的な男尊女卑の時代。夫から「足手まといだから来るな」、「職場に女房など連れて行けないから、ついて来るな」と反対される。姑からは「嫁は家を守るべき」と釘を刺される。役人からは「女性の冬の登山など認められない」と禁止され、世間からも冷たい視線をむけられる。
その様な状況のなか、千代子と言う人は「夫の事業を助けたい」、「愛する人のそばにいき、助けになりたい」という意思を貫いて富士山頂に登り、高山病に苦しみながらも、世界初とされる冬期気候観測をやり遂げたと言うのです。
今日の箇所。妻千代子が助け手となって夫到の事業が成し遂げられたように、私たちのクリスチャンとしての歩みもまた、聖霊の神様が助け手として与えられることで初めて完成するものであることを教えられます。
私たちが読み進めているのは、ダビンチの絵で有名になったイエス・キリストと弟子たちの最後の晩餐の場面。その席上、ご自分がこの世を去ってゆくことに不安を覚え、心弱らせる弟子たちを思い遣ってイエス様が語られた惜別説教と言われるところです。
先回、イエス様は弟子たちに、ご自分がこの世を去ってゆくのは、天の父の家にあなたがたの住まいを用意するためと語り、彼らの心をやがて来るべき天の御国へと向けられました。今日の箇所では、彼らにもたらされる祝福はそれにとどまらず、何と彼らがイエス様よりもさらに大きなわざを行うと約束されたのです。

14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

この驚くべき約束は、イエス様がこの世を去った後実現します。彼らは、イエス様と同じく病人を癒し、死人を生き返らせる奇跡を行い、人々に神の国の到来を告げたのです。それも、「さらに大きなわざ」と言われている様に、イエス様の活動がユダヤの国にとどまっていたのに対し、弟子たちの活動と影響力はローマ帝国に住むあらゆる民族へと、広がって行きました。
しかし、彼らに与えられる祝福はそれにとどまりません。イエス様の名によって祈り求めることは、何でもかなえて頂けるという約束も付け加えられたのです。

14:13~15 またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。

  人類の罪を贖うため十字架に死ぬという天の父のみ心を成し遂げたら、わたしは栄光を受けて天に昇る。そこで、地上にいるあなたがたが祈り、求めることを天の父にとりなし、確実に実現に至らせることができる。だから、わたしが世を去ることは、あなたがたのために益となり、祝福となる。そんなメッセージがここに聞こえてきます。
 私たち個人の名で、私たちの名義で、神様に直に何かを求める資格は私たちにはありません。しかし、私たちの代わりにイエス・キリストと言う、神様のみ心を完全に成し遂げたわたしの名義であれば何事でも聞いていただけると思ってよい、そう思って安心してよいとの約束でした。
 果たして、私たちはこの様な恵みを心から感謝しているでしょうか。この様な特権を大いに活用して、何事であれイエス・キリストの御名で祈り求めているでしょうか。それとも、この様な尊い権利をほったらかし、無駄にしてはいないか。自分自身の祈りの生活を振り返りたいところです。
 ただし、求めることは何でもかなえられるではなく、イエス様の名によって求めることは何でも、と言われていることに注意したいと思います。社会一般でも、私たちが人の名義を借りるという場合、名義を貸してくださる人が同意し、承知していることしかできないのが普通です。ですから、イエス様の名で、イエス様の名義で祈り求めるとは、イエス様の示された教えにかなったことを祈り求めると言うことになります。
「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」と言うことばによって、私たちは自分の祈りが自分勝手でわがままなものにならぬよう戒めたいと思います。同時に、イエス様への愛とイエス様に従う心から祈り求める者となるよう励まされ、整えられたいと思うのです。
しかし、地上に残る弟子たちを思い遣り、語られたイエス様のことばを、弟子たち自身はどう受け止めたのでしょうか。恐らく、理解できない部分が相当あったと考えられます。特に、イエス様のわざよりもさらに大きなわざを行うことになるとの約束に至っては、「自分たちがその様なことを実現できるはずもない」と考え、信じてはいなかったと思われます。
その様な弟子たちの心を知っておられたのでしょう。イエス様は、世を去るご自分に代わって、もうひとりの助け主が与えられると告げられたのです。

14:16、17 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ここに登場する助け主ということばは、助けや弁護を必要としている人の傍らに呼び寄せられる者と言う意味があります。他の聖書を見ますと、弁護士、ヘルパー、友人などとも訳されています。つまり、苦しみ悩む人に呼ばれると、その人の傍らに、すぐそばに来て助け手となり、力を貸してくれる存在ということです。正に、厳しい冬の期間、ただ一人富士山頂で気象観測を行う覚悟をしていた野中到さんにとっての妻千代さんのような存在、それがイエス様の言うもうひとりの助け主、真理の御霊でした。
弟子たちは、イエス様とともに生活をしていた時、必要とあればイエス様を呼び、助けを乞うことができたでしょう。しかし、イエス様が世を去られたら、それはできません。今の私たちも直接地上にはおられないイエス様を呼ぶことはできません。けれども、イエス様がご自分の代わりに、天の父に願って、真理の御霊と言うもう一人の助け主に与えてくださいましたから、私たちはいつでも、どこでも、弁護士として、ヘルパーとして、また友として聖霊を呼び、力を貸してもらうことができるようになったのです。
真理の御霊の「真理」とは、イエス様ご自身を指します。聖霊は、私たちにイエス様の恵みを届け、さらに深くイエス様を知り、イエス様に従うことができるように助けてくださる助け手として、私たちのうちにおられるお方。私たちのからだはこの様な聖霊の住まいであることを自覚したいと思います。
さらに、です。続くことばは、弟子たちに対するイエス様の愛が決して耐えることのないものであることを思わせます。イエス様は彼らがみなしごの様な寂しい思いに沈んでしまわぬよう、彼らのところに戻ると言われました。

14:18、19 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

イエス様があなたがたのところに戻ってくると言われた時、それはいつのことを指していたのか。昔から議論されてきました。順番に並べれば、復活の時、ペンテコステで聖霊が下った時、そしてやがて来るべき再臨の時の三つです。個人的には二つ目の聖霊が弟子たちに下った時が、この箇所に最もふさわしく、聖書の他の箇所の教えとも合うのではないかと考えます。
つまり、人類の罪を贖うため十字架に死に、三日後に復活したイエス様は栄光を受け、天に行かれました。今も、イエス様のからだは天にあるのですが、地上にいる私たちを愛してやまないイエス様は、もう一人の助け主、聖霊を通して、私たちとともにおられ、私たちのうちに住みたもうのです。愛は片時も離れず、愛する者のそばにいたいと願うもの。正に、イエス様の私たちに対する愛は、たとえその身は地上を離れても、決して絶えることなしと教えられます。
こうして、イエス様が地上を去った後、聖霊によって、私たちはイエス様といつでも、どこでも、親しい交わりをなすことができるようになったのです。

14:20、21 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

果たして私たちは、私たちがイエス様のうちにおり、イエス様が私たちのうちにおられることを信じているでしょうか。実感しているでしょうか。イエス様を愛するがゆえに、その戒めを大切にし、守りたいと言う思いがあるでしょうか。今日の聖句をともに読みたいと思います。

6:19、20 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

この言葉を通して教えられるのは、新約聖書の時代の人々が、イエス様の約束のことばを信じて、自分たちのからだが聖霊の宮、聖霊の住まいであると自覚していたこと、この自覚を非常に大切にしていたことです。
私たちは自分自身についてこのように考えて来たでしょうか。孤独を覚える時、試練の中で気分が塞ぐ時、四方八方から攻撃されているように感じる時、この言葉によって、自分のうちにどなたが住んでおられるかを思い出したいのです。自分が聖霊の家であり、私たちを愛し、十字架に死なれたイエス・キリストが聖霊を通して、宿っておられることを思い起こして、考え方を整え、為すべき行動を選択する者となりたいと思います。
最後に覚えたいのは、この様な自覚が私たちの考え方や行動に大きな影響を与えると言うことです。パウロがこの言葉を書き送ったコリントの教会には、不品行をなす人々がいました。その様な人々に対して、パウロは「あなたがたは自分が聖霊の宮であることを知らないのか。イエス・キリストがその尊い命と言う代価を払って買い取られた者であることを知らないのか」と語りました。つまり、自分のからだは聖霊の宮、イエス・キリストが十字架に尊い命をささげ贖ってくださったからだであるという自覚が、罪に対する強力なブレーキとなるのです。
また、聖霊は、神様のみ心に従いたい、イエス・キリストのように生きたいと言う願いを、わたしたちのうちに起こしてくださる助け主でもあります。皆様のうちに、この様な願いがあるでしょうか。この様な願いが日々成長しているでしょうか。
私の小学生時代、憧れのヒーローはプロ野球巨人の王選手でした。手当たり次第、王選手に関する本を読み、その生い立ちから家庭のこと、野球選手としての成績、その練習や生活の様子まで知りました。王選手について知ることが本当に喜びでした。
それだけではありません。王選手が荒川コーチとしたと言われる練習を自分もしたいと思いました。家の居間の電球の紐に新聞紙を丸めたボールをつるし、それを新聞紙で作った刀で真ん中を切るようにして打つ。それを一本足打法で繰り返す。畳が擦り切れるまで繰り返す。おかげで、電球の紐を切り、畳が擦り切れたことで、何度母親に怒られた事か。
勿論、自分の様な者が王選手になれるわけではないとわかっていたのです。わかっていたのですが、王選手のしていることなら、何でも同じようにしてみたいという思いが本当に強かったのだと思います。
クリスチャンとは、小学生の私が王選手に対して抱いた思いをイエス・キリストに対して抱く者、抱き続ける者と言えるでしょう。イエス様のように、親しく天の父と交わりたい。イエス様のように、喜んで天の父のみ心に従いたい。イエス様のように分け隔てなく人を喜び、人を愛し、人に仕えたい。イエス様のように、弱い者には優しく、驕る者には恐れることなく接してゆきたい。この様な願いが、私たちのうちで成長し、強められたらと思います。
私たち皆が、日々聖霊の住まいと言う自覚に立ち、考え、行動することにより、神様の栄光を表す歩みを進めてゆきたいと思います。