2013年8月4日日曜日

ヨハネの福音書(23)ヨハネ7:25~53「生ける水の川が」

皆様は、イエス・キリストを信じているけれども、信仰生活が生き生きとしていないと感じることはないでしょうか。平安、内なる力、喜びなどを感じることなく、日々生きているといった経験はないでしょうか。
例えて言うなら水の枯れた井戸、萎んだ花、坂道にさしかかるとエンストしそうな車。何とか格好だけは保っているものの本来のいのち、力に欠けた信仰生活です。
その原因は様々ですが、ひとつ考えられるのは、イエス・キリストを信じた者が頂いている聖霊について理解していないということがあげられるかと思います。今日は、聖霊のお働きについてともに考えたいと思います。
さて、時は紀元30年頃の秋、場所はユダヤの都エルサレム。仮庵の祭りで賑わう都は、突然宮に出現したイエス様についての話題で持ちきりでした。何しろ、男だけでも五千人の群集を二匹の魚と五つのパンを一瞬で増やし、全員を満腹させたという大奇跡の評判は都人の耳にも入っていましたし、宮で語る教えも正規の学問を修めていないものとは到底思えないほど的確で権威があったからです。
一方、そんなイエス様を妬み、亡き者にしようとする宗教指導者がいることを人々は知っていましたから、まさにこの時都はイエス様を巡って騒然としていました。

7:2531「そこで、エルサレムのある人たちが言った。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。議員たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知ったのだろうか。けれども、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。しかし、キリストが来られるとき、それが、どこからか知っている者はだれもいないのだ。」
イエスは、宮で教えておられるとき、大声をあげて言われた。「あなたがたはわたしを知っており、また、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わした方は真実です。あなたがたは、その方を知らないのです。わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わしたからです。」
そこで人々はイエスを捕えようとしたが、しかし、だれもイエスに手をかけた者はなかった。イエスの時が、まだ来ていなかったからである。群衆のうちの多くの者がイエスを信じて言った。「キリストが来られても、この方がしているよりも多くのしるしを行なわれるだろうか。」

その頃ユダヤでは、キリストつまり救い主は突然現れるものという説を信じる人々がいたとされます。そうした人々はエリートの議員たちが公然と語るイエス様を止めようとしないのを見て、不思議に思ったのでしょう。「私たちはこの男がナザレ村から来た田舎者であることを知っている。本物のキリストなら出身地など分からないはずだから、この男は本物ではない」と断定しました。
それに対してイエス様は、「あなたがたはわたしの出身地を知っているかもしれない。しかし、わたしが天の父から地上に遣わされた救い主キリストであることを知っていますか」と答えたのです。
それを聞いて、この男はとんでもないことを言うとイエス様を捕えようとする人々あり。他方、こんなにも多くのしるし、奇跡を行われたのだから、この方が救い主ではないかと思う多くの人々あり。否定派肯定派、真っ二つに分かれました。
ところで、この様子を耳にした宗教指導者パリサイ人祭司たち。彼らは「イエスは救い主」と考える人が多数であることに危機感を抱き、ついに役人を遣わしてイエス逮捕を決行します。

7:3236「パリサイ人は、群衆がイエスについてこのようなことをひそひそと話しているのを耳にした。それで祭司長、パリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、役人たちを遣わした。
そこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
そこで、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい。『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

しかし、そんな宗教指導者の魂胆などイエス様が気づかぬはずはありません。それなのに身に迫る死の危険を知りながら、イエス様は「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう」と、人々に語られたのです。
勿論これはイエス様が罪人のために十字架に死ぬこと、復活して天に昇り、父なる神様の元に帰ることを意味していました。
しかし、イエス様の尊い覚悟のことばも不信仰な者には「猫に小判」。さっぱり意味の分からない人々は、「まさかギリシヤ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシヤ人を教えるつもりではあるまい」と頓珍漢な想像をする始末だったのです。
けれども、これがやがてイエス様の弟子たちが、ギリシャを始めとする世界に広く福音を伝えることを知らずして預言していたとは、本当に面白いことでした。
さて、次は今日のクライマックス。祭りの終わりの日、神殿にすくっと立たれたイエス様があらん限りの大声で語られたことばを聞きたいと思います。
7:3739「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」

ここで言う祭りとは、先にも言ったとおり秋のお祭り、仮庵の祭りです。仮庵の祭りはユダヤの人々にとって収穫祭であり、昔先祖たちが約束の地を目指した時、日毎に仮庵、テントを作って旅から旅を続けた生活を神様が守ってくださったことを記念するお祭りでもありました。
そして、このお祭りのハイライトは最終日でした。その日祭司たちがシロアムの池から水を運び、神殿の祭壇にふりかける行事が行われたのです。これも、荒野の旅で喉の渇きに苦しむ人々のため、モーセが打った岩から水が出てきたので皆が癒されたという神様の恵みを記念する行事でした。
その出来事を背景として、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」とイエス様は約束されたのです。
「あなた方の先祖が飲んだ水は体を潤す水。飲めばまた渇く水。しかし、わたしを信じる者に私が与える水はその人の魂を永遠に潤し生かすいのちの水」。この水はイエス様を信じるものが後になって受ける御霊のこととする説明も含め、この箇所は後でもう一度考えたいところです。
さて、これを聞いた群集たちの反応はまちまちでした。

7:4044「このことばを聞いて、群衆のうちのある者は、「あの方は、確かにあの預言者なのだ。」と言い、またある者は、「この方はキリストだ。」と言った。またある者は言った。「まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。キリストはダビデの子孫から、またダビデがいたベツレヘムの村から出る、と聖書が言っているではないか。」そこで、群衆の間にイエスのことで分裂が起こった。その中にはイエスを捕えたいと思った者もいたが、イエスに手をかけた者はなかった。」

イエス様を預言者とする者、キリストと信じる者、「まさかガリラヤからキリストはでまい」と否定する者。中には、イエス様を捕えたいと思う者もいたと言う。分裂でした。敵は群集の中にもあり。いよいよイエス様の身は危うしという状況です。
そして、最後に登場するのは、イエス様の存在を妬み憎む宗教指導者たちでした。
7:4553「それから役人たちは祭司長、パリサイ人たちのもとに帰って来た。彼らは役人たちに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」役人たちは答えた。「あの人が話すように話した人は、いまだかつてありません。」
すると、パリサイ人が答えた。「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている。」
彼らのうちのひとりで、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえでなければ、判決を下さないのではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤの出身なのか。調べてみなさい。ガリラヤから預言者は起こらない。」そして人々はそれぞれ家に帰った。」

イエス様を捕まえるために遣わしたはずの役人が、イエス様を尊敬して帰ってくるとは思いもよらなかったのでしょう。パリサイ人、祭司長らは「おまえたちも惑わされているのか。議員とかパリサイ人のうちで、だれかイエスを信じた者があったか。だが、律法を知らないこの群衆は、のろわれている」と怒りに声を震わせました。
自分と考えの違う者を「惑わされている」とか「のろわれている」とか、徹底的に見下し批判する。これは高慢なエリートの特徴です。
しかし、そんな嫌らしいエリートの中に、「まずその人から直接聞き、その人が何をしているのか知ったうえで判決を下すのが筋ではないですか」と、脇の手からイエス様に助け舟を出した人がいました。以前イエス様を尋ねて以来、口にこそ出さねど心でイエスをキリストと信じていたニコデモです。
同僚たちが怒り狂う中、この時ニコデモが勇気を奮い語ったであろう意見は却下されました。しかし、十字架に死なれたイエス様の遺体を「自分の墓に納めさせてください」と願い出たニコデモの姿をやがて私たちは見ることになります。いわば隠れクリスチャンだったニコデモが献身的行動によってイエス様への愛と信仰を示すのです。
群集が様々な考えに分裂し、宗教指導者が怒って興奮する中、少なくともこのニコデモは「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来なさい」というあのイエス様のみ声を心に深く受けとめていたのではと思われます。
こうして読み終えたヨハネの福音書の七章。私たち振り返り、考えてみたいのは聖霊について約束されたイエス様のことばです。もう一度、お読みします。

7:3739「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。」
生涯にわたって、イエス様の活力の源となったのはその心に宿る聖霊と聖書は教えています。そうだとすれば、イエス様はご自分にとって宝物のような聖霊を私たちに与えるため、十字架に死に復活し天に昇られたことになります。イエス様が父なる神様の元に帰り天で栄光を受けたのは私たちを離れるためでなく、私たちに聖霊という身近な助け主を与えてくださるためだったのです。
この大切な助け主を本当に私たちの心に届けるために、それを言ったら身の危険が迫ることをよくよく承知の上で、イエス様は人々の前に立ち大声を出し、まさに命がけでこの真理を教えてくださいました。イエス・キリストを信じる者の心に宿る聖霊はどのようなお働きをされるのか。今日の聖句をともに読んでみましょう。

ローマ815,16「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子であることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」

「アバ」とはユダヤの小さな子どもが自分の父親に甘える時のことば、幼児語です。聖霊はキリストを信じる者が神の子であることを教えてくださるお方。私たちがこの世界を創造した全能の神様を「天のお父さん」と呼んで、心から信頼し甘えてよいと教えてくださるお方。このような聖霊を心に頂いていることを皆様は自覚しているでしょうか。喜んでいるでしょうか。
ところで、聖書は私たちが受けたのは「人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊ではなく、子としてくださる御霊」と説明しています。奴隷と子では何が違うのでしょうか。
奴隷はどんなに良い奴隷であっても、その働きによってのみ主人に評価される存在です。ですから「自分の働きが悪ければ、少しでも失敗や落ち度があれば、主人に首にされるかもしれない」と恐れながら主人に仕えることになります。あるいは、主人の手前良い奴隷でいようと考えて働きますから心に喜び無く、その行動は表面的偽善的なものとなります。
神様に背いた人間は、生まれながら奴隷の霊奴隷の心を持っていますから、神様との関係も人との関係も、主人と奴隷のような関係になりがちです。しかし、神の子は違います。神様と私たちはお父さんと子ども、愛の関係で結ばれていますから、私たちはその働きの良し悪しや成果のあるなしに関わらず、大切でかけがえの無い存在であることが保証されているのです。
このような父子の関係にあるからこそ、私たちは自分の能力の足りなさや失敗を恐れることなく、心から安心して、自由を感じながら、喜んで神様に仕え、その御心に従う道を選ぶことができるのです。このような生き方へと導いてくださる聖霊を心に頂いていることを自覚し、日々神様に愛されている子として歩む者でありたいと思います。


2013年7月28日日曜日

喜ぶべきこと ルカ10章17節~20節

 四日市キリスト教会では第一礼拝、第二礼拝と毎週二回の礼拝が行われています。第一礼拝の時間、お隣の「めぐみの園幼稚園」では、「めぐみチャペル」というプログラムが行われています。前半は親子でともに、賛美や聖書の話の時間。後半、子どもは工作などの時間。保護者は成人科と言いまして保護者向けの聖書の話の時間となります。
 この成人科では、私も月に一、二回聖書の話をするのですが、ここ数回、「Q&A」を行っています。「Question & Answer」「質問と答え」。保護者の方に質問を出して頂き、その質問にキリスト教の視点で答えるというものです。これまで、保護者の方に色々な質問を出して頂いたのですが、答えやすい質問もあれば、どのように答えたら良いのか悩む質問もありました。
 どのように答えたら良いか悩んだ質問の一つは、「クリスチャンになると何が変わりますか?」というものです。「クリスチャンになると何が変わるのか。」一見、答えやすい質問に感じるところ。しかし、いざ答えようとすると、意外と難しい。
 「罪が赦されます。」とか、「永遠のいのちをもらえます。」と言えれば簡単です。しかし、キリスト教をそれほど知らない方に答えるとしたら、これだけでは意味が伝われない。罪とは何か、永遠のいのちとは何かという説明が必要になります。「幸せになれます。」というのはどうでしょうか。しかし、キリスト教信仰を持つ人の幸せと、持たない人の幸せは、意味が異り、「クリスチャンになると幸せになる」とだけしか言わないと、勘違いを生みそうです。もし皆さまが「クリスチャンになると何が変わりますか?」と聞かれたら、どのように答えるでしょうか。

 キリスト教をそれほど知らない方に「クリスチャンになると何が変わるのか。」と聞かれた場合、どのように答えるのが良いのか。これだけが正解というものはなく、色々な答えがあって良いと思いますが、めぐみチャペル成人科で、私が一番お伝えしたいと思ったのは「世界観が変わります。」という答えでした。
「世界観が変わる。」これはどのような意味でしょうか。「世界観が変わる」とはどのようなことかお伝えするために、私がよく使うたとえは次のようなものです。「私と妻と子どもの三人が、一つの家に住むとします。私と妻は、子どもに対して、世界というのはこの家の中だけ。世界には人間は三人しかいないと教え込んだとします。やがて子どもが二十歳になる頃、私と妻が死にます。すると、その子はそれまで食事を作ってくれた人がいなくなる。お腹が減ってたまらない。それで、恐る恐る家から出てみるのです。すると、世界は家の中だけではない。広大な空間が広がっているのです。人間は三人ではない。七十億人以上いるのです。」この時、その子に起こっていること。世界はこの家だけ、人間は三人と思っていたのが、世界は果たしなく広く、人間も多大にいると知った。これが、世界観が変わるということです。

 クリスチャンになると世界観が変わります。どのように変わるのでしょうか。それまで人生というのは私が主人公。いかに私が喜び、私が幸せになるかが大事でした。そのための無病息災、家内安全、商売繁盛でした。
 ところが、世界を創られた方、支配されている神様を知る。自分はその神様に創られた存在だと気が付くと、大事なのは神様との関係、神様が私に何を願い、期待されているのか。本当の喜び、本当の幸せというのも、この神様抜きには考えられるものではないと思い至るのです。
 「クリスチャンになると何が変わるのか。」という問いに「世界観が変わります。」という答え。この答えに、皆さまは納得されるでしょうか。

 ところで、クリスチャンになり世界観が変わると、自分が何を喜ぶのかということにも変化が起こります。
 特に神様との関係、教会に関わる事柄で、その変化は顕著です。神などいない。自分がどう生きるのかが全てと考えていた時、礼拝や祈りは無価値、無意味なものと考えていた。ところがクリスチャンになり、世界観が変わった結果、礼拝すること、祈ること、賛美すること、ささげること、奉仕すること、伝道することの意味、意義を理解し、それが喜びとなるのです。

 長い前口上になりましたが、以上のことを踏まえて、皆さまに質問したいと思います。自分にとって喜びとは何でしょうか。特に神様との関係、教会に関わる事柄で、最近感じた喜びはどのようなものでしょうか。あの礼拝で感じた神のご臨在。祈りが聞かれた喜び。賛美をささげた感動。想像以上にささげることが出来た感謝。僅かな奉仕が大きく用いられた驚き。イエス様のことを伝えたいと思っていた友人が教会に来てくれた。あるいは、しばらくクリスチャンとしての喜びを感じていないという方もいるでしょうか。

 今日の聖書箇所は、約二千年前、イエス様の弟子たちは喜びに満たされていた場面。それも、キリストを信じる者ならではの、喜びに満たされている場面です。
 ルカ10章17節a
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。」

 おそらくはAD29年、秋か初冬のこと。イエス様によって、町々に伝道旅行へと派遣された弟子たちが帰って来て、報告をしたという場面。
 キリストの弟子のうち、有名なのは十二人。十二弟子、使徒と呼ばれ、それぞれの名前が聖書に記されています。その十二弟子も、イエス様に派遣されて町々を伝道旅行したことが聖書に記録されています(ルカ9章)。その有名な十二弟子とは別に、七十人の弟子が選ばれ、伝道旅行へと派遣された様子が、十章の冒頭に記されていました。
 無名の弟子たち。財布も旅行も持たないで旅をするように(ルカ10章4節)。徹底的に神様に頼るようにと、丸腰での伝道旅行。その上、イエス様はこの七十人を送り出すことを「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に小羊を送り出すようなものです。」(ルカ10章3節)と言われていました。その七十名が、ついに帰ってきて報告の時となった。
 出発の時に弟子たちが感じていたであろう、心配や恐れはどこへやらで、行く先々での思ってもみなかった恵み、守りを大いに喜んでいたのです。

 ルカ10章17節
「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。『主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。』」

 良かった、良かった。イエス様聞いて下さい。あそこでは、こんなことが。ここでは、あんなことが。と、伝道の報告をする弟子たちの喜びの様。この時、伝道旅行をしたのは、無名の七十人の弟子。ですので、余計に喜びも大きかったのです。私たちのような者でも、あなたの御名によって、悪霊どもを服従させることが出来ました。興奮し、感動し、喜ぶ弟子たちの姿が目に浮かぶような場面。
 これぞ、キリストを信じる者、クリスチャンならではの喜びです。神様を宣べ伝える働きをして、想像以上の成果を挙げた。神様のために労する働きをすることが出来た。このような喜びを私たちも是非味わいたいと思います。

 このような弟子たち。自分のような者でも、神様にお役に立てた。その喜びに、興奮し感動し、目を輝かせている弟子たちの報告をイエス様は、どのような思いで聞かれたのでしょうか。
 ルカ10章18節~19節
「イエスは言われた。『わたしが見ていると、サタンが、いなずまのように天から落ちました。確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』」

 イエス様にとっても、この弟子たちの喜びは、嬉しかった。その弟子たちが、弟子たちならではの喜びを感じていることが、イエス様も嬉しかった。
七十人の働きは、サタンを失墜させるものであったと評価します。「蛇やさそりを踏みつけ」とは、蛇がサタンの象徴としての言葉でしょうか。(創世記3章)それとも、旅の間、蛇やさそりの害から守られたという意味でしょうか。どちらにしろ、その働きが成功するように、弟子たち自身が守られるように、神様の守りがあったのです。「あなたがたに害を加えるものは何一つない」と言われるほどの守りと導きだったのです。

 神様のために働けたことを喜ぶ弟子たち。クリスチャンならではの喜びを感じている弟子たちの姿を喜ぶイエス様。何とも麗しい場面。
 ところが、この場面はこれで終わりではありませんでした。「え?」と驚く言葉が続くのです。

 ルカ10章20節a
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」

 「あれ?」と思います。神様のために労することが出来た。それが嬉しい弟子たち。その弟子たちの姿を、確かにイエス様も喜んでいたように読めるのです。弟子たちの報告を聞きながら、「わたしの目には、サタンが失墜したのが見えました」との評価。「なたたがたに害を加えるものは何一つない」と弟子たちの働きを通して神様を賛美していました。それがここにきて、「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」との宣言。果たして、この言葉はどのような意味なのか。キリストを信じる者が、神様のために労することが出来たことを、喜んではいけないとの教えなのでしょうか。皆さまは、この言葉をどのように受けとめるでしょうか。

 イエス様の「悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。」との言葉。これは「神様のために労することを喜んではいけない。」という意味ではないでしょう。そうではなく、それよりも、もっと喜ぶべきことがあると教えられているのです。神様のために労することよりも、もっと喜ぶべきことは何か。奉仕し用いられることの喜びや、伝道し成果をあげることよりも、もっと喜ぶべきこととは何か。

 ルカ10章20節
「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではいけません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

 何にも増して喜ぶようにと教えられたのは、「ただあなたがたの名が天に書き記されていること」でした。「汝らの名の天に録されたるを喜べ」と。天に名前が記される。これは聖書の様々な箇所に出てくる表現で、罪赦された者として神様に認められていること。天国へ行くことが許されていることの表現です。(出エジプト記32章、ダニエル12章など。ピリピ4章には「いのちの書」という表現も。)
 つまり、最も喜ぶべきは、罪赦されていること。救われていること。神の子とされたこと。それこそを何にも増して喜ぶように、と教えられるのです。

 「うむむ」とうなりたくなります。喜びながら、伝道旅行の成果を報告している時。私のような者でも、役に立つことが出来たと感激している時。何も、この時に言わなくても、という気もします。
 しかし、イエス様からすれば、この時だからこそ、なのでしょう。
この七十人の喜び、感激は今は良いとしても、しばらくすれば落ち着き、それはやがて自慢話となる危険があった。証とは名ばかりの、武勇伝と化ける可能性があった。この時だからこその忠告、勧告でしょうか。
あるいは、神様のために労する喜び。それは非常に貴く、良いものではあるけれども、それに集中し過ぎて、神様が私に何をして下さったのか忘れることの危険を説いた言葉かもしれません。「私が何をする」ではなく、「神様が私に何をして下さったのか。」その視点の方が、より重要であること。「何をするか」ではなく、「何をして頂いたのか」。これこそ、キリスト教であり、恵みの宗教。それを教える良い機会として、この時が選ばれたのか。

 この言葉を弟子たちはどのように受けとめたのでしょうか。「いやいやイエス様、そうは言いましても、天に名が記されているのは、昨日も今日も変わりません。しかし、伝道旅行は今、この時だけのことです。この時ぐらいは、伝道旅行が成功した喜びを最上としても良いじゃないですか。」と言ったでしょうか。それとも、「その通りです。」と頭を垂れたでしょうか。
 聖書には、このイエス様の言葉を聞いた弟子たちの姿が記されていないので、分かりません。弟子たちのことはよいとして、それでは私たちはこのイエス様の言葉をどのように受けとめるでしょうか。
 キリストを信じる者。クリスチャンとして第一に喜ぶべきことは、自分の名前が天に記されていること。最も喜ぶべきことは、自分が救われていること。自分が何をするのかよりも、神様が何をして下さったのか。それに焦点を当てるようにと言われて、私たちはどのように応じるでしょうか。

 今日は私たち皆で、自分の信仰生活を振り返りたいと思います。「天に名が記されていることがたまらなく嬉しい。」「救われたことが何よりも嬉しい。」と感じたのは、いつでしょうか。どれ位前でしょうか。これまでの信仰生活で、「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」と言われたイエス様の言葉を、どれだけ真剣に聞いてきたでしょうか。
 私たちは一度、しっかりと神様の前で額ずいて、救われた喜びを確認する必要があります。仕事や奉仕を一度停めて、あらゆる重荷をおろして、しっかりと「汝らの名の天に録されたるを喜べ」との声に耳を傾けるべきです。奉仕マシーンとして生きるのではなく、神の子として生きるべきです。
 今日の一日の中で、どうぞ神様と向き合う時間をとって下さい。救われた喜びを確認する時間をとって下さい。「汝らの名の天に録されたるを喜べ」との声をしっかりと聞いて下さい。そして、もし自分の中に、救われた喜びがない。天に名が記されていることを喜べないと感じるならば、次の聖書の言葉を思い出して下さい。

 今日の聖句です。ヨハネの手紙第一4章13節
「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。」

 ここで言われている、「私たちが神のうちにおり、神もわたしたちのうちにおられる」ということは、天に名前が記されていることの別な表現です。つまり、救われた喜びは、聖霊なる神様によって頂くものなのです。そして、聖書は求める者には、聖霊は与えられると約束していました。(ルカ11章9節~13節)
 もし自分の中に救われた喜びがない。天に名が記されていることを喜べないとしたら、私たちは自分を鞭打ちながら、なんとかして喜べるようにするのではなく、聖霊なる神様を求めること。聖霊なる神様を通して、救われた喜びを頂くことです。

 私たち一同で、天に名が記されていることを喜ぶ。救われたことを喜ぶ。そのような、クリスチャンの歩みを送りたいと思います。

2013年7月21日日曜日

ウェルカム礼拝 ヨハネ1:14~18「ことばはひととなり」

今日はウェルカム礼拝です。自分らしく輝く、自分なりの生きがいを感じながら、喜んで生きるためには何が必要か。聖書から一緒に考えてみたいと思います。
もう十年以上前になるでしょうか。私はある方と会うため松坂に出かけました。用事が済んでの帰りがけ、相手の方が「ほんの気持ちですが、この地方の名物です。」と言われ、手土産を下さいました。
手渡された袋の重さ、松坂、名物と連想すると、私の頭の中にはある物が浮かんできたのです。「ああ、三重県に来て初めてあれが食べられるのか」と思うと、思わずいつもより深めに頭を下げてしまいました。
帰りの車の中、ある物が鍋の中でグツグツ煮えている様子を思い浮かべていた私は途中のコンビニに寄ったのです。家に電話をして、白滝や焼き豆腐を買っておくように言う積りでした。
ところが、大切な物を車の中に残しては置けないと考え、袋を手にした途端我慢できずに開いてみると、袋の中身は私が確信していたある物ではなく、赤福餅だったのです。
早合点で間違った思い込みをした自分が恥ずかしいやら、家に電話して白滝や焼き豆腐を注文する前で良かったと安心するやら。本来なら大好物の赤福が何となく味気なく感じたという、ちょっと恥ずかしい経験でした。
私たちは様々な点で間違った思い込みをします。それが食べ物についてなら笑い話で済むでしょう。しかし、もし自分がこの世界に存在する意味について間違った思い込みをしているとしたらとても悲惨なことと思われます。
人間は社会的な生き物と言われます。それは、各々にその社会の中で果たすべき役割があり、それを自覚しているということです。
社会的な生き物は人間に限りません。例えば蜂にも蜂の社会があります。しかし、蜂と人間には違いがあります。それは、人間は自分の存在意味について考えると言う点です。
蜂の社会では女王蜂は卵を産むのが専門で八年程生きます。それに対して働き蜂は巣作り、子育て、餌取りなど毎日働きに働いてわずか一ヶ月の命。それなのに、働き蜂は自分の短い生涯に何の意味があるのか等とは考えません。
しかし、人間は違うのです。山田太一さんと言うドラマ作家がいて、私はこの人の大ファンなのですが、定年退職をしたサラリーマンが主人公のテレビドラマがありました。
第一回は確かこんな場面で始まりました。主人公は息子と息子のお嫁さん、それに孫二人の五人家族。朝玄関で「お義父さん、行ってらっしゃい」とお嫁さんからカバンを手渡されると「ああ、行ってくる。」と主人公の初老の男性が玄関を出るのですが、様々な駅で降りてぶらぶら歩き回るばかりで会社には行かない。最終的には公園のベンチで居眠りを始めるのです。
何故か。実は行くべき会社がなかったのです。主人公は退職前会社から子会社で働いて欲しいと言われていたのですが、それが会社の都合でダメになった。でも、家族にはそのことを言えないまま時間が過ぎ、ちょっと見栄を張って会社に行く格好だけつけるはめになってしまったと言うわけです。
主人公の気持ち、よくわかるような気がします。今までは働いて給料をもらい家族を養うこと、社会で認められるような地位にあることを生きがいとしてきた主人公が働きの場も地位も家族を養うと言う役割も失った時、自分の存在意味は一体何かと考え、迷っているからです。
しかし、大人だけではありません。私たち人間は生まれた時から、自分の存在意味を確認しながら生きる者ではないかと思います。
小さな子どもが親に必ず尋ねることのひとつは、「お母さん、どうして私を生んだの?私がうまれてどう思った?」と言う質問だそうです。
自分の誕生が親に望まれたものであること、自分の誕生を親が喜んでいることを知って、子どもは安心できるのです。
しかし、そのように自分の存在を喜んでくれる人が回りにいなかった場合、つまり自分の存在意味を感じることができない人生がどんなに辛いものか。それを伝えてくれるのが、アンデルセンの童話「みにくいアヒルの子」です。
他のアヒルの子に比べて体が大きく、羽が灰色で、上手く泳げないというだけで、「みにくい」「のろま」と兄弟からも仲間からも除け者にされたアヒルの子、実は白鳥の子。
ある時お母さんアヒルにも「あんたなんていなくなればいいのに」と心無いことばをかけられ、すっかり自分を「みにくいアヒルの子」と思い込み、ついには「自分など生きていても仕方がない」と寂しく思うようになります。
しかし、最後に「みにくいアヒルの子」だとばかり思ってきた自分が、実は美しい姿で空を飛ぶことのできる白鳥の子だと知って幸せになるという、皆さんも良くご存知の物語です。
けれども、みにくいアヒルの子の悩みは昔の話でも、童話の世界のことでもありません。ある日の新聞にこのような青年の相談が載っていました。
「子どもの頃から思っていたことですが、最近改めて考えさせられることがあります。それは、この世の中は僕が消えても何も困らず、回って行くないのではないかということです。特に職場でそれを感じます。いくら僕が一生懸命やっても、それで職場が盛り上がっても、そしてその先で僕がやめたとしても、職場は変わることなく進み続けるんだろうなと。どんなに頑張っても、所詮僕は組織のどうでもいい一部でしかないのに、その一部として必死に頑張る自分て何なんでしょうね。」
色々なことを話してきましたが、私たちが自分らしく輝き生きるために必要なのは、自分の存在意味を知ること。そう確認できたと思います。
それでは、一般的に私たちが自分の存在意味、所謂生きがいを感じるものとは何でしょうか。財産、仕事、能力を発揮できる事、家族などをあげることができると思います。
聖書にも、財産に生きがいを見出した人の姿が、イエス・キリストのたとえ話の中に登場してきます。

ルカ12:1621「それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

すでに十分金持ちであるのに、有り余った穀物や財産を貯めこむために心を砕く男。蓄財に精を出し、満足していた男の姿。これは人事ではありません。財産と呼べる程のものを持たない私たちも、この男の境遇を羨ましいと感じるなら、同じ穴の狢、同じ仲間でしょう。
しかし、神様はこの人を愚か者と言われました。金は天下の回り物。移ろいやすい金銭、財産に生きがいを見出すなど何と愚かな生き方よと釘を指したのです。
同じ様に、仕事に自分の存在意味を求めてやまない仕事人間は、その仕事ができなくなった時どうするか。自分の存在意味を能力発揮に置く能力人間はその能力を失ったらどうするか。家族が生きがいだとするなら、家族を失った人は何を生きがいとしたらよいのか。そんなことを考えさせてくれるイエス・キリストのことばです。
一方、自分の存在には意味がないと考える人もいます。作家芥川龍之介は自分についてこう書いています。「四分の一は僕の遺伝、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、僕の責任は四分の一だけだ。」
遺伝に境遇に偶然。そういう人間にはどうしようもないものに支配されている自分の無力さ、そんな無力な自分が生きる意味などないと考えた芥川龍之介は自ら命を絶ちます。作家として大きな仕事をし、地位も築き、能力にも恵まれていた人が、何故自分の存在意味を見出すことができなかったのでしょうか。
聖書にも、能力にも、富にも恵まれ、王として偉大な仕事をなしたソロモン王が全く同じことを語っていました。

伝道者の書2911「私は、私より先にエルサレムに生まれた誰よりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」

念のために言っておきますが、ソロモンはこの世で労苦して働くこと、知恵や能力を発揮すること、仕事をすること、食事や文化を楽しむことが虚しいといっているのではありません。神様なしにそれらをすることがいかに虚しいかを、自分の経験から語っているのです。
この様に、変わりやすいものに生きがいを見出そうとすること、どんなに財産や能力に恵まれ仕事ができても、心の底から自分の存在意味を感じることができないこと。この悲惨な状態は、私たち人間が神に背き、神を無視して生きるようになった結果と聖書は教えているのです。
ですから、私たちが本当に自分の存在の意味を知りたいと思うなら、聖書を通して語りかける神様のことばを聞かなければなりません。そして、今日皆様に聞いていただきたいのは、聖書の中でも最も重要な神様のことば、私たちに対する神様の告白です。

イザヤ434a「わたしの眼にあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」

「わたし」とはこの世界を創造した神様です。この豊かで、美しく、広大な世界を創造した全能の神様が私たちを高価、何よりも大切な存在と思っておられる。太陽よりも星よりも、世界中の多種多様な生き物よりもあなたが大切だと言ってくださる。
神様を離れ、神様を無視して生きてきた私たちであるにも拘らず、心からかけがえのない存在と思っておられる。誰もあなたの代わりになる者はいない、それ程わたしはあなたを愛していると言ってくださる。
さらに神様は私たちに対する熱烈な愛を告白するだけでなく、実行してくださいました。神様が自ら人となり、私たちの背きの罪を全部背負って十字架に死んでくださった。私たちへの愛が口先でなく全身全霊、命がけの愛であることを示してくださったのです。
私には三人の子どもがいます。長男は一言うと一行うけれど後はマイペースというタイプ。長女は一言わなくても十頑張るのだけれど、そのストレス発散が結構激しいというタイプ。次男は十を言って一やるかどうか怪しい、少々無愛想だけれど人に優しいところがあるのんびりタイプ。それぞれ性格も能力も違いますが、私にとってはひとしくかけがえのない存在です。
今長男はイギリス、長女は東京、次男はベトナムに住んでいます。長男が英語が分からなくて大変だと聞くと、英語で苦労している姿が浮かんできて「頑張れ」と声をかけます。
長女が「難しい仕事が上手くいった」と聞くと、得意満面の顔が浮かんできて「あんまり無理するなよ」と言いたくなります。次男が交通事故にあったけれど大丈夫と聞くと、事故の場面が浮かんできて、「そんなこと言っていないで早く病院に行け」とノンビリ屋を急かしている自分に気がつきます。つまり、住んでいる場所は遠く離れていても、親の心にはひとりひとりの子どもがいるということです。
父親失格の私のような親の心にも子どもらが生きているとすれば、神様の心にはいつも私たちひとりひとりの存在が生きており、心砕いてくださっていることは間違いありません。その愛は人の親が子に向けるよりもはるかに深く、熱いものなのです。
この神様の愛を受け取り、喜ぶために私たちは造られ、生かされていると聖書は教えています。そしてこの神様の愛を受け取り、喜ぶとき、私たちは自分の存在が神様にとっていかに大切で、かけがえがないものかを知ることができるのです。
さて、最後に二つのことを皆様にお勧めしたいと思います。
ひとつは、神様に愛されている者として生きることです。この世界を創造した神様が世界の中では小さなチリのような私たちに向かって、「わたしはあなたを愛している」と呼びかけてくださるそのことばを、私たちは聞きました。
現在世界の人口は70億人。私たちはその中のひとりです。それでは神様の私たちへの愛も70億分の一なのでしょうか。そうではありません。神様は「わたしはあなたを愛している」と語っています。神様の全身全霊、命がけの愛が一人一人に注がれているのです。
この人格的な神様と親しく交わり、神様のことばを聞き、神様を喜ぶ者となる事、これが神様に愛されている者として生きることです。私たちは自分の努力で存在の意味を知ることができない存在です。神様に愛され、喜ばれている者であることを知って、自分の存在の意味、価値を知ることができるからです。
二つ目は神様に愛されている者として生きる時、私たちは自分らしく輝くことができるということです。
最初にも言いましたが人間は社会的な生き物です。社会には各々が役割を果たすとか、協力し合うなど大切な意味があります。しかし、問題もあります。それは私たちが自分の存在意味を人に認めてもらうために努力をしなければと思い、しばしばそれがストレスになるということです。
しかし、神様に愛されていることを知る者はそうしたストレスから解放されます。神様が十分すぎるほどに自分を愛し、認めてくださっていることを知っていますから、人に認められねばというストレスから自由になれるのです。
そして、神様の愛に応えて、自分に与えられた財産や能力、経験を用いたい、神様と人を愛するわざを行いたいと願うようになるのです。そのような思いで仕事や家族のための働き、隣人との交わりをなす時、私たちは自分らしく輝く生き方ができる。このことを確認し、今日のメッセージを閉じたいと思います。



2013年7月14日日曜日

礼拝説教 Ⅰヨハネ3:13~19「行いと真実をもって愛する~交わりの大切さ~」

 赤ちゃんが始めて口にすることば。それは「ママ、パパ」など親を示すことばが多いそうです。多くの日本人は死を前にして単に死ぬとは言いません。「ご先祖様のところに行く」と言います。生まれる時も死ぬ時も、人間にとって大切なのは人とのつながり、特に愛する人とのつながりであると考えられます。
 これは生きている間も変わらないようです。ある住宅会社が「恋人や配偶者のいる男女」に行ったアンケートによると、「あなたの人生において、最も大切なものは何ですかという質問に対し、男性の一位は「妻、恋人」、二位は「子ども」、三位が「健康」。それに対して女性の一位は「子ども」、二位に「夫、恋人」、三位は「健康」という結果でした。
 以前は仕事やお金が上位に入っていましたが、東日本大震災以後、回答の中身が随分変わってきたとも言われます。
 これらは、私たちにとって人と人とのつながり、愛し合う交わりを築くことがいかに大切なものであるかを物語っていると考えられます。
 そして、これは聖書が教えることと非常に合っていました。聖書は神様が人間を創造する時の様子をこの様に描いています。

 創世記12627「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地を這うすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」

 「われわれ」とは三位一体の神様、父、子、聖霊の神を表します。他のものを造る時には、「光よ、あれ」とか「鳥は天の大空を飛べ」とただ一言命じ創造してきた神様が、人間の場合には父と子と聖霊とが互いに交わり、相談して、神のかたちに造ることを決めたという場面です。
 そして、神様の交わりとはどのようなものだったのか。聖書は語ります。

 Ⅰヨハネ416「神は愛です。・・・」

 時々教会学校の子どもが口にする質問があります。「神様って世界を造る前は何をしてたの?何にもすることがなくて暇だったの?」この質問に対する答えは、「神様は愛し合っていた」です。
 愛は愛する対象を必要とします。各々独立した自由な人格の間に愛し合う関係は成立します。「神は愛です」ということばは、父、子、聖霊の神が永遠の昔から愛し合っており、その様な神様の愛のうちにこの世界も人間も造られたことを教えているのです。
 人間が、そして人間だけが神のかたちに創造されたことの意味はいくつかありますが、少なくともひとつの意味は、三位一体の神様がそうであったように、私たちも愛し合う交わりの中に生きるために造られた者ということを覚えておきたいと思います。
 事実、最初の人アダムのために神様はエデンの園を住まいとし、様々な実のなる樹、川の流れ、金属や宝石、様々な動物や生き物など多くの贈り物を与えました。しかし、何と言っても、アダムに対する最上の贈り物は妻のエバでした。
 確かに、木の実はお腹を満たしてくれる。しかし、いくら木の実を食べても心は満ち足りない。確かに生き物もみなすばらしい。しかし、生き物とは語り合うことばがない。人間のことばで、人間の心で語り合い、喜怒哀楽を対等に分かち合える相手、助け合える友が欲しい。そう思っていたアダムに与えられたのがエバだったのです。
 エバを与えられ、愛し合う交わりの中に生きるという人間としての最高の喜びを味わったアダムの声、「これこそ、今や私の骨からの骨、私の肉からの肉」は彼にとってエバがいかに大切でかけがえのない存在であったかを感じさせ、感動的です。
 この間、NHKテレビで「クジラ対シャチ、大海原の決闘」という番組を見ました。クジラの大群がプランクトンを食べるため南の海から遥々旅をし、北のアリューシャン列島の海でシャチと戦う、その様子を捕えた貴重な映像です。
 クジラもシャチも地球上で最大級の生き物ですから、その決闘は迫力満点でした。しかし見ていて胸打たれたのは、獰猛なシャチの集団攻撃から我が子を守るため命をかけて戦う母クジラの姿です。体を傷つけられても、食いちぎられても、窒息死しそうになっても子クジラを守る母クジラ。無償の愛と見えました。
 しかし、これほど献身的な愛を示した母クジラも旅を終え、子クジラが一人前になると最早親子の交わりはなく、群れの一頭と一頭、それぞれ離れ離れの生活になるのだそうです。
 それに対して、私たち人間の親子、家族は生涯交わりを続けます。親が親としての役割を終えても子が独立しても、さらに愛し合う関係を求め続けます。人間とはまさに交わるために造られた存在であることを覚えさせられました。
 しかし、です。神様に背を向け、神様を離れた生きるようになった人間は、この愛し合う交わりを築く能力を失ってしまったと聖書は教えています。正確に言えば、人間は相変わらず交わりを求めて生きるのだけれども、その交わり方その関係が愛とは違うものによって歪められてしまったのです。
 そして、その歪んだ形の交わりはこの世はもちろん教会のうちにも見られると、先ほど読んだ箇所でヨハネは指摘していました。
歪んだ形の交わり。その特徴のひとつは自己中心の交わりという点です。

 313,15「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。・・・兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」
 「兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。」余りにも生々しいことばに驚かされますが、実はこの箇所の背景には、兄が弟を殺すという人類最初の殺人事件がありました。

 312「カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。」

 兄のカインは農夫で畑の作物からささげ物を持ってきて神を礼拝した。弟のアベルは羊飼い、羊の中からささげ者を携えて神を礼拝した。しかし、弟のささげものは最良のものとして神はこれを受け入れたが、兄のささげものはどうもおざなりの、かたちばかりのささげ物だったらしく、神はこれを受け入れなかった。そこで兄は弟を妬み、憎み、ついにこれを殺してしまったという有名な事件です。
 カインは自分と違った価値観、生き方をする弟アベルを妬み、受け入れることができず、これを排除しました。自分に対して何の害を与えたわけでもないのに、ただその正しい生き方が気に入らない、嫌いだ、妬ましいというだけで排除する自己中心。
 この様な自己中心はカインの子孫にも見られ、彼らは力によって人を支配し、自分のために人を徹底的に利用したことが創世記に出てきます。
 しかし、この様なカイン的心は私たちのうちにも存在しないでしょうか。自分が気に入らない人、疎ましい人を遠ざけ、気の合う人とだけ交わろうとする心。自分の意見が通らなかったり、反対されたりすると途端に機嫌が悪くなる心。自分の基準、理想どおりに行動しない人を見下し、責める心。
 神様の聖なる眼から見る時、私たちはどれだけ心の中で殺人の罪を犯していることか。このことをイエス・キリストははっきりと教えていました。

 5:2124「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行ってまずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」

どんな理由であれ兄弟に腹を立てる者、兄弟を能無し、ばか者と見下し、交わりから遠ざけようとする者は、みな心の中の殺人者。神のさばきに値するというイエス様のことばは痛烈でした。さらに、自分のことを恨んでいる兄弟がいるなら、きっとその人をあなたは好きではないだろうけれども、たとえ神礼拝の最中であっても自分の方から仲直りしに行きなさいとの勧めにいたっては、私たち胸を叩くことしかできないでしょう。
兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」と語るヨハネの心には間違いなくこのイエス様の教えが響いていたはずです。
さて、人間が神に背いたために歪んでしまった交わり。その二つ目の特徴は愛の行いを伴わない交わりでした。

316,17「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから私たちは、兄弟のためにいのちを捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているのでしょう。
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」

私たちはイエス・キリストが私たちの罪のためにいのちをお捨てになったその愛を受け取った者、体験した者。それなのに、私たちは兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉ざし、金銭や物を惜しんではいないか。ことばや口先だけの愛にとどまってはいないか。
心の思いにおいて自己中心という問題をもつ私たちは、愛を実行する、実行し続けるという点においても弱点を抱えている。これを指摘されたらグーの音も出ない、誰もが降参するしかありません。
しかし、それならこんな私たちが愛し合う交わり築くために努めることには何の意味もないのでしょうか。決してそうではないとヨハネは言います。兄弟を愛すること、全ての兄弟姉妹と愛し合うよう努めることには大きな祝福ありと励ましてくれるのです。

314「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」

祝福の第一は、兄弟姉妹との交わりを通して、私たちは霊的な死の状態から、永遠のいのちつまり神様と交わりつつ歩む状態へと移されたことを確認、確信できるということです。
交わりのなかで、私たちは弱さや問題を抱えた兄弟姉妹がそれでも神様の助けを借りて愛を実行しようとする姿に励まされます。お互いの問題を告白し、祈り合うことで慰められます。兄弟姉妹の人生を導いておられる神様を知って喜び、感謝できます。
交わり効果というのでしょうか。信仰の仲間との交わりが深まれば深まるほど、私たちは自分が既にこの世の者ではなく、神様の者、神の子であることを確認、確信できるのです。
祝福の第二は、神様による平安です。

319「それによって、私たちは、自分が真理に属する者であることを知り、そして、神のみ前に心を安らかにされるのです。」

先程も言ったように、私たちは愛することに努めるほど自分が愛することにおいていかに無力な者であるかを覚えます。心の思いにおいて行ないにおいて、いかに神様の望まれる愛から遠いところにあるかを思い、心が痛くなります。
しかし、この様な時こそ私たちの心が神様に向い、結びつくのではないでしょうか。神様がイエス・キリストのゆえに、罪をもったままの私たちを丸ごと受け入れてくださっていること、「何度失敗しても良いから、わたしの愛を受け取り兄弟姉妹を愛せよ」と期待してくださることを覚えて、平安を得る事ができるのです。
教会は罪赦された罪人の集まりと言われます。しかし、今日の箇所を読み終えると、罪人が愛し合う喜び、愛し合う難しさを体験しながら、愛を学ぶ神様の学校ということもできるかと思います。
聖書には様々な神様の命令があります。その殆どは神様をそして人を愛することに関連しています。また、最終的に十字架に命を捨てることで愛を表されたイエス様も、様々なことばや行いで愛を示しておられます。つまり、愛するとはこういうことという簡単なマニュアルはないということです。
私たちは愛について全てを知ったので、愛を実行できる者なので、神様に救われ、教会に導かれたのではありません。むしろ、聖書、特にイエス・キリストの生涯を通して、また教会の交わりを通して、愛を学んでゆく者となるために神様に救われ、教会に導かれたことを覚えたいのです。
私たちもみなでこの様な意識に立って、愛し合う交わりを築くことに労を厭わない教会になりたく思います。



 

2013年6月30日日曜日

ヨハネの福音書(22)ヨハネ7:1~24「自分の栄光を求める者と神の栄光を求める者」

ことわざに「兄弟は他人の始まり」と言います。子供の頃は仲の良かった兄弟も大人となり結婚や利害関係で次第に情が薄くなると、他人の様になってしまう事を言います。
 イエス・キリストも「兄弟は他人の始まり」を経験されました。今までナザレの村で兄弟仲良く暮らしてきたものの、イエス様が本来の使命である神から遣わされた救い主としての活動を始めると、弟達のお兄さんイエスに対する無理解が目立ち始めたのです。
 時は秋。仮庵の祭りが近づいてきたある日のこと。自分たちも都エルサレムに上ろうと考えた弟たちはお兄さんのイエス様を誘いました。

 7:15「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。それは、ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡りたいとは思われなかったからである。
さて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。そこで、イエスの兄弟たちはイエスに向かって言った。「あなたの弟子たちもあなたがしているわざを見ることができるように、ここを去ってユダヤに行きなさい。自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。」

イエス様の兄弟、これはイエス様の弟だけでなく親戚も含まれていたと思われますが、彼らはユダヤ人の宗教指導者がイエス様の命を狙っていた事を知らなかったのでしょう。いかにも暢気に「エルサレムの都にいるあなたの弟子たちも、このガリラヤであなたがしているわざ、奇跡を見ることができるようここを去ってユダヤの都に行ったらどうですか。」と声をかけたのです。
しかも、です。「自分から公の場に出たいと思いながら、隠れた所で事を行なう者はありません。あなたがこれらの事を行なうのなら、自分を世に現わしなさい。」とは要らぬお節介、余計なお世話でした。
故郷ガリラヤを隠れた所、物の分からない田舎者の集まる所と見下し、「どうせ奇跡を行うならユダヤの都エルサレム、しかももうすぐ都は仮庵の祭りで賑わうという絶好のタイミング。さあ一緒に行こう。」との勧めです。
しかし、イエス様はご自分を世に現わす時、つまり公に都エルサレムに入場する時を既に決めておられたのです。それを「自分を世に現わしなさい。」等と、如何にも親切そうな物言い。
しかし、裏側には「今や奇跡を行う教師、預言者として有名人になった者の家族親戚として、自分たちもその人気名声にあやかりたい。」そんな魂胆が透けて見えます。
自分が世に生まれたのは名を売るためにあらず、人に仕えるため。罪のいけにえとして十字架に死に人々の罪を贖うため。そう確信するイエス様の心を兄弟たちは知らなかった、いや知ろうとさえしなかった。これを指して「兄弟たちもイエスを信じていなかった」と言われたのでしょう。
しかし、イエス様は兄弟たちの無理解をあからさまに責めませんでした。むしろ、やんわりと断りました。

7:69「そこでイエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも来ているのです。世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りには行きません。わたしの時がまだ満ちていないからです。」こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」

「わたしの時」とは福音書には何度か登場する表現です。イエス・キリストが都エルサレムで十字架に死に、復活するその時を指します。父なる神様に従いこの時を非常に重視していたイエス様は、たとえ身内の者に誘われても決意を変えることはありませんでした。だから重ねて「わたしの時がまだ満ちていない。」と言われたのでしょう。
それにしても、「世はあなたがたを憎むことはできません。しかしわたしを憎んでいます。」とは意味深長なことばでした。「わたしの教えは世の人にその行いが悪いことを示すため、世の人はわたしを憎む。しかし、あなたがたが憎まれることはない。」
同じ家族、同じ親族であっても、神様を信じる者とそうでない者とでは、この世の人の見方が違う。これは今日私たちも心に覚えるべき真理と思われます。
しかし、「わたしはこの祭りにはゆかない。」と兄弟たちに言われたイエス様が彼らとは別に、言わば内密に仮庵の祭りに上られたのです。
当時、人々は家族親族知人友人、ひとつのグループになって祭りに出かけるのが慣わしでした。イエス様は人目を惹くグループ行動を避け、単独で都に向かったようです。

7:1013「しかし、兄弟たちが祭りに上ったとき、イエスご自身も、公にではなく、いわば内密に上って行かれた。ユダヤ人たちは、祭りのとき、「あの方はどこにおられるのか。」と言って、イエスを捜していた。
そして群衆の間には、イエスについて、いろいろとひそひそ話がされていた。「良い人だ。」と言う者もあり、「違う。群衆を惑わしているのだ。」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はひとりもいなかった。」

イエス様が何故人目を惹く行動を避けたのか。その理由が良く分かる都エルサレムの状況です。ガリラヤにいた弟子から連絡があったのか、都の弟子たちはイエス様を捜しました。イエス様も彼らと安全に会える場所を捜していたのかもしれません。
他方、群集たちはイエス様の噂でもちきり。「良い人だ」と評価する者もあれば、「群衆を惑わす者ではないか」と不安を感じる人もいる。いずれにしても群集たちはユダヤ教指導者の威光を恐れ、公の場でイエス様について滅多なことは口にできないという有様だったのです。
人々が大勢集まる祭りの場で、イエス・キリストに奇跡など行われたら身も蓋もない。自分たちの権威立場を守るのに必死の指導者は、祭りの間特別警戒網を敷いていたのかもしれません。
そんな状況の中イエス様が満を持したように、神殿に上りました。しかし、そこで行ったのは人気を博すこと間違いない奇跡ではなく、みことばを教えることだったのです。

7:14,15「しかし、祭りもすでに中ごろになったとき、イエスは宮に上って教え始められた。ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は正規に学んだことがないのに、どうして学問があるのか。」」

その頃ユダヤ教にはいくつかの学派があり、それぞれに学校を持っていました。人々は、その様な正規の学校で学んだことがないイエス様の教えのすばらしさに感動し、驚いたというのです。
しかし、謙遜なイエス様はまたも人々の眼が自分に向けられたのを感じると、身を低くして「わたしの教えは父なる神様からのもの」と語られたのです。

7:1618「そこでイエスは彼らに答えて言われた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。自分から語る者は、自分の栄光を求めます。しかし自分を遣わした方の栄光を求める者は真実であり、その人には不正がありません。」

「だれでも神のみこころを行なおうと願うなら、その人には、この教えが神から出たものか、わたしが自分から語っているのかがわかります。」このイエス様のことばは私たちの心を抉ります。
よく人は言います。「キリスト教について完全に理解できないので、イエス・キリストを信じられない。」しかし、イエス様は言います。「神の御心を行なおうと願う人なら、わたしが神から遣わされた救い主であると分かるはずだ。」と。
イエス・キリストを信じるために必要なのはキリストについての知識か、それとも実際に聖書の教えに従うことか。知識と実際に従うこと。どちらも必要でしょう。
しかし、イエス・キリストについて知ることと、イエス・キリストに従い、知ることの間には大きな隔たりがあるように思います。それは、私たちが結婚以前に相手について知ることと、実際に共に生活をしてみて相手を知ることに違いがあるのと同じです。単なる知識と体験的な知識の違いといったらよいでしょうか。
キリスト教には人間の小さな頭では理解できない教えがあります。信じて受けとめるしかないと言う教えがあります。しかし、本気でイエス・キリストの教えを信じ、これに従う生活を送ることで知るイエス・キリストの素晴しさは、理解できないことへの不安など吹き飛ばして余りあるほどなのです。
さて、自分のためにこの世の栄光を求めてやまないユダヤ人の行動には矛盾があることを、次にイエス様は指摘しました。これも自分の身を守るためというより、人々を父なる神様に導くためのことばと思われます。

7:19,20「モーセがあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも、律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれています。だれがあなたを殺そうとしているのですか。」」

モーセがユダヤ人に与えた律法とは有名な十戒のこと。その十戒には「殺してはならない。」とはっきり神様の御心が記されていました。それなのに、「あなた方の指導者たちは自分たちの権威と立場を守るため、裁判もなしにわたしを殺そうとしている。これは殺人ではないか」とイエス様はずばり群集に指摘したのです。
しかし、指導者を恐れる都の人々は、「それは被害妄想だ。あなたは悪霊につかれている(気が狂っている)。」と答えて、逃れようとします。そこに、イエス様の第二の矢が放たれました。これも、自分の栄光を求めるユダヤ教指導者の矛盾をつくことばとなっています。

7:2124「イエスは彼らに答えて言われた。「わたしは一つのわざをしました。それであなたがたはみな驚いています。モーセはこのためにあなたがたに割礼を与えました。――ただし、それはモーセから始まったのではなく、先祖たちからです。――それで、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。もし、人がモーセの律法が破られないようにと、安息日にも割礼を受けるのなら、わたしが安息日に人の全身をすこやかにしたからといって、何でわたしに腹を立てるのですか。うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」」

「わたしが行った一つのわざ」とは以前都エルサレムで、安息日にイエス様が38年もの間病に苦しんでいた男を癒し、立たせ、歩かせたことを指します。何故人々がそれに驚いたのかと言えば、ユダヤ教では病人を癒すことが安息日にしてはならない仕事として固く禁じられていたからです。
事実、群集は驚いただけですが、ユダヤ教指導者は腹を立て、彼らがイエス様を殺そうと考えるきっかけとなった大事件でした。
しかし、ユダヤ人が尊敬してやまないモーセの時代に定められた割礼に関しては、たとえ安息日であっても人々はこれを行っていたのです。「そうだとすれば、割礼よりもはるかに大切であり、安息日にふさわしい癒しのわざを行ったからといって、何故あなたがたの指導者はわたしに腹を立てるのか。」
人々にとってはぐうの音も出ない、いや出せないことばです。そして、最後に「うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」と念を押され、最早人々には返すことばはありませんでした。
こうして、読み終えた今日の箇所。私たち我が身を振り返り、考えてみたいことが二つあります。
ひとつは神様の栄光を求めることと自分の栄光を求めること、私たちにとってどちらが大切でしょうか。どちらを大切なものと考えているのかではなく、実際にどちらを求めて、私たちは普段考え、語り、行動しているのでしょうか。
兄弟姉妹と交わっている時、奉仕をしている時、この世で学び、仕事をしている時、私たちの心にはこの身をもって神様の素晴らしさを現わしたいという願いがどれほどあるでしょうか。
とかく私たちの関心は世間の評判を受けることに向き勝ちです。しかし、人々相手の評判病に取り付かれたら、私たちは果てしないストレスに苦しむことになると、聖書は教えています。何をするにも神様の栄光を求める生き方こそが真に私たちを自由にし、生きる喜びを覚えさせるもの。イエス様の生き様から、このことを教えられたいと思います。
ふたつ目は、うわべによって人をさばかず、正しいさばきをする者になることです。勿論イエス様はここで私たちが人の意見や能力、行動について評価することを禁じているのではありません。「うわべによって人をさばかない」とは、ユダヤ教指導者がイエス様に示したような、自分を正しいとし、怒りに駆られて人を非難する態度です。人のあら捜しをし、言葉尻をとらえ、人を責め、傷つける様な態度をとることです。
イエス様は私達がこうした態度を無意識の内に取る者である事を教え、戒めています。

マタイ75「偽善者たち。まず自分の目から梁を取り除けなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」

私たちの中にある人を非難し、あら捜しをする態度、それこそ人の目にあるちり、つまり欠点に比べたら大きな梁、重大な罪であると自覚すること。これが自分の目から梁を取り除くことです。そして、自分の罪を思いつつ、謙遜になり、心からの同情心をもって人に接すること。これが正しいさばきつまり神様が喜ばれる態度でした。
私たちも神様に助けて頂きながら、こうした態度を身につけることができたらと願わされます。














2013年6月23日日曜日

一書説教 Ⅰサムエル記 ―神の思いと私の思いー Ⅰサムエル記2章6節~10節

 聖書を読む時、私たちはどのような心構えで読んでいるでしょうか。キリスト教信仰を持っている者は、この世界を創られた神様の言葉として聖書を読みます。聖書は「神のことば」である唯一の本。そのため、この世界を造り支配されている方が、私に何を語られるのかを知るために聖書を読むというのは、大切な心構え。そのような心構え抜きに聖書を読むことは、相応しくないでしょう。
 それでは、聖書を一つの本として楽しむことは良くないのでしょうか。そこに記された人間模様や出来事に、読者である私たちが、喜んだり、悲しんだり。興奮したり、ほのぼのとしたり。一つの本として、聖書を楽しむことは、良くないのでしょうか。
 仮に、ただの本として聖書を楽しむだけというのならば、それは相応しくないでしょう。しかし、聖書を「神のことば」と心得、その上で聖書を楽しむことは良いこと。奨励されることです。手に汗握り、感動し、時にはがっかりしながら聖書を読むことを楽しみ、同時に神様がどのようなお方か。人間はどのような存在で、私はどのように生きるべきなのか考える。そのような豊な聖書の読み手になりたいと願います。

 教会あげて皆でより聖書を読む者になりたいと考えて、断続的に取り組んでいます一書説教。六十六巻からなる聖書、一つの書を丸ごと扱い説教する。これまでに八回行い、今日が九回目となります。毎回お勧めしていることですが、一書説教の時は、説教を聞いた後で、扱われた書をお読み下さい。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと願っています。

 今日は旧約聖書第九の巻、第一サムエル記となります。聖書の中でも一際面白い書。様々な登場人物が、強烈な個性をもって活躍する。清々しい信仰者の姿を示すこともあれば、欲望の塊のような姿を晒すこともある。家庭的な事柄から、軍事的、政治的、国家的な事柄まで。激しい嫉妬や怒りの姿もあれば、麗しい友情の姿もある。人情味溢れる、浪花節のサムエル記です。ここに記された人物の思いを考え、心情を想像し、息遣いを感じながら、読み進むことが出来るようにと願います。

 サムエル記の時代背景は、ヨシュア記、士師記に続くもの。神の民イスラエルが、神様が与えると約束していた地、カナンに入ります。勝利、征服の記録がヨシュア記。しかし、ヨシュアの死後、イスラエルは退廃し、敗北と屈辱の時代となります。傑出した人物、士師が現れた時は、なんとか国として立てなおすが、士師が死ぬと弱体化する。その繰り返しが記録されたのが士師記です。士師記の最後は、次のように閉じられていました。

士師記21章25節
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」

 傑出した人物、士師がリーダーとなる時は、国としてまとまるも、士師がいなくなるとばらばらとなる。王という制度がなく、継承されるものがない。そのような士師の時代から、王制度が導入される時代へ。神の民イスラエルが、王国として新しい時代を迎えるのが、サムエル記となります。
 第一サムエル記を概観しますと、登場人物によって大きく三つに分けられます。前半は、書名となった人物、サムエル。主に一章から八章です。中盤は初代イスラエルの王、サウル。主に九章から十五章。後半がダビデ。十六章から三十一章までです。前半サムエル、中盤サウル、後半ダビデ。しかし、サムエルは前半にしか登場しないかというとそうではありません。サムエル自身は、中盤にも後半にも登場するのですが、中心人物はサウル、ダビデになっているという意味です。読み進むにつれ、著者の焦点が、サムエル、サウル、ダビデと少しずつ移動していく印象です。

 まずは前半から確認します。士師の時代から王の時代へ。新しい時代を切り開く立役者となるサムエルの記事、一章から八章です。
 当時のイスラエルは問題山積の状態でした。近隣のペリシテ人の脅威が続き、指導者であるはずの祭司エリの家族は非常に不信仰(2章)。イスラエルの民も迷信的でした(4章)。困難の最中にある時、神様は優れた指導者を立てて下さるのですが、それは一人の女性の祈りがきっかけとなっています。

 Ⅰサムエル記1章11節
「万軍の主よ。もし、あなたが、はしための悩みを顧みて、私を心に留め、このはしためを忘れず、このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします。そして、その子の頭に、かみそりを当てません。」

一夫多妻の不幸の中、子どもが与えられたいと願うハンナの祈りです。この女性は、問題山積のイスラエルを何とかしたいと考えていたわけではありません。子どもが与えられたいという個人的な願いを必死に祈ったのです。ただし、神様中心の信仰をもっての祈り。お祈りとは何かを考える上で、ハンナの姿は重要なものです。
この祈りの結果、サムエルが誕生し、宮で仕える者となり、優れた指導者としてイスラエルを導きます。一人の女性の祈りが、神の民が新しい時代へ突入する引き金となった。嬉しい出来事の一つです。信仰者がその生活の中で真剣に神様に向き合うことを、神様は大いに用いて下さる。本人は知らなくとも、歴史の重要な働きに参与していることがあるのです。この事実に励まされて、私たちもそれぞれの生活の中で、真剣に信仰者として生きることをしていきたいと思います。天国に行った時、実はあの時の祈りが、あの時の言葉が、あの時の奉仕が、重要な意味があったと知ることが出来るというのは、私たちの大きな特権の一つでした。

 サムエル自身の活躍は様々な側面が記されています。幼少時代、祭司エリを相手に預言をする姿。預言者として広く認められたこと。イスラエルの民を悔い改めに導く姿。ペリシテ人との戦いでは、士師としての凄まじい活躍が記されています。
 Ⅰサムエル7章10節
「サムエルが全焼のいけにえをささげていたとき、ペリシテ人がイスラエルと戦おうとして近づいて来たが、主のその日、ペリシテ人の上に、大きな雷鳴をととどかせ、彼らをかき乱したので、彼らはイスラエル人に打ち負かされた。」

 士師記のリーダー達は、腕力で敵と戦う姿が記されていました。優れた腕力、同時にどこか粗野というか、問題を抱えている士師たち。それに対して、サムエルは祈りの人。戦争時においても、祈りにおいて勝利したと記録される士師でした。是非、聖書を読んで、その活躍を確認して頂きたいと思います。

非常に優れた信仰者の姿が記されるサムエルですが、一つ課題があり、それは信仰継承がうまくいかなかったこと。サムエルが年老いた後、その子どもたちは、民の指導者の地位に就きながら、利得を追い求め、わいろを受け取るような者たちとなります。これがきっかけとなり、イスラエルの民が王を求めるという状況になります。
Ⅰサムエル8章5節
「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立てて下さい。」

 この件を読みますと、この時イスラエルの民が王を求めたことは、良くないこと。悪いことと記されています。何故、王を求めることが悪いことなのでしょうか。かつてモーセも、王を求める場合は、このようにしなさいと申命記で規定していました(申命記17章)。王を求めること自体が悪ならば、モーセは王を求めてはならないと語ったはず。しかし、そうではなかったのです。それでは、何故、王を求めることが悪として記録されているのでしょうか。それはここで、イスラエルの民が王を求めた動機が課題となっています。この時、イスラエルの民は「他のすべての国民のように」と言いました。「他のすべての国民のようになりたい」と。
 神様に特別に導かれ守られてきたことを無視するかのような動機。事実、神様ご自身が、民が王を求めたことを「彼らを治めているこのわたしを退けた」(8章7節)と言われます。それにもかかわらず、この民の願いによって王が立てられます。誤った動機、罪にまみれた動機に基づく願いをも、神様は用いられることがあるのです。

 このようにして最初の王が選ばれることになります。初代イスラエル王はサウル。ここからが中盤です。預言者サムエルが王を選ぶことになり、ここでもサムエルの重要な働きを見ることが出来ます。
 初代王に選ばれたのは、ベニヤミン部族のサウル。これは、当時の人たちからしても、士師記を読んできた私たちからしても驚きです。ベニヤミン部族と言えば、これより少し前、最悪の事件を起こし、著しく数を減らした部族。サウル自身、「私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン部族ではありませんか。」(9章21節)と言う状況でした。
 とはいえ、サウル自身は最も美しく、最も背が高かったと記録されています(9章2節)。その外見は王に適していました。また、九章、十章、十一章と読みますと、サウルの美点に目が留まります。親思いであり、従順、謙遜。敵と戦う時には大胆に。自分に対する反対者には寛容。外見だけでなく、内面も優れていた人物。さすが王に選ばれた器と見えます。
 ところが、十三章、十四章、十五章と、サウルの失敗が続きます。非常に残念な場面。最初の失敗は、私たちからすれば可哀想なもの。失敗とは言え、情状酌量を感じるものでした。宿敵ペリシテ人との戦闘が開始され、相手が優勢。多くの敵勢を前にした時、気後れした者たちは、隠れたり避難したりと混乱します。この時、サウルはサムエルの到着を待っていましたが、約束の時になってもサムエルが来ない。仲間が散り散りになりそうなのを見て、サウルはいけにえをささげます。いけにえをささげる。これは、祭司のすることであり、それ以外の者がしてはならないことでした。

 このサウルに対してサムエルの宣告が冷たく響きます。
 Ⅰサムエル13章13節~14節
「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。・・・今は、あなたの王国は立たない。」

 二つ目の失敗は、誓約の問題でした。不用意な誓約をし、それを果たそうとすると民が反対。その結果、誓約を反故にするというもの。一つ目の失敗よりも、二つ目の失敗は、問題が大きい。次第にほころびが大きくなっていく印象です。そして三つ目の失敗は決定的です。アマレク人に対して全てを聖絶するように。人間も家畜も殺すようにと命じられ、戦い勝利するも、良い家畜を惜しみ殺さなかったというものです。聖絶のものを残した。これをサムエルに指摘された時、サウルは抗弁します。従順、謙遜のサウルは隠れ、不従順と傲慢の姿を晒すことになる。
このサウルの姿を、どのように見るでしょうか。断罪するか。私にも似たところがあると見るか。神様への不従順が膨れ上がる前に、立ち返るべきなのだと教えられます。

 この決定的な失敗の結果、サムエルはサウルに対してはっきりと宣告します。
 Ⅰサムエル15章28節
「サムエルは彼に言った。『主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。』」

 王の地位は、サウルよりも優れた、サウルの友に与えられる。この宣告の結果、サムエルは次の王を選ぶことになり、サウルは自分よりも優れていると思う人物を非常に恐れるようになる。こうして、第一サムエル記の後半、ダビデの登場となります。

 サムエルがサウルの次に王として選ぶのは、羊飼いの少年ダビデ。年若く、王としての風格も力も、まだ持ち合わせていなかったでしょう。しかし、「人はうわべを見るが、主は心を見る」と教えられたサムエルは、神様に導かれるまま、ダビデを選びます。
 とはいえ、これですぐにダビデが王となるわけではありません。第一サムエル記はここから、ダビデが王として整えられていく記録となります。

 ダビデが最初に活躍したのは、ペリシテの歴戦の勇者ゴリアテとの一騎打ちです。イスラエル軍がゴリアテの大音声に震える中、羊飼いの姿で戦いを挑み勝利する。一騎打ちでの前口上は、勇ましい上に信仰的で読む者を興奮させます。
 Ⅰサムエル17章45節、47節
「ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。・・・この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』」

 ゴリアテとの戦いに勝利して、ダビデは多くのものを得ます。一つはサウルの子、王子ヨナタンとの友情。ダビデがゴリアテとの戦いを報告した際、それを聞いた王子ヨナタンはダビデのことを愛したと言います。(18章1節)またイスラエルの民も、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」と言って、サウル王よりも、ダビデの働きを賞賛します。
 しかし、ダビデが名声を得たことによって、サウルはダビデを恐れるようになります。

 Ⅰサムエル記18章8節~9節
「サウルは、このことばを聞いて、非常に怒り、不満に思って言った。『ダビデには万を当て、私には千を当てた。彼にないのは王位だけだ。』その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった。」

 これ以降、ダビデが忠実に働き、名声を高めれば高めるほど、サウルはダビデを恐れるようになります。なにしろサムエルの宣告は、「サウルよりも優れた人物に王位が渡される」というもの。ダビデの優秀さが示される度に、サウルは怒り、嫉妬、恐れを抱くことになり、ついにはダビデへの殺意を抱くようになる。当初は、裏工作でダビデを葬ろうとするもうまくいかない。次第に、サムエルの宣言した者はダビデであると確信するようになり、その結果、殺意は増していき、遂にはダビデ討伐の兵まで出すようになる。追われるダビデ。追うサウルという場面が多数出てきます。
 片や王子ヨナタンは、サウルと正反対の態度をダビデにとり続けます。ダビデの姿を見るにつけ、神様が次に王に立てるのはダビデだと確信する。本来ならば、次に王となるのはヨナタンでしょう。サウル以上に、ダビデ憎しとなってもおかしくない。ところが、次の王はダビデとしながら、ダビデを愛していきます。

 Ⅰサムエル23章17節
「彼(ヨナタン)はダビデに言った。『恐れることはありません。私の父サウルの手があなたの身に及ぶことはないからです。あなたこそ、イスラエルの王となり、私はあなたの次に立つ者となるでしょう。』」

 神様が選ばれているのは、ダビデであると同じように理解しながら、サウルとヨナタンの姿は正反対となる。神様が選んでいる。だから愛するのか。神様が選んでいる。だから殺そうとするのか。神様の思いを最上とするのか。それとも、私の思いこそ最上とするのか。自分がサウルの立場ならどうするか。自分がヨナタンの立場ならどうするのか。考えながら読みたいところです。

 サウルに命を狙われるダビデは何度も危機的状況に陥ります。単身で逃げること。狂人のふりをしなければならない場面。イスラエル国内にいることが出来ず、ペリシテ人の領地へ逃げること。サムエルに油注がれ、王になることが約束されながら、それが実現するとは思えない場面を何度も経験します。そのような中で、特に注目すべきは、ダビデのサウルに対する態度です。執拗にサウルに命を狙われても、ダビデ自身はサウルを殺そうとはしない。サウルを殺す、決定的な機会が二度ありますが、それでもダビデは手を出しません。サウルとて、神様に選ばれた王。その王を、自分が殺すわけにはいかないと心得ていたからです。
 具体的にダビデはどのような危機に遭遇し、神様はどのように助けて下さったのか。ダビデを追い続けるサウル。逃げるダビデ。友であるヨナタン。それぞれがどうなるのか、ハラハラ、ドキドキしながら読み通したいと思います。


 以上、第一サムエル記でした。確認しておきたいこと、面白いと感じる場面は山ほどあるのですが、この説教では僅かしか扱えませんでした。是非、じっくりと第一サムエル記を読んで頂きたいと思います。
 最後に一つ、第一サムエル記の中で特に重要と思うテーマを確認して終わりにしたいと思います。サムエル記は、多種多様な人物が登場し、強烈な個性をもって行動します。ある人たちは神様の御心を求めながら、信仰的に生き、ある人たちは自分のやりたいように生きる。しかし、全体としては神様の御心が確かに推し進められていることを見出せます。サムエル記を読み通して強く感じるのは、この世界を支配されている方がいること。結局のところ、私たちにとって最重要なことは、支配者である神様との関係をどのようなものとするのか。神様の願われることを行い、行うべきでないことは避ける。神様の思いよりも、自分の思いを優先させることが、いかに自分を不幸にするのかということです。
 このテーマ。神様が世界を支配されていること。この神様に従うべきであることを、サムエル記の冒頭で、ハンナが歌っていました。その箇所を確認して終わりにしたいと思います。

 Ⅰサムエル記2章6節~10節
「主は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。主は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。主は弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。まことに、地の柱は主のもの、その上に主は世界を据えられました。主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。主は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。主の地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」

 今、神様が私に求めていることは何なのか。聖書と祈りの生活を通して、真剣に考えたいと思います。取り組むべきこと。手放すべきこと。愛すること。赦すこと。ささげること。仕えること。信頼すること。決心することはないか。サムエル記を読みながら、神様の思いに自分を従わせることが、私たちにとって本当に幸せなことなのだと確認し、皆で実践するものでありたいと思います。