2014年2月23日日曜日

ウェルカム礼拝 第2コリント4章16節 「坂を上る力」

 本日はウェルカム礼拝の日です。初めて礼拝に来て下さった方、久しぶりに来て下さった方を心から歓迎いたします。今日、来て下さったことを大変嬉しく思いますし、また次週以降、続けて来て下さることも楽しみにしています。教会員の方、毎週来られている方とともに礼拝が出来ることも、大変嬉しく思っています。
 今年度、ウェルカム礼拝は四回を予定し、今日が四回目です。春、夏、秋、冬に一回ずつ。春は幼少期を意識して「誕生・命」をテーマに。夏は青年期を意識して「自分を見つけること」をテーマに。秋は壮年期を意識して「結婚・人間関係」をテーマに。この冬は老年期を意識して「歳を重ねることの意味」をテーマにしています。つまり、人生の四季、人生を四つの段階に分けて、実際の四季、春夏秋冬に割り当ててウェルカム礼拝を行ってきたわけです。
 今日の説教題は「坂を上る力」となりました。これは歳を重ねることに、どのような意味があるのか。どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。どのように、歳を重ねていけば良いのか。「歳を重ねることの意味」について、聖書はどのように語っているのか。皆さまとともに考えていきたいと思います。

皆さまは歳を重ねることは喜びでしょうか。嬉しいこと、感謝なことでしょうか。若い時、歳をとることは成長ですが、ある年齢からは成長というより衰退、老化となる。先日、十七歳の誕生日を迎える高校生が、「歳をとりたくない」と言っているのを聞き愕然としましたが、そのような意見があることも頭の片隅に置きながらも、一般的には、成長は嬉しく、老化を喜ぶことは難しいものと言えます。
 老化を喜ぶことは難しい。それでも万人に必ずやってくる老化。例外はありません。果たして私たちは、歳を重ね、衰退、老化することを喜ぶことが出来るでしょうか。

調べてみたところ、古今東西、偉人、哲人、宗教家、歌人、作家、実に多くの人が、歳を重ねることがいかに辛いことか、いかに嫌なことか、述べています。死よりも辛いと言われる老化現象の厳しさです。いくつか紹介したいと思いますが、例えば、

「貰ふこと いやでござるといひながら とらねばならぬ くれて行く年」
(大我夢庵)

 数え年では、正月を迎えることが、新たに年をとること。年の瀬の物悲しさと、年をとる物悲しさが重なります。貰いたいくない、でも受け取ることしか出来ない、くれていく年。年をとる寂しさを歌ったものです。あるいは、

「口惜しや 身は老いというくせものに 頭をさげつ 腰をかがめつ」 
(唐衣橘州)

 嫌な相手に頭を下げざるをえない口惜しさを、年を重ねて頭が下がり、腰が下がる悔しさと重ねて歌ったもの。歳はとりたくないという思いが、言葉巧みに表現されています。

 なぜ歳をとることが嫌なことなのか。なぜ歳をとりたくないのか。より具体的に歳を重ねる辛さを歌った、「老人六歌仙」(仙崖和尚)というものもあります。
 「しわがよる ほくろができる 腰曲がる
   頭ははげる ひげ白うなる
  手は振るう 足はひょろつく 歯は抜ける
   耳は聞こえず 目はうとうなる
  身に添うは頭巾 えり巻き 杖 眼鏡
   たんぽ 温石 しびん 孫の手
  聞きたがる 死にともながる さびしがる
   心が曲がる 欲深うなる
  くどくなる 気短になる 愚痴になる
   出しゃばりたがる 世話やきたがる
  またしても 同じ話に 孫ほめる
   達者自慢に 人はいやがる」

 心身ともに弱くなっていく。老いの姿を如実に歌ったものです。ある人の話ではなく、私たち全員が味わうことなのですから、寂しがる必要はない、恐れることはないと思いつつも、このような歌を読むと、どこか寂しさを感じる。直視したくない現実を見せられるような気になるのです。

 このような歳を重ねることの寂しさ、辛さはを歌ったものは、聖書の中にも出てきます。今より三千年前の人物。知恵者として名高い、大王ソロモンが、老人の姿を遠回しに歌ったもの。
 伝道者の書12章3節~7節
「その日(老年)には、家を守る者は震え(身体が震えるようになり)、力のある男たちは身をかがめ(腰が曲がり)、粉ひき女たちは少なくなった仕事を辞め(歯が抜け落ち)、窓からながめている女の目は暗くなる(目は霞み、耳は遠く、鼻は利かなくなる)。通りのとびらは閉ざされ(口数が減り)、臼をひく音も低くなり(食事も減り)、人は鳥の声に起き上がり(早く目が覚め寝ていられない)、歌を歌う娘たちは皆うなだれる(声が出なくなる)。彼らはまた高い所を恐れ、道でおびえる(足元がふらつき、転びやすくなる)。アーモンドの花は咲き(髪や髭が白くなり)、いなごはのろのろ歩き(足を引きずって歩く)、ふうちょうぼくは花を開く(欲望が衰える)。だが、人は永遠の家へと歩いて行き(死期が迫り)、嘆く者たちが通りを歩きまわる(まわりの人が苦労する)。こうしてついに、銀のひもは切れ(筋肉が弱り)、金の器は打ち砕かれ(意識も弱り)、水がめは泉のかたわらで砕かれ(呼吸が弱り)、滑車が井戸のそばでこわされる(心臓がだめになり)。ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る(ついには死ぬ)。」

 「老」の辛さ、寂しさは、三千年前から歌われていたこと。三千年を経ても変わらない事実なのです。
ところで、ソロモンが年老いていく様をこのように辛いものとして記した理由に触れておきますと、だからこそ「若い時から、創造者を覚えよ。」、「若い時から、神を信じなさい。」と言うためでした。

 伝道者の書12章1節a
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」

 見聞き出来るうちに聖書に触れ、理解出来るうちに真理を会得し、出来る時に仕えるように。その上で、老年を迎えるようにとの勧めでした。

 紹介したのは多くある中のごく一部。実に多くの人が、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことと感じる。祖父、祖母が弱くなる姿を見て悲しく思い、やがて父、母が弱くなる姿を見て寂しく感じ、遂には自分自身が弱くなることを経験して愕然とするのです。
 ところで、何故、私たちは、歳を重ね、老いを味わうことは辛いこと、寂しいこと、大変なことだと思うのでしょうか。よく考えてみると、そのように感じるのは不思議なことでもあります。何しろ、老いるということは誰もが知っていること。分かっていること。知らないことが起こるのではないのです。また、ある日突然老人になるのではなく、徐々に変化していくもの。そうなることは分かっていて、徐々に変化しているのにもかかわらず、私たちは歳を重ね、老いを味わうことが辛く、寂しく、大変に感じるのです。何故でしょうか。何故、老いることを嫌がる気持ちが自分のうちにあるのでしょうか。

 何故、歳を重ねることが辛く、寂しいのか。
その最大の理由は、「出来ていたことが出来なくなる」からです。私たちの人生は、老いを味わうまで、何かが出来るようになることを繰り返します。何も出来ない赤子で生まれてから、出来ることを増やしていく歩みをしているのです。何かが出来るようになることは嬉しいこと。それによって、人から評価されるのも嬉しいこと。そしていつしか、「これが出来る」ことが、自分のアイデンティティとなるのです。
それが歳を重ねるにつれ、出来たことが出来なくなることを味わいます。それまで築き上げてきたプライドが削ぎ落とされ、自分らしさを失うのではないかという恐怖を味わうことになる。出来ないことが増えれば増える程、自分は必要とされていない。自分は迷惑をかけてばかり。何のために生きているのか分からない思いが強くなる。出来ないことが増えるにつれて、辛さ、寂しさが増すことになる。
かつて小学校の教師をしていた祖母の最晩年。ベッドの上で生活し、移動する時には車椅子が必要な状態。その祖母が、一番悲しんでいたのは、手が震えて、字が上手くかけなくなったことでした。涙を流しながら、字が上手くかけないことが寂しいと言っていたことを思い出します。字が上手くかけなくても問題はないこと。字が上手くかけなくても、私にとって大切な存在であることを伝えても、本人は字が上手くかけないことを寂しがっていました。全ての人が歳をとる。自分も老化を味わうと分かっていても、「出来ていたことが出来なくなる」というのは、辛いこと。寂しいことなのです。

 今日の説教のテーマは「坂を上る力」。多くの人が、歳をとることを苦しみ、悲しむ中で、どのようにしたら歳を重ねることを喜べるのか。死ぬ時まで、輝き続ける人生とは、どのようなものか。聖書から考えたいのですが、それはつまり、「出来ていたことが出来なくなる」ことにどのような意味があるのか考えること。「出来ていたことが出来なくなる」ことに備えることです。

 それでは、「出来ていたことが出来なくなる」ことに、どのような意味があるのか。聖書はどのように教えているでしょうか。この点、聖書は驚く程積極的な考えを提示します。
 Ⅱコリント4章16節
「私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」

 ここに「外なる人」と「内なる人」という言葉が出てきます。「外なる人」とは私たちの体のこと。「内なる人」は、「心」とか「人格」という意味ですが、ここでは特に、この世界を造られた神様の前での自分自身という意味です。
 「外なる人」が傷つき、弱まり、苦しむ時。それまで「出来ていたことが出来なくなる」時。その時に何が起こるのかと言えば、「内なる人が新たにされていく。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者とされるというのです。
 歳を重ね、体が弱まり、「出来ていたことが出来なくなる」ことを私たちは恐れ、辛く思います。「外なる人」が衰えることを、とても苦しく思う。しかし、聖書はその時こそ重要な時であること。その時こそ、取り組むべきことがあること。自分自身に向き合い、神様に近づく良い時であると言うのです。

 考えてみますと、そもそも私たちはこの世界を造り、支配されている神様の恵みによって生きているもの。自分の体も、心も、自分で用意したものではなく、自分の力で命を支えているのでもない。それにもかかわらず、出来ることが増えていく人生を送るにつれ、知らず知らずのうちに、自分の力で生きているかのように思うことが増える。生かされていると思うよりも、生きていると感じる。神様の恵みに目を留めるよりも、自分の力や功績に目を留めるようになることが多いのです。
 そのような私たちが歳を重ね、肉体的にも社会的にも弱くなり、「出来ていたことが出来なくなる」中で、もう一度自分を見つめ直すことになるのです。自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると感じる。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩みとなる。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる。この世界を造り支配されている神様を知る者にとって、「出来ていたことが出来なくなる」ことは、実に重要な歩みを送っているのです。

 この「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」というテーマは、次のように表現されることもあります。
 Ⅱコリント12章9節
「主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」

 この世界を造られた神様抜きに考えるならば、弱くなるのは恐ろしいこと。「出来ていたことが出来なくなる」ことは辛いこと。弱さを誇るなど、とても出来ない。しかし、この世界を造られた神様を前にした時、弱くなることに重要な意味があることを見出すのです。
 「弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる」。これが真実だとすれば(私は真実だと思っているのですが)、それはつまり、歳を重ね、出来ることが少なくなっても、取り組むべきことがあるということです。非常に弱くなり、助けがないと生きることが出来なくなっても、成長があり、新しい世界が広がっているということです。老いの中でこそ、人生の真髄を見出す歩みがあるのです。
 本日の礼拝のテーマは「輝き続ける歩み」です。「輝き続ける歩み」とはどのようなものか。聖書の一つの答えは、自分の力で生きていると思うよりも、神様に生かされていると確信する歩み。自分の力に目を留めるよりも、神様の恵みに目を留める歩み。「外なる人」が衰えるにつれて、「内なる人」が新たにされる歩み。弱くなればなるほど、神様の恵みを味わう者となる歩みです。皆さまは、聖書が言う輝き続ける歩みを送りたいと思うでしょうか。

 最後に二つのことをお勧めして終わりにしたいと思います。まずは普段教会に来ていない方へのお勧めです。歳を重ね、老いることは大変なこと、辛いこと。しかし、弱くなる歩みをする中でも、絶望することはない。むしろ、その時にこそ、取り組むべきことがあると聖書は言います。「内なる人が新たにされる生き方。」より神様を知り、神様の前での自分自身を知り、より神様に近づく者となる生き方をするようにとの勧めです。
この歩みをする第一歩は、まず世界を造られた神様を知ること、信じること。どうぞ、この聖書の神様を知って下さいますように、心からお勧めいたします。

もう一つのお勧めは、普段、教会に来られている方、クリスチャンの方で、とりわけ今、老いを感じ、弱さを覚えている方へのお勧め、あるいはお願いと言えるでしょうか。
 人生の先輩、信仰者の先輩へのお勧めというか、お願いは、「外なる人が衰えても、内なる人が新たにされる」歩みに取り組んで頂きたいということです。弱くなることを嘆きながらも、内なる人が新たにされる喜びを教えて頂きたいのです。人がどのように老いて、どのように天に召されていくのか。その中で、内なる人が新たにされる生き方とは、具体的にどのようなものなのか。天に召される、その時まで、生きる意味があり、取り組みがあることを、その生き様で教えて頂きたいのです。
 私たちは皆老いる。その時、人生の先輩の、教会の先輩の生き様をお手本にするのです。そして大変感謝なことに、これまでの四日市キリスト教会の歩みの中で、お手本となる信仰者が多くいました。これからも、聖書が教える輝き続ける歩みを、皆で出来るように、心から願います。

2014年2月2日日曜日

ローマ書12章1節ー18節 「賜物を輝かせる」

1月から、礼拝説教では信仰生活の基本となる事柄を扱ってきました。最初は礼拝特に賛美について、二回目は礼拝特に献金について、三回目は伝道、四回目は交わりと続き、今日は「賜物と神と人に仕える働き、奉仕」について考えたいと思います。信仰生活の基本を扱うシリーズ、今年度はこれをもって最後となります。
ところで、いかがでしょうか。皆様は賛美について、ささげ物について、伝道について、交わりについて、自分の課題に目が開かれ、あるいは新たな思いを神様から与えられ取り組んでゆこうとしているでしょうか。
私自身は先週の大竹先生の説教を聞き、今年は交わりの充実に取り組みたいと考えています。先ず神様との交わりでは、みことばを読み、みことばを通して神様を思う交わりの時間を充実させたいと思い、一年で二回を目標に聖書の通読を始めました。
また、教会員の皆様に交わりの場を提供することと、個人的には大好物のラーメンをはじめともに食べることを楽しむ交わりをできる限り実行できたらと願っています。
皆様も何か具体的な目標を立て、実行し、一年の終わりには神様からの恵みに感謝する。そんな2014年にできたらと思います。
さて、今日のテーマは賜物と働き、賜物と奉仕です。
神様がこの世界を創造した最初の時、エデンの園に置かれた人間には園を耕し、守る働きが命じられたと聖書の創世記は教えています。土地を耕し作物を育て、園の資源や生き物を守り管理する働きをなすために、つまり神様が造られた世界をさらに良いものする働きのために人間には賜物が与えられていたということです。
働くと聞くと、苦労が人間に課されたのかと思われますが、働くことが苦労、苦痛になったのは、人間が神様に背いた後のことで、それ以前は働くこと、神様に仕える奉仕は楽しみであり、喜びだったのです。
つまり、神様は私たち人間を、与えられた賜物を活かし働き、この世界を良くすることができた時喜びを感じる者として創造されたのです。しばしば誤解されているように、働くことは神様に背いた人間に対する罰ではなく、創造の最初から人間の喜びのため、楽しみのために与えられた恵みでした。
しかし、神様に背いた人間は与えられた賜物を正しく生かすことができなくなりました。アダムの子どもカインの子孫からは、家畜を飼う者、音楽家、鍛冶屋が出てきました。家畜を飼うという牧畜の働き、楽器を作り、音楽を作り、演奏すると言う芸術活動、自然に眠る金属を用いて様々な道具を作りだす働き。これらはみな、神様に賜物を与えられた人間だけが為しうる働きです。
けれども、カインの子孫たちは自分を富ませるため、自分の力を誇示し、人々を支配し、虐げるために賜物を用いました。彼らは神と人とに仕えるという本来の目的を忘れ、逆に人々を強いて働かせる者となったため祝福を受ける事はできなかったのです。
それ以降、人間のなす働きの価値は収入、社会的地位、名声や力によって計られるようになり、神と人とに愛を持って仕えたかどうかとの聖書の視点は、まったく無視される人間社会となってしまいました。
この様な悲惨な状況の中、神様が遣わした救い主イエス・キリストを信じる者は
良い行い、つまり神と人とに喜んで仕える能力が与えられ、人間本来の生き方を回復することが約束されたのです。

エペソ2:10「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」

「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。」というパウロの自覚のことばは、「キリスト・イエスにあって救われたのです」と言い換えることもできるでしょう。
キリストの十字架の恵みによって救われた私たちはただ罪赦されただけでなく、良い行いをするため、与えられた賜物を活かし神と人とに仕える働きを為すための思いと力を回復して頂いた、ひとりひとりが神様の尊い作品なのです!
このパウロのことばに皆様は同意できるでしょうか。神様の尊い作品として造られ、生かされている自分を自覚し、喜んでいるでしょうか。賜物と働き、奉仕について考える時、何よりも大切なのは、神様と人とに喜んで仕え、働く者として造りかえられた自分を自覚することと思われます。
イエス・キリストの十字架の死。この尊い犠牲によって救われたのは、収入や地位、名声によらず、与えられた賜物を活かし神と人に喜んで仕え、働くという本来の人間のあり方、生き方を私たちがこの世において示すためであることを改めて確認したいと思います。
ところで、教会において神様が私たち一人一人を造られたそのあり方を最も生かすことのできる働き、奉仕を見出すためにはどうすればよいのでしょうか。パウロが兄弟姉妹に勧めたことを記すローマ12:1~8に目を留めたいと思います。
先ず、自分のからだを神様にささげ、自分に対する神様の御心を知ることが勧められます。

ローマ12:1,2「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」

私たちの体すなわち私たちのすべてを神様に対する供え物としてささげ、神様のものとしていただく。この霊的な礼拝と言われていることが最初の一歩と教えられます。
そして、自分に対する神様の御心を知ることです。「自分など何の賜物もなく、何の奉仕もできない」という無力感に従わないように。「金銭的報酬も、名誉も得られない働きに何の価値があるのか」というこの世の声に調子を合わせることが無いように。
与えられた賜物を用いて神と人とに仕えるために生かされている者、神様の大切な尊い作品として、その輝きを放つよう期待されている者であることを自覚することでした。
第二に、正直に自分を評価することが勧められています。

12:3「私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」

「だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけない。神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。」一言で言うなら、パウロが願っているのは、私たちが自分自身について神様の前で正直になることでした。
私たちはみな各々に長所、短所を抱えています。長所と短所がセットになっていることもあるでしょう。真の謙遜とは自分の長所を否定することではなく、与えられた長所を感謝することであり、自分の短所、弱さについても正直になることと言われます。
私たちの教会にはことばに長けている人がいます。数字に強い人もいます。人間関係の上手な人もいれば、物を管理することが得意な人もいます。神様から与えられたものを値引きせずに受け止め、感謝して活用させていただくこと、これが謙遜であり、慎み深い考え方であることを教えられたいと思います。
第三に、キリストのからだに属する器官として、互いに協力することです。

12:4、5「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」

パウロお得意の教会を人間の体に喩えての薦めです。ところで、人間のからだを覆っている皮膚もその場所によって厚さ、薄さが様々であることはご存知かと思います。人間の体の皮膚の中で最も薄いのは唇の皮膚、最も厚いのは御尻の皮膚で、最も頑丈なのが足の裏の皮膚と言われます。
体の中に入れる食べ物が熱いか冷たいか、硬いか柔らかいか。唇の皮膚は繊細な感覚がなければつとまりません。それに対して、たとえ石があろうが、泥だらけの道であろうが乗り越えてゆく頑丈さ、強さがなければ足の裏の皮膚は用をなさない。どちらも協力し合って体を守っています。
教会にも唇の皮膚タイプの人がいます。人の思いに敏感で、繊細な心の持ち主です。心弱り果てた人の話を聞いて慰めを与えるのに向いているかもしれません。一方、足の裏の皮膚タイプの人は、少々の困難や反対があってもそれを乗り越えて物事を実行して行きます。
もし、唇の皮膚タイプの人が足の裏の皮膚タイプの人を「大雑把でがさつだ」と批判し、足の裏の皮膚タイプが唇の皮膚タイプを「神経質で細かすぎる」と責めるなら、その教会は立ち行かないことになります。しかし、お互いがキリストのからだに属する欠くことのできない器官であることを認め合うなら、そのような教会は俄然大きな力を発揮することになるでしょう。
パウロは、このようにお互いの賜物の違いを認め、欠くことのできない存在であることを覚えて尊敬し、協力し合うことをここで勧めているのです。
第四に、賜物を自由な心で活用することです。

12:6~8「私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行なう人は喜んでそれをしなさい。」

預言、奉仕、教え、勧め、分け与えること、指導に慈善。ここにあげられているのは教会を建て上げる賜物、霊的な賜物の一部に過ぎません。大切なのはどのような働きであれ、人目を気にしてではなく、強いられてでもなく、自由な心から行なうこと。惜しまず、熱心に、喜んでなすことと教えられます。
四日市教会がまだ八王子にあった時代のこと。洗礼を受けた人はみな教会学校の先生をやるように勧められた、いや命じられたそうです。その頃は若き女工さんたちが多く、いわば強いられた奉仕でしたが、皆がお話の担当の時には一週間なれない聖書と教案とを読みながら、一生懸命準備したのだそうです。
しかし、あの強いられた奉仕のお陰で自分の信仰と聖書知識はいかに強められたことか。当時を振り返って懐かしく語ってくれる姉妹方が今も教会を支えてくれています。強いられた奉仕にも恵みありとすれば、自ら志した奉仕にどれだけの恵みがあることかと思わされます。
自分の賜物がよく分からないという人は、人に勧められた奉仕に取り組んでみるというのも良いのではないでしょうか。自分の中に眠っていた賜物が花開き、それが人にも喜んでいただけるというのも嬉しいことですし、そのような経験を味わえるのが教会の良さでした。
 最初に、私たちは良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られた神様の尊い作品であることを自覚し、喜ぶことの大切さをお伝えしました。作品ということばは、工場で大量に作られる画一的な製品ではなく、ひとつひとつに神様の思いの込められたかけがえのない存在であることを意味しています。
 そうだとすれば、自分がどのような神の作品であるかを考え、知ることが必要であり、責任でもあるでしょう。
神様と教会の兄弟姉妹に仕えるために与えられている賜物は何か。自分が関心を抱き、それをしている時情熱を感じることは何か。生まれながらに与えられた能力、学びや職業を通して身につけた能力は何か。自分の性格はどのようなものか。人生において与えられた様々な経験の意味を考え、それがどのような人の役に立つのか考えること。
霊的な賜物、関心、能力、性格や経験。これらすべてが私たちに与えられた神様の贈り物であることを感謝し、それを神様と人に仕えるために活用、善用することに取り組む。そのために、兄弟姉妹のアドバイスにも耳を傾ける。
くれぐれも神様からの贈り物を奥に仕舞い込んで、宝の持ち腐れにしない。私の頂いた物が少しでもお役に立つのならと使わせていただく。そのような姿勢でこの一年間をみなが歩めたらと思います。今日の聖句です。

Ⅰペテロ4:10「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」

最後に、お勧めしたいのは、いわゆる奉仕疲れ防止法です。奉仕疲れとは、心のエネルギーが枯渇したまま奉仕し続け、身も心も疲れきってしまうことを言います。これを防ぐには、神様との交わりそして信頼できる兄弟姉妹との交わりに自分の身を置くことが有効かと思います。

カルバンは私たちの奉仕、働きについて次のように言っています。「律法にしばられている人は、日ごとに主人の前に仕事を言いつけられるしもべのようだ。その仕事を間違いなくやり遂げるまでは何かを成し遂げたと思わないし、主人の前に出ようともしない。しかし、父親に広い心でざっくばらんに接してもらってきた子どもは、自分の仕事が不完全でも、中途半端で欠点があっても、父親にその仕事を見せることをためらわない。なぜなら、父が望んでいた水準までいかなかったとしても、自分の父親への愛と信頼が父に受け入れられていると信じているからだ。私たちもそのような子どもでなければならない。私たちの働きがいかに小さく、不完全なものであっても、最も哀れみ深い父がそれを見て満足してくださる。そう固く信じなければならないのだ。」私たちの不完全な欠点だらけの働きを、私たちの愛のゆえに喜び満足し受け入れてくれる神様と信仰の友。この様な交わりが、私たちには是非とも必要なことを覚えたいのです。

2014年1月26日日曜日

コロサイ人への手紙3章16節 「交わりの祝福」

2014年が始まりまして早くも一ヶ月が終わろうとしています。あっという間の一ヶ月。皆様はどのようにこの一ヶ月を過ごしたでしょうか。
 礼拝説教は山崎先生との分担で、年初めの五回の説教で、信仰の基本的な事柄を確認しているところです。一年のうち一回は、礼拝説教で信仰の基本的な事柄を確認したいと考えたのですが、それならば、年の初め、気持ちを新たにした時が良いと考えてのことです。一回目が礼拝の中から主に賛美。二回目が礼拝の中から主に献金。三回目が伝道。四回目が交わり。五回目は賜物を用いることが扱われます。今日は第四聖日。交わりに焦点を当てて考えていきたいと思います。

 ところで皆さまは教会での交わりが好きでしょうか。お互いのことを知り合い、教会の仲間とともに過ごすことがとても好きという方。特に用事があるわけではないけれども、教会で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。教会の仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。
しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が居心地が良い。他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。
 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 私もこれまでの信仰生活の中で、教会の方にひどく傷つけられたと感じたことがあります。そのような時は、その人の顔を見て、悪い感情が出てくるのが嫌で、あまり教会にいたくないと感じました。あるいは、自分の発言や行動で、教会の方をひどく傷つけてしまったこと。自分のあまりの未熟さに、他の人と関わらない方が良いのではないかと考えたこともあります。皆さまはそのような経験があるでしょうか。
 交わりを避けたい。交わりを望まないという時。神様を信じるだけで十分ではないか。聖書を読み、祈る時間を充実させれば良いではないか。教会の人と顔を会わせるのは礼拝の時だけで良いではないか、という思いが沸き出てきます。
このような思い。交わりを避けたい、交わりを望まないというのは、極少数のクリスチャンしか味わうことがないのかと言えば、そうではありません。聖書が記された時代にも、交わりを避ける人がいました。交わりを避ける人たちには、それぞれ事情があったと思いますが、それでも聖書は明確に交わりの重要性を訴えていました。

 ヘブル10章25節
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 集まることをやめないように。キリスト者の交わりをやめないように。信仰生活を一人で送らないように。共に生きることに取り組むように。今日は、キリストを信じる者が交わりを持つことの重要性を再確認したいと思います。

 なぜキリストを信じる者にとって、交わりが重要なのか。聖書から色々と理由を挙げることが出来ます。
 私たちの神様は三位一体の神様。ご自身の中で完全なる愛の交わりがある方。そのような表現は聖書にないのですが、敢えて言えば私たちの神様は交わりの神様です。その神様が私たちをつくられた時、このように言われていました。
 創世記1章26節
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」

 交わりの神様が、ご自身に似せて私たちをつくられました。それはつまり、私たちも交わりの中で最も自分らしく生きることが出来る存在と言えます。エバがつくられる前。アダム一人の時に、神様は「人が一人でいるのはよくない」と言われていました。私たち人間は、もともと交わる存在。交わりは、私たちの本質と関係がある。創造の御業と深く結びついているのです。

 ところが人間が罪を犯し、堕落した結果、神様との関係は断絶し、人間同士の関係も壊れました。罪の恐ろしさは、交わりが壊れる点にあります。交わる存在としてつくられた私たちが、交わることが出来ない者となった。つくられた目的から外れたのです。
イエス・キリストは私たちを罪から救う方。この罪からの救いを交わりという点で見るならば、関係の修復、和解という意味です。パウロが次のように言っています。
 エペソ2章14節~15節a
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」

 キリストの救いの御業は、交わることが出来なくなっていた者が、あるべき交わりが出来る者へと変えられる、と言うことも出来ます。交わりは、救いの御業と深く結びついています。

 また救われた者の歩みを考えた時にも、交わりの重要性を挙げることが出来ます。救われた者は一人で生きるのではない。教会として、救われた者の集まりで生きていくことが教えられていますが、その教会は次のように表現されていました。
 Ⅰコリント12章27節
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 教会はキリストの体。キリストを信じる者たちは、各器官とするならば、交わらないということを考えられていない。交わりの中でキリスト者として生きていくことが前提となっている言葉です。交わりは、教会の本質と深く結びついています。

 交わりがなぜ重要なのか。創造論からも、救済論からも、教会論からも考えることが出来ます。それはつまり、神様は、私たちが交わる者として生きるよう、強く願っておられるということ。神様の目標は、私たちキリストを信じる者たちが聖書的な交わりを持つことです。この神様の思いを受けとめて、私たちも互いに愛することに取り組みたいと思います。

 それでは、聖書が教える私たちのあるべき交わりの姿とは、どのようなものでしょうか。実に多くの具体的な教えが聖書に記されています。今日はいくつか確認していきたいと思います。
 Ⅰテサロニケ5章11節
「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

 聖書的な交わりとは何か。ここでは「互いに励まし合う」ことが教えられています。互いに励まし合う。
これまで教会に来る時に、教会の仲間を励まそうと思って、来たことはあるでしょうか。礼拝の時、近くに座っているあの方を励ましたい。ともに奉仕をしているあの方を励ましたい。最近辛い思いをされたあの方を励ましたい。
どのようにしたら励ますことが出来るのか。よく考え、準備して教会に来るということに取り組みたい。心も体も疲れ、信仰面でも衰えている時。教会の仲間と過ごせば、元気になれる。そのような教会として、歩みたいのです。
 昨晩この説教を作りながら、私もこの御言葉に従いたいと思い、取り組むことにしました。どの方を励ますのが良いのか。少し悩みましたが、礼拝の司会の長老を。どのように励ませば良いのか。司会の奉仕をして下さることへの感謝を手紙にして書きました。取り組んでみて分かったのは、励ましたいと思い取り組むことは、私自身にとって喜びであるということ。励まされることだけでなく、励まそうとすることも喜びでした。是非、私たち皆で、「互いに励まし合う」という交わりを味わいたいのです。

 あるいは次のような箇所もあります。
 ローマ12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

 昨年度の年間聖句。ここで勧められる聖書的な交わりは、「互いに尊敬する」ことです。「あながた尊敬する人は誰ですか?」と問われたら、誰を思い浮かべるでしょうか。通常、尊敬するというのは、意識せずにすること。自分が考える尊敬出来る条件に合う人を、尊敬します。
しかし、キリストを信じる者の交わりにおいては、尊敬は意識的であり、決意的です。年齢も性別も国籍も関係ない。社会的立場も学歴も関係ない。教会でどのような奉仕をしているのか、クリスチャンになり何年なのかも関係ない。何が出来るからでもなく、何かをしたからでもなく、神様が愛している存在だから尊いとして、心から敬う。そのように、相手の人格を尊ぶ関係を築くことが出来たら、どれほど良いか。
 私自身、この御言葉にも従いたいと思い、教会の皆さまを尊敬する決意をもって今日来ました。もし私が偉ぶっている姿を見かけた時は、注意して頂きますようお願いいたします。

 また次のような箇所もあります。
 ローマ15章14節
「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」

 聖書的な交わりの一つのあり方。それは互いに訓戒すること。先に確認したように、私たちは互いに尊敬することが求められている。しかし、ともかく尊敬すればそれで良いというのではない。間違いがあれば正すこと。互いに訓戒することも聖書的な交わりなのです。
皆さまは、教会の仲間が悪に走ろうとする時、気付くでしょうか。気付いたとして、戒めることが出来るでしょうか。あるいは、その戒めを素直に聞くことが出来るでしょうか。
 昨年十一月にアメリカ研修に行った教会でのこと。男性の小グループで、互いに訓戒することの良い例を聞きました。ある男性が出張に行った際、ホテルでパソコンをつなぎ、卑猥なサイトを見たいと思ったそうです。それを教会の仲間に伝え、誘惑に負けないように祈ってほしいと伝え、皆で祈ったという話。
 このような交わりを持てることは本当に羨ましいと思いますが、同時にとても難しいことも分かります。自分が悪いことをしている。あるいは、罪を犯しそうだと思った本人が、それを教会の仲間に言うことが出来る。これは凄い信頼関係。しかし、それを築きたいのです。

 聖書的な交わりの具体例は、これ以外にも多数あります。互いに仕えること。互いに受け入れること。互いに赦し合うこと。互いに挨拶を交わすこと。互いに重荷を負い合うこと。互いに従うこと・・・。ある本によれば、互いに~~しないという教えは、新約聖書の中だけで五十八箇所あるそうです。これからも、聖書に示された交わりのあり方を見つけ、皆で取り組むことが出来たら良いと思います。

 このように交わりの具体例は多くあるのですが、是非とも四日市キリスト教会で取り組みたいと思う交わりがあり、最後に確認したいと思います。
 コロサイ3章16節
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 ここで勧められている第一のことは、「キリストのことばを、自分のうちに豊かに住まわせること」。聖書を通して、イエス様の人格に触れること。聖書を通して神様と交わること。聖書をよく読み、深く味わい、実践することが勧められています。
その上で勧められる第二のことが、「知恵を尽くして互いに教え」「互いに戒める」こと。キリストの言葉、聖書の言葉、私たちの神様がどれ程素晴らしいお方なのか、分かち合うことが勧められるのです。
更に第三の勧めとして、「感謝に溢れて心から神に向かって歌う」こと。

御言葉を味わい、神様との交わりを楽しむ。そして教会の仲間と御言葉を分かち合う、神様を分かち合う。そして仲間とともに神様を賛美する。この順番は非常に大事です。神様と交わることが赦された者として、まず神様との交わりを楽しむこと。その上で、教会の仲間と交わること。言葉を換えると、自分の力で教会の仲間と交わるのではないということです。神様と交わることが許された者として、同じ仲間とともに神様を喜ぶ。これぞ教会。これぞキリスト者の交わりという姿。
このような交わりを、是非とも皆さまと味わいたいのです。是非、今日の礼拝の後から、頂いた御言葉を深く味わい、教会の仲間と分かち合う歩みに取り組んでまいりましょう。

 今日の聖句を皆で一緒に読みたいと思います。
 ヨハネの手紙第一1章3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

2014年1月19日日曜日

コロサイ人への手紙3章17節、4章2-6節 「伝道について」

今日は2014年早くも第三回目の礼拝。新しい年の初め、新たな思いを抱いてスタートするこの時期、礼拝での説教を通して信仰の基本的な事柄を確認し、私たち皆が充実した信仰生活を送れたらと願っています。
ところで私たちの教会のビジョンは何でしょうか。「神と人とを愛する教会」です。それではサブビジョンは何でしょうか。「熱く祈り、広く伝え、豊かにささげる」でした。熱く神様に祈り、広く福音を伝え、豊かに賜物をささげることによって、神と隣人への愛を表してゆきたい。そう願ってのビジョンです。
今日扱う伝道はこの内の二つ目、広く伝えることに関連していました。今までの二回の説教は、賛美と献金を扱ってきました。神様を賛美することが非常に楽しくなる。神様を賛美することが生き方となる。人目を気にして強いられてではなく、ただ神様に心を向けて、喜んでかつ豊かにささげ物をなす者となる。
賛美と献金においてこうした成長を願う私たちが、今日考えたいのは伝道における成長です。一般的に伝道と言うと牧師や宣教師の役割、信徒はそのお手伝いと考える風潮が日本のキリスト教会に色濃く残っていると言われます。
しかし、聖書を見ますと、これは伝道を非常に狭く考えているものと思われます。聖書の教える伝道は多種多様、教会に集う者皆が伝道を意識して日々歩むことが求められているのです。
ですから、聖書を読めば読むほど、伝道の主役は教会の兄弟姉妹。牧師の仕事は最後の仕上げに過ぎないと私は教えられる気がします。
さて、イエス・キリストを信じた者は、様々な呼び方をされています。罪あるままの状態で神様に義と認められた者、神の子、霊的に生まれ変わった人、新しい人などなどです。
しかし、今日皆様にご紹介したいのは、私たちはイエス・キリストの代理または使節として、キリストからこの世に派遣された者であるということです。
今年、有名なケネディ元大統領、銃弾に倒れたあの悲劇の大統領の娘さんが、オバマ大統領により在日米国大使に任命され話題になりました。アメリカの日本重視の姿勢の表れだとも言われます。
それは兎も角として、在日日本大使は日本で生活するアメリカからの使節、オバマ大統領の代理と言えるでしょう。ですからケネディ大使の行動はアメリカの代表として為すことであり、ケネディ大使が公式に語ることはオバマ大統領の語ることとみなされます。
それと同じように、イエス・キリストを信じた私たちは復活した後天に上られたキリストの代理として、この地上に派遣され生かされている者と、聖書は語っているのです。

コロサイ3:17「あなたがたのすることは、ことばとよると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」

これはとても大切なことが語られている箇所でした。私たちが「主イエスの名によって為す」とはどういうことなのでしょう。
古今東西、名はその人の業績、権威、名誉などを表す重要なものと考えられてきました。私たちは祈る時、イエス・キリストのお名前で祈りますが、祈りだけでなくことばによると行いによるとを問わず、すべてを主イエスの名によってしてよいし、すべきであると勧められているのです。
もともと、私たちはイエス・キリストの名によって語ることも、行動することもできない存在ではないでしょうか。と言うより、罪深く、力なき私たちがキリスト名によって何かを語り、為す資格などないと言えるでしょう。
日本語には「名を貸す」という言い方がありますが、ある人が別の人に自分の名を貸すということは余程の信頼関係がそこにあることを示すものでした。
例えですけれども、もし皆様が自分の全財産を引き出すことのできるクレジットカードを貸すとしたら、誰でしょう。愛する家族か、心から信頼する親友ではないでしょうか。
イエス・キリストはこの世界を創造した全能の神。私たちの罪のため十字架に死なれた救い主。そのようなイエス様が、まるで本当の家族、親しい友として「わたしの名をあなたに貸すから、わたしの名で語り、行動しなさい」と仰ってくださる。何という恵み、本当に勿体無いような恵みと感じます。
期待は愛の表現の一つです。「あなたがたのすることは、ことばによると行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし…」と勧めたパウロ。彼は、この世界を造り、すべてを支配する王なるお方が、罪人の一人に過ぎない自分のような者の生き方に本気で期待していることを感じてたいたことと思われます。
聖書は、私たちクリスチャンを「この世に属する者ではない」と教えています。この世ではなく、イエス・キリストに属する者、キリストの代理、キリストの使節としてこの世に遣わされた者、生かされている者であることを自覚したいと思うのです。
皆様はこのイエス・キリストからの変わることのない、絶大な期待を背中に感じながら、生きているでしょうか。イエス・キリストから遣わされた者として家庭で、地域で、職場で考え、行動しているでしょうか。
この様な立場にあることを踏まえた上で、次に伝道とは何かをお話したいと思います。一言で言えば、人々にイエス・キリストを証しすることです。
それでは、どのようにイエス・キリストを証しすることができるのでしょうか。
先ず、ことばを通して証しすることができます。ひとつは福音を聖書を用いて説明する、伝えると言う方法で、これにはある程度の学び、訓練が必要です。
二つ目は、自分自身の生活で与えられた神様の恵みの経験を通して、証しすることです。イエス・キリストを信じると、徐々に聖書的なものの見方が身についてゆきます。それまで、当たり前と考えていたことを神様の尊い恵みと思う。人生に起こる様々な出来事の背後に神様の導きを見る。その様な心の目が開かれるということです。
それを人々に語る。或いは書いたものを読んでもらう。それがことばを通しての証で、誰にでもできることでした。
次に、私たちの生き方、行動を通しての証があります。私たちのうちに生きて働くイエス・キリストからこの世に遣わされた者として、家庭を営み、学び、仕事をし、お金を使い、隣人との関係を築いてゆく。
これはことばで伝えることよりも、もっと影響力を持つ証かもしれません。ことばで伝えることは、人々の生活から離れたところからでもできるでしょう。
しかし、もし本当に人々にキリストを内に宿す者として影響力を与えたいのなら、彼らのそばに近づき、ともに時間を過ごさねばなりません。当然、自分の欠点や短所をさらすことにもなるでしょう。けれどもそうしてこそ私たちの信仰が生きたものであり、信仰が人生になくてはならないものであることを感じてもらうことができるのです。
そして、私たちの周りにいるまだイエス・キリストを知らない人々に影響を与えるために肝要なのは、伝道を意識して生きることと思われます。特別伝道集会の時、説教で伝道について聞いた時、日曜日だけというのではなく、イエス・キリストこそが全ての人の生きる希望であると証しすることを日々意識して歩みたいと思うのです。
そのために具体的に取り組めることは何か。聖書に聞いてみたいと思います。
第一に、自分が伝道できるように祈ってもらうことでした。

4:2~4「目を覚まして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。」

この手紙を書いたパウロは使徒として、伝道者として有名な人。ユダヤの国で生まれたキリストの福音を世界中に広めた伝道の達人です。
そのパウロが牢獄に幽閉される苦難の中にあって、祈って欲しいと願ったのは釈放ではなく、キリストの奥義、福音を語れるように祈ってください、語るべき語り方で、はっきりと語れるように、祈ってくださいとの願いであったとは流石です。
と同時に教えられるのは、伝道は個人プレーではなく、チームプレイということでしょう。当時迫害されていたキリスト教、福音を語るためには勇気が必要でした。自由も必要でしたし、語り方や人々に理解してもらえるようはっきりと語る知恵もひつようでした。これは今も変わらないことです。
私たちは伝道したい人がいる時、一人だけで取り組もうとしていないでしょうか。一人で祈り、一人で悩んでいないでしょうか。その人に伝道できるよう、兄弟姉妹に祈ってもらいたいと言う。上手くいかなかったら励ましあう。労苦を分かち合う。そんな仲間とともに伝道に励めるという恵み。是非このことをお勧めしたいのです。
第二に、賢明に振る舞い、機会を十分に用いることです。

4:5「外部の人々に対して賢明に振る舞い、機会を十分に生かして用いなさい。」

神様を知らない人は、私たちクリスチャンが困難や失望にどう対応するのか知りたがっています。特に人間関係にどう対応しているのか関心を抱いているのです。
私たちは相手にがっかりさせられても、柔和な態度で接しているでしょうか。それとも相手を責めているでしょうか。思うように物事が進まない時、無愛想で、イライラしているでしょうか。それとも、親切に、忍耐深く接しているでしょうか。
せっかく福音を語っても、私たちの対応や態度が、相手の心に冷や水をかけるというようなことがないよう、賢明に振舞う者になれたらと思います。
また、聖書は「機会を十分に生かして用いなさい」と教えています。機会、チャンスは与えられるものであると同時に、見出すものでもあるでしょう。そのために、「イエス・キリストによって変えられた人生について、証しする機会を与えてください」という神様への祈りをもって一日をスタートしたいと思うのです。
イエス・キリストが神なき人々をどう見られたでしょうか。軽蔑したり、見下したりは決してなさらなかった。むしろ神の愛を受けるに値しない人は一人もいないことを忘れず、人々の霊的な必要に実に敏感だったのです。
私たちもイエス・キリストの目線に近づけば近づくほど、十分に生かすべき機会が自分の周りに驚くべきほど存在することに気がつくことでしょう。
第三に、親切に接すること、相手にあった対応を考え、実行することを心がけたいのです。

4:6「あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしなさい。そうすれば、ひとりひとりに対する答え方が分かります。」

私たちは自分が確信する福音を相手に説教がましく押しつけてしまうことがあります。それは熱心から生まれたことですが、よくよく注意する必要があります。理屈で迫ることや押し付けがましさは、それをしている人は往々にして自覚できていないことが多いのです。
むしろ、いつも親切で、塩味のきいたことば、つまり相手にとって感じのよい話し方を心がけたいと思います。人々を惹きつけ、説得するもの。それは的確なことばとそれ以上に温かく、親切な態度であることを覚えたいのです。
また、一人一人異なった性格や境遇の人に合った答え方は、一朝一夕で身につくものではないでしょう。心から関心をもち、愛し、ともに時間を過ごして、相手の性格や人生の歩みを知って尊ぶこと。そうした人間関係の線上に、相手の身にあった答え方が見つかるのではないかと思われます。
最後に、伝道とは、それを通して神を知らない人々を私たちが愛し、仕えること、私たちがこの世に生かされている大切な目的のひとつであることを確認したいのです。
先程紹介した使徒パウロのことばです。

Ⅰコリント9:19「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、全ての人の奴隷となりました。」

人間社会には昔も今も形を変えて地位の上下が存在し、人を縛ります。しかし、神様を信じる者にとって、全ての人間は神様に造られた尊い存在として対等であり、誰かが誰かに縛られることなく自由と教えられます。
しかし、キリストの福音を伝え、その人がキリストを信じるためなら、その人の奴隷、しもべ、仕える者となることも厭わないとパウロは言うのです。
皆様の人生において、伝道はこれほど意味のあることでしょうか。これほど価値あることであり、大きな願いでしょうか。
そして、このような生き方を可能にするには、イエス・キリストとの親しい交わりが必要なのです。私たちの魂がキリストの愛を味わい、キリスト愛に動かされ、キリストの愛に縛られるほど、私たちの人間関係は自由となり、心から進んで伝道のため仕える者となれるのです。
この一年、私たちみなが伝道を意識して日々生きること、キリストの愛に動かされて伝道の心を高め、神を知らない人々に仕えてゆくこと。これらの点において成長できればと思います。

2014年1月12日日曜日

箴言3章5-10節 「礼拝~献金の意味~」

今日は2014年二回目の礼拝。この一月と二月の第一週は、新たな思いを抱いてスタートするこの時期、礼拝での説教を通して、信仰生活の基本的な事柄をみなで確認したいと思っています。
ところで私たちの教会のビジョンは何でしょうか。「神と人とを愛する教会」です。それではサブビジョンは何でしょうか。「熱く祈り、広く伝え、豊かにささげる」でした。熱く神様に祈り、広く福音を伝え、豊かに賜物をささげることによって、神と隣人への愛を表してゆきたい。そう願ってのビジョンです。
今日扱う献金はこの三つ目、豊かにささげることに関連していました。私たちが神様から与えられた様々な賜物の中で最も管理の難しいのが、つまり使い方が難しいのがお金と時間と言われます。
一般的にも、「お金の使い方を見れば、その人がわかる」とか「人生とは詰まるところ、時間の使い方、過ごし方」と言われますし、聖書にも同じような意味のことばを見出すことができます。
今日献金について学ぶことにより、今年一年、私たちが与えられた財産を豊かに喜んで神様にささげる歩みができたらと願っています。
さて、先回も確認したことですが、礼拝とは教会に特別親しくご臨在される神様と私たち人間が交わる時であり場でした。礼拝のプログラムも神様からの語りかけと私たちの応答のプログラムがほぼ交互に組まれています。そして、献金は祈りや賛美とともに、みことば通して示された神様の恵みに私たちが応えるプログラムとなっています。
事実、聖書において献金、ささげ物の意味は、それをもって主なる神様をあがめることと教えられていました。

箴言3:9、10「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。」

「あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。」私たちの財産と収穫をささげることで、主なる神様をあがめることができるというのです。
献金と似て非なるものに神社仏閣への寄付があります。この場合誰それがいくら寄付をしたとその名が公表されます。本人も自分の名が張り出されなければ不満を抱くことでしょう。寄付は世間を意識し、自分の名をあがめてもらうための宗教的行いでした。
それに対して、献金はただ神様に心向けて為す行い。ことばであがめるだけでは足りず、収入収穫をささげて崇めたくなるほどすばらしい神様を思い、神様に対して心からなす応答なのです。
自分の名を認めてもらい、あがめてもらうための寄付。それに対して、自分の名などどうでもよい。ただささげ物を通して主なる神様のすばらしさを表すことを願う献金。似ているように見えて、まったく違う二つの行いの意味がご理解いただけたでしょうか。
さらに、「すべての収穫の初物で」と命じられていることに心を留めたいのです。初物、すなわち私たちが使った後の残り物ではなく、手付かずの初物をささげることで、神様を第一とする信仰の姿勢を表すことが求められていました。
第二に、献金は私たちが心から神様に信頼しているかどうかの試金石と言う意味があります。
今お読みした箴言の箇所の冒頭5節には、「心を尽くして主により頼め」とありました。そして、心を尽くして主により頼むとはどういうことかが、その後具体的に二つ語られています。
ひとつは、私たちの行くところどこにおいても主を認めること。つまり、生活のあらゆる場面で主の御心に従うことです。ふたつめが、与えられた財産と収穫の初物で主をあがめることでした。
神様に背いた人間ができなくなったことのひとつは、この世界とそこにあるすべてのものは神様が創造したもの、神様こそが真の所有者であり、私たちは与えられた物の管理者にすぎないと認めることです。
旧約聖書の時代、エジプトを脱出し荒野の旅をへて約束の地に入る直前、神様はこの様にイスラエルの民に警告を発しました。

申命記8:17,18「あなたは心のうちで、「この私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」と言わないように気をつけなさい。あなたの神、主を心に据えなさい。主があなたに富を築き上げる力を与えられるのは、あなたの先祖たちに誓った契約を今日のとおりに果たされるためである。」

「私の力、私の手の力が、この富を築き上げたのだ。」という己の能力に対する過信、築き上げた富は我が物という所有者意識に気をつけよ。主なる神様こそがあなたたちに富と富を築き上げる力を与えられたお方。この神、主を心に据え、全幅の信頼を寄せなさいとの勧めです。
ささげ物、献金は、この生ける神様を信頼して生きているのか、それとも努力して得た富を頼りに生きているのか、私たちの心を探る試金石であることを覚えたいのです。
第三に、ささげ物をすることは、神様に対する感謝を表すという意味がありました。

申命記16:16,17「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。あなたの神、主が賜った祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」

旧約聖書の昔、年に三度の祭りの時期、主なる神様が定めた場所で礼拝を行なうことがイスラエルの民に命じられた場面です。その際、主の前には何も持たずに出てはならない、むしろ主の祝福に応じてそれぞれ感謝のささげ物を持ってきなさいと勧められていました。
そして、新約聖書の時代になりますと、このささげ物、献金が週毎の礼拝において定着した様子が伺えるのです。

Ⅰコリント16:1~3「さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。」

この時、飢饉に襲われたエルサレムの教会が大変苦しんでいました。そのため、エルサレム教会の兄弟姉妹のために各地の教会が献金をささげ、それを使徒たちが集めエルサレムに届けたという出来事が背景となっています。
「いつも週の初めの日に、収入に応じて手もとにそれをたくわえておきなさい。」旧約聖書の時代から続く十分の一献金とともに、新約の教会では週の初めの日つまり日曜日の礼拝において、献金をささげることが勧められ、それが習慣として定着していったと考えられます。
何故、献金をささげることを習慣とすることが勧められたのか。何故、伝統的に考えられてきたように、新約の時代にも十分の一と言う基準が前提とされていたのか。皆様はどうお考えになるでしょうか。
私はこう考えます。もし、いつでも自分の都合の良い時に、可能なだけささげればよいと言われたら、果たして自分は神様をあがめるため、感謝を表すため献金しただろうか。本気で神様を信頼しているのか、それとも己の能力や富を信頼しているのか、心を探る時を持っていただろうかと。
神様をあがめること、感謝を表すこと、神様に信頼することにおいて極めて不熱心、放っておけば何もしなくなるだろう己の弱さを思う時、献金を習慣とすること、聖書を一貫するひとつの基準があることは、大きな助けと感じています。
また、これも聖書が教えていることですが、ささげ物をする際、神様が見ておられるのは私たちの心だということです。

Ⅱコリント9:7「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」

神様にささげものをする人や自分を見る時、私たちは何をもって成長と考えるでしょうか。献金できなかった人が献金できるようになること、十分の一献金ができなかった人ができるようになること、十分の一をこえて献金できること。これも成長と言えるかもしれません。
定期的にささげられなかった人が定期的にささげられるようになる。人の目を気にしていた人が、ただ神様に心を向けてささげられるようになること。これも成長でしょう。
しかし、神様が最も重んじていること、そして私たちにとって最も難しいことはいつも喜んでささげること、ささげることを喜びとする者となることではないでしょうか。この点において私たちは成長したく思います。ただささげ物を用意するだけでなく、喜んでささげる心を備えて神様の前に出たいのです。
そのためには、神様の恵みを数えること、特に私たちのどうしようもない罪を赦し、神の子とするために、イエス・キリストが受けてくださった十字架の苦難を思い起こすこと、そのイエス・キリストが復活して、今私たちのうちに生きておられることを覚えることが肝要と思われます。
最後に、献金、ささげものを通して与えられる祝福を確認しておきたいと思います。
ひとつめは、物質主義的な生き方からの解放です。仕事の価値は収入の大小によって決められる。その人の価値を財産の多少によって判断する。物を豊かに持っていることが幸せと感じる。テレビやチラシは日々生活に不要なものを買わせようと、人々の物欲を煽り立てる。
本当に私たちは凄まじい物質主義の時代に生きています。本来、お金や物を使う主人であるべき人間が、物やお金の奴隷となっているという有様です。
この様な世にあって神様にささげる習慣、人に分け与えることを通して神様にささげ物をするという習慣は、私たちの人生を物質主義の凄まじい流れから守ってくれる防波堤になるかと思います。
ふたつめは、ささげることは、私たちの心を神様に近づけるという祝福をもたらします。イエス・キリストの山上の説教の中にこの様な教えがあります。

マタイ6:21「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」

私たちの人生の優先順位はお金の使い方に現れます。家を買えばそこに私たちの心が向かいます。洋服や趣味、その他何でもお金を使うところに心が向くのです。
果たして、私たちは自分の心を何に向けたいと考えているでしょうか。「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」。イエス・キリストは、私たちが心を向けたいと思っている対象にお金をささげ、使う必要があると教えているのです。
神様を人生における第一のお方としたいなら、この世において何よりも大切なのは神様との関係と考えるのなら、私たちこのイエス様の教えに本気で従う必要があると思います。
第三に、ささげることを通して受け取る祝福は、神様が本当に生きておられ、私たちを守っていてくださるのを体験することです。今日の聖句です。

マラキ3:10,12「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。…すべての国民は、あなたがたをしあわせ者と言うようになる。あなたがたが喜びの地となるからだ。」と万軍の主は仰せられる。」

聖書中ただ一箇所、神様がご自分のことを試してみよと勧めているところ。収穫の十分の一を喜んでささげる人々に対する祝福が物の豊かさによって表現されています。
神様を心から信頼して生きる者が乏しくなることはない、生活に必要なものは満たされる。それらの祝福を通して、私たちは本当に生きて働いておられる神様に心の目開かれるのです。頭の中の知識ではなく、心から神様がともにおられるお方であることを確信できるのです。
私たち長老教会の先輩に当たるクリスチャンにピューリタンというグループがあります。幾多の迫害を受けながら神信仰に生きた彼らは、この世の富においても恵まれていたそうです。
この世の仕事を神様の栄光を表す場と考えた彼らは仕事に勤勉に励みました。その様に働く彼らは職場で信用を得、大切な仕事を任せられるようになります。しかし、生活が極めてシンプル、質素であったため必要なもの以外買うことなく、結果自然と富に恵まれる者となったと言われます。そして、その富の使い方も困窮している人々に惜しみなく施したという点で、人々に尊ばれたのです。
この一年、私たちもこれら神様の祝福を味わいつつ、喜んで神様にささげる者として成長してゆきたいと思います。

2013年12月29日日曜日

マタイの福音書7章7節~12節 「求めるべきものを」

2013年が終わろうとしています。この一年はどのような年になったでしょうか。「どのような一年だったか、三分にまとめて話して下さい。」と言われたら、皆さまはどのようにまとめるでしょうか。喜び、楽しみの印象が強いでしょうか。悲しみ、困難が心に残っているでしょうか。皆様が味わいました人生の労苦に対して、神様のねぎらいや励まし、支えがあり、必要な力や満たしを得て、新年を迎えることが出来るようにと心からお祈りしています。
 ところで、一年を振り返ると言っても、様々な切り口があります。仕事のことか。学びのことか。趣味のことか。家族のことか。生活に大きな変化が起こったことか。信仰生活、教会生活のことか。振り返り方によって、その年の印象は変わると思います。
 それでは「何を求めてきたのか」という視点で、この一年を振り返るとどうなるでしょうか。この一年間、皆さまは何を求めてきたでしょうか。この一年間、継続的に神様に祈ったのは、どのようなことでしょうか。
一般的に「何を求めるのかで、その人の本性が分かる」と言われます。そうだとすれば、「何を求めてきたのか」という視点で一年を振り返るというのは、この一年、自分を何者として生きてきたのかを確認することになります。もう一度お聞きします。皆様は、この一年間、何を求めて生きてきたでしょうか。そして続く一年、何を求めて生きるでしょうか。
「山上の説教」と呼ばれるイエス様の有名な説教。神様に求めることをテーマにした箇所から、私たちは何を求めるべきなのか。考えていきたいと思います。
(約一年前の元旦礼拝にて、私たちは何を求めて生きるべきなのか。今日の並行箇所のルカ11章より考えました。今日は同じテーマを、マタイの箇所から考えることにします。)

 マタイ7章7節~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 私たちはある意味で「求める」ことに関しては天才的です。生まれながらにして、求めることを知っています。祈りにおいても、「願い」が中心となりやすい。神様、こうして下さい。ああして下さいと祈る。
本来は、神様がどのような方か考え、聖書から教えられ、祈りの中でもっと、神様を賛美すべきではないか。与えられた恵みを覚え、もっと感謝すべきではないか。自分の歩みを振り返り、罪を告白すべきではないか。頭では分かっているのですが、実際には、最初に少し神様を褒め称え、少し感謝を述べ、少し罪を告白し、後は延々と願う。願い続ける。お願いばかりの祈りということがあります。
 今日の箇所で、イエス様は私たちに「求めなさい」と勧めていますが、「では、あれが欲しいです。これが欲しいです。」と言う前に、何を求めるべきなのか。本当に求めるべきものは何なのか。私たちは、よくよく考えるべきでした。
聖書は一方で、貪ることを禁じます。しかし、もう一方で、求めることを勧める。貪るのではなく、求めること。この違いは重要です。私たちは本当に求めるべきことを知り、信仰をもって求めているのか。問われるのです。

 ところで、マタイの福音書では、この「求めなさい」という言葉が、もう一つ、有名な言葉と合わせて記録されていました。「求めなさい」と勧められる一つ前の節です。
マタイ7章6節
「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」

「聖なるものを犬に」「豚に真珠」。どちらも同じ意味と考えられます。「豚に真珠」は日本でも諺として定着しています。その価値を知らないものに、高価なものを与えないように。もし与えたら、踏みにじられる、台無しにされてしまうから。
それでは、聖なるものとは何でしょうか。聖書の中には、聖なるものと呼ばれるものが多数出てきます。神殿の供え物、聖餐のパンとぶどう酒、救い、天国・・・。真珠とは、マタイ13章45節で、「天の御国」の比喩として使われています。聖なるものにしても、真珠にしても、神を信じる者にとって、最も大切なものの比喩です。
つまり、その価値が分からないものに、聖書が教えている最も大切なものを自由にさせてはならない。聖なることを尊ばない者に、聖なるものを差し出して、それを冒涜させてはならない、という戒めです。

 この言葉は与える側への注意として、「聖なるものを犬に与えるな」「豚に真珠を与えるな」とありますが、私たちがまず考えるべきは、受け手としてのことです。自分は、ここで言われている犬や豚のような者になっていないか。神様が与えて下さるもの。その価値を知らずに、足で踏みにじるようなことをしていないか。
 少なくとも、かつての私たちは、ここで言われている犬や豚でした。神様が下さるものに相応しい者ではなかった。神様が与えて下さるもの。その価値すら分からない者でした。私たちはもともと、ここで言われている犬であり豚であり、神様に求める権利などない存在であること。当然のように求めるのではなく、そもそも、天の父に求める資格などない者であったことを忘れてはいけません。
この「豚に真珠」という辛辣な言葉を経て、「求めなさい」との言葉が続くのです。

 マタイ7章7節~8節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」

 もともとは、求める資格も、能力もない者に対して、「求めよ」との勧め。7節を、忠実に訳すなら、「求め続けよ。そうすれば与えられる。捜し続けよ。そうすれば見つかる。叩き続けよ。そうすれば開かれる。」と、執拗に食い下がる、うるさいほどに求めることの勧めです。8節は、念押しの約束です。「だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる。」
 私たちには、そもそも神に願う資格などない。神様はそれに答える義務などない。それでも、「求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれる」と教えられるのです。凄い約束。

 このように、「求めよ、さらば与えられん。」という御言葉を、直前の「豚に真珠」と合わせて受け取る時、私たちが神様に求める前に考えるべきことがあると教えられます。本来、私たちは求めるのに相応しくない者だということ。求めるべきものを知らず、神様が下さるものを足蹴にするような存在。この自覚の上に、「求める」ことが勧められているのです。
この自覚無しに求めようものなら、私たちの求める物は、私利私欲を満たすものばかり。自分では良いと思っても、有害なものばかり求めてしまう。私はもともと、何を求めたら良いのかも知らない。分からない者だった。何を求めたら良いのか、教えて頂かないといけない。その思いに立って、「求める者」となりたいと思います。

 それでは私たちは何を求めたら良いのか。その答えが、「求めなさい」との勧めの直後に出てくるように思います。
マタイ7章12節
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」

 これも非常に有名な教え。黄金律、ゴールデン・ルールと呼ばれるものです。この黄金律、聖書の重要な教えが、「求めなさい」との言葉と同じ文脈で出てくるのです。
(「求めなさい」という勧めと、黄金律が同じ文脈で語られるということが、並行箇所のルカ11章にはない、マタイならではの特徴と言えます。)

 聖書の中には様々な命令、戒めが出てきます。それらを集約するとどうなるのか。それを一つにまとめたらどうなるのか。私たちが生きるべき姿を、最も簡潔に表現したらどうなるのか。それがこの「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」という戒めです。何しろ、イエス様がまとめて下さった。
 この戒めが、「律法であり、預言者です」と言われていますが、「律法であり預言者」というのは、聖書のこと。(正確に言えば、キリストの時代には、まだ新約聖書はなかったので、旧約聖書を指します。)つまり「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。これが聖書の中心メッセージです。」という意味。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようする。」これが、私たちのあるべき姿を示す大切な教えでした。

 私たちは自分にしてもらいたいことを考えることは、容易いこと。妻に何をしてもらいたいか。夫に何をしてもらいたいか。親に何をしてもらいたいか。子どもに何をしてもらいたいか。教会の仲間に何をしてもらいたいのか。上司に、部下に、同僚に、友人、知人、恋人に、近所の人に、何をしてもらいたいか。自分が何をしてもらいたいかを考えるならば、いくらでも出てくるでしょう。
 話しを聞いてもらいたい。理解して欲しい。ねぎらいの言葉、励ましの言葉がほしい。自分を評価してほしい。信頼してほしい。時間をとってほしい。などなど、いくらでも出てくる。簡単にまとめると、愛が欲しいとなるでしょうか。それも具体的な行動をもって、愛してほしいということ。

 自分がしてもらいたいことを考えるのは簡単。問題なのはその次です。「それと同じように、他の人にする」ということ。具体的な行動をもって、自分から愛すること。これが問題。いかがでしょうか。真実に、この黄金律に沿って生きることは、自分に出来ることでしょうか。
 果たして、この戒めに従って生きることが出来るのかと問われると、私たちは、困惑します。それが出来ないからです。自分はしてもらいたい。でも自分はしたくない。そのような思いが自分の中にあることを認めることになるのです。
 罪というのは、自分中心に生きること。いや、自己中心にしか生きられないこと。私たちは、罪赦された罪人。まだまだ自分の中に、自己中心的な思いがあり、自分にしてもらいたいことを、他の人にもするということが、非常に難しい。いや、出来ない、不可能といえます。

それでは、どうしたら良いのか。人間として、どのように生きたら良いのか。聖書で示されても、それが出来ない。私たちはどうしたら良いのか。思い出すべきは、この戒めは、この言葉だけ語られたのではないこと。「それで」という言葉でつなげられています。その前の言葉が「求めよ、さらば与えられん」でした。

 マタイ7章7節~11節
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子どもがパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してもると、あなたがたは悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者に良いものを下さらないことがありましょう。」

 黄金律の前提になっている言葉は、私たちが求めること。求め続ける者であること。また、私たちの求めに応えて下さる天の父がいるということです。
 イエス様は「求め続ける者であれ」と勧めます。なぜなら、天の父は、求める者に良いものを下さらないわけがないから。それも印象的な言葉をもって、励まして下さっています。子どもがパンを求めているのに、石を与える親はいない。魚を求めているのに、蛇を与える親はいない。悪い者ですらそうならば、天の父は、良いものを下さるに決まっているではないかとの言葉。

 つまり、私たちは「自分にしてもらいたいことを、他の人にする」ことなど、出来ない。そのようなことはそもそも不可能。そのような力は自分にはない。しかし、自分には不可能なことを求めることは出来る。そして、天の父はそれに答えて下さる方だと教えられるのです。
 このように読んでいくことで、私たちな何を求めるべきなのか、分かってくるように思います。私たちは、自分の欲しいもの、自分勝手な願いを、求め続けるように勧められているわけではない。求めさえすれば、何でも与えられるわけではない。私たちにとって最高の人生、あるべき私たちの姿、黄金律に沿って生きる人生。それを求めること。そのような生き方が出来るように求め続けることが勧められているのです。この点について、「求めなさい。そうすれば与えられます。」との約束があるのだと教えられます。

 この一年間、私たちはどのような願いをもって生きてきたでしょうか。神様にどのようなことを求めて生きてきたでしょうか。私たちの口から出た願い、祈り、求めの中に、自分のしてもらいたいように、他の人に仕えさせて下さいというものは、どれだけあったでしょうか。

 今日の箇所に合わせて言うならば、キリストの贖いの御業は、求めるべきものが何かも分からない者が、正しく神様に求めることが出来るようにするもの。私たちが罪から離れ、この黄金律に沿って生きることが出来るようにしてくれるものでした。キリストを信じる者に与えられる聖霊も、求めるべきものが何かも分からない者が、正しく神様に求めることが出来るように助け手下さる方。私たちが、黄金律に沿って生きるように助けて下さる助け主でした。
 キリストの弟子。クリスチャンとは、どのような存在か。色々な答えがありますが、そのうちの一つの答えは、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。」という教えに沿って生きられるように、真剣に神に求める者と言えるでしょう。
 果たして、私たちはこのキリストの命令。「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする。」という命令に真剣に取り組んできたでしょうか。この命令に心から従いたい。従う人生でありたいと考えてきたでしょうか。
 一年の最後の聖日。求めるべきものを教えられた者として、聖書の教えに従っていけるよう祈り求め続ける歩みをする決意をして、新たな年を迎えたいと思います。

 今日の聖句を皆で読みたいと思います。
 マタイ6章33節

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものは全て与えられます。」

2013年12月22日日曜日

マタイの福音書2章1-12節 「降誕~東方の博士たちが~」

フランスのシャモニー、イタリアのミラノ大聖堂、カナダのバンフ国立公園、エクアドルのガラパゴス諸島、ナミビアの砂漠、オーストラリアのグレートバリアリーフ。中国の万里の長城。皆様はこれが何だか分かるでしょうか。
死ぬまでに一度は行ってみたいと思っている世界の絶景として、日本人に人気の場所だそうです。個人的には一度も言ったことのない国であり、場所ばかりですが、写真などを見ますと、一度行けたらなあと感じさせる場所ばかり。美しい景色や歴史的な建物は、確かに私たちを旅へと向かわせる魅力があります。
また、そこにどうしても会いたい人がいるということも、人を旅へと駆り立てるものかもしれません。私の知人は、初孫の誕生を聞いて是非一目見たいとブラジルのサンパウロに出かけて行きました。飛行機を乗り継いでも片道二日近くかかる地球の裏側です。
しかし、紀元一世紀ユダヤの国に、当時の常識からすれば理解しがたい、不思議な旅をしてきた人々がいました。東方の博士と呼ばれる人々です。

2:1「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来た。」

当時の世界でユダヤの国に関心を持ち、旅をしたいと思う人は殆どいなかったと思われます。その頃ユダヤはローマ帝国に支配される弱小国。そんなユダヤに遥々旅をしてきたのが東方の博士たちでした。
政治と経済の中心ローマに旅をすると言うのなら分かる。景色の良い地中海の島に旅をすると言うのも分かる。しかし、政治的にも経済的にも弱い国ユダヤ。有名な観光地もないユダヤに、彼らはどうして遥々旅をしてきたのでしょうか。博士たちの言うところを聞いてみたいと思います。

2:2「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

彼らは東の方、つまり自分たちの国で、その方、ユダヤ人の王として生まれた方の星を見たと言っています。
この星について、よく言われるのは、地球から見て土星と木星が重なって見える時に見られる特別な光ではないかと言うことです。天文学の計算では紀元前7年頃に、この現象が起こったとされ、キリスト誕生の時と合致します。
そして、日本語で博士と訳されたことばは星の研究をしていたが学者、賢者を意味していました。ですから、彼らはユダヤから見て東の国、こうした学者が重要な仕事をしていたとされるバビロンかペルシャの人で、旧約聖書が教える神様を信じ、そこに記された救い主の預言をある程度知り、信じ、待ち望んでいた人たちと考えられます。
じっさい、2:9,10を見ますとこうあります。

 2:9,10「彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」

 この星は博士たちの長い旅の先にたって導き、幼子のイエス様のいるところまで進み、その上でとまったと言うのですから、普通の星、普通の光ではありませんでした。聖書ははっきり書いていませんが、明らかにこの世界を創造した神様がこの星を用いて、彼らの旅を守り、導いたものと考えられます。
博士たちもそう信じていたからこそ、星を見て喜んだのでしょう。もし、この星の導きがなかったら、ベツレヘムにもイエス様と同じ頃に生まれた赤ん坊は多くいたはずですから、赤ん坊のいる家を一軒一軒訪ねなければならず、どの子が救い主であるか迷ってしまったことでしょう。
当時の状況を考えると、東方の博士たちの旅は大変な旅であったに違いありません。準備だけでも困難の連続だったでしょう。
博士とは星の観測、研究をして政治家の顧問などを務める重要な仕事。旅に出るためには長期の休暇が必要であり、その願いが簡単に認められたとは考えられません。また、長い旅を続けるための物資の準備や、盗賊から黄金、乳香、没薬という高価な贈物を守るためのガードマンを雇う必要もあったでしょう。
このような準備のためには、大変な時間と費用がかかったはずです。これ程の時間、労力、費用をかけて、危険を承知で東の国から遥々ユダヤまで旅をしてきた博士たち。彼らの心を動かしていたものは一体何だったのでしょうか。
この旅によって、彼らが経済的利益を得ることはありません。むしろ、失うものの方が多かったでしょう。また、政治的利益もありませんでした。博士たちがユダヤと言う弱小国と交流する価値は特に考えられません。さらに、宗教的な利益もなかったはずです。 博士たちはイエス様を神の遣わした救い主と信じていましたが、相手はまだ幼子。遥々旅をしてきた彼らのことを覚えていることなど期待できませんでした。
しかも、です。神様の預言のことばを与えられていた、いわば本家本元のユダヤ人たちは救い主誕生を知らず、王様へロデは幼子をライバルと思い、抹殺しようとしたと言うのです。

2:3~8「それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」」
 
 宗教の専門家は救い主の預言について知識はあっても、救い主誕生を信じていない。ヘロデ王が博士たちに「幼子のことが分かったら知らせて欲しい。私も行って拝むから」と語ったのは真っ赤な嘘で、本心は幼子の抹殺。本当にひどい有様でした。博士たちは、神の民ユダヤ人のこのような姿にどれ程がっかりしたことことか。
 しかし、それでも彼らの心は挫けることなく旅を続け、救い主をその目で見、心からの礼拝をささげることができたのです。念願の礼拝をささげ、喜びに輝くその姿を見てみましょう。

 2:11,12「そして、その家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈物としてささげた。それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。」

現在の私たちはこの幼子がイエス・キリストであり、何をしたお方かを知っていますから、遠くから礼拝しに来る人がいたとしても当然ではないかと考えます。しかし、当時の状況を思えば、これは本当に考えれば考えるほど常識を超えた旅、不思議な旅としか言いようがありません。
しかし、この点にこそ、マタイの福音書が東方の博士たちの旅を記録した意味があったのです。何度も言いますが、この旅の目的は約束の救い主を礼拝する、ただそれだけでした。「私たちは、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を拝みに、つまり礼拝しに来ました。」彼ら自身が語ったとおりです。
この世の常識から言えば何の利益もない旅。多くの時間と費用をかけ、危険を覚悟の上でなければ出来ない旅。その目的はただひとつ、幼子イエス・キリストを礼拝することのみ。それ以外の目的はなしでした。
しかも、これだけの時間、労力、費用を費やしてなしたことは、ただ一度イエス・キリストをひれ伏して礼拝し、感謝のささげものとして黄金、乳香、没薬をささげることだったのです。
 博士たちの為した犠牲と献身。これぞ礼拝。これを真の神礼拝と言わずして、他に何と言うのでしょうか。博士たちにとって、神様を礼拝することはこれ程の犠牲を払ったとしても、行う価値のあること。この世の富、地位、名声を守ることより、はるかに価値あることだったのです。
 現在の私たちよりもはるかに少ない神様のことばに基づいて救い主の誕生を知り、信じ、目に見える姿はユダヤの大工の幼子でしかなかったお方に、ただ一度の礼拝をささげるため、この様な犠牲を払った博士たちの礼拝。
それに比べると、彼らよりもイエス・キリストについてよく知ることのできる恵みを受けている私たちの礼拝は果たしてどうでしょうか。人生における最高に価値あるものとして礼拝を考えてきたでしょうか。いつのまにか、真実と熱心にかけるおざなりの礼拝を繰り返してはいなかったでしょうか。
私たちは、神様を礼拝するために旅をする必要はなくなりました。イエス・キリストが十字架に死に、復活をして、いつも私たちとともにいてくださるようになったからです。ですから、私たちはいつでもどこでも神様に近づき、礼拝することができるようになったのです。
これは、東方の博士たちに比べ大きな恵み、うらやましいほどの恵みです。しかし、そのような恵みの中にあるために、かえって礼拝が形式的で、心の真実に欠けるものとなってしまうことを覚え、彼らの礼拝からいつも教えられたいと思いますし、教えられる必要があると思います。
何故なら、聖書は、私たち人間は最初神様を礼拝するために造られたと教えています。と同時に、神様を離れた人間が神様ではないもので心満たそうとする者となったことを教えています。
お金、名声、快楽など、人によって心満たそうとするものは異なっても、心満たそうとするものに心奪われ、その奴隷になるという生き方は共通しています。
また、いわゆる神や仏を信じても、神仏からのご利益を求めて礼拝するということもあるでしょう。礼拝がご利益を得る手段としてしまうという姿です。
つまり、この世界を創造した神様、真の神様に背を向けた人間は、ただ神様を礼拝するだけでは、喜びや満足を覚えることができない存在となってしまったのです。
皆様はどうでしょうか。このことに同意されるでしょうか。自分の中にもその様な弱さがあることを認められるでしょうか。
実は、イエス・キリストがこの世界に生まれられたのは、そのような私たちを造りかえるためだったのです。神様を礼拝することを、この世の何よりも価値あるものと考え、生きる者、神様を礼拝することひとつで、人として最高の喜びで心満たされる者へと造りかえるためです。
博士たちが礼拝した幼子が、やがて私たちの身代わりに罪を背負い十字架に死なれたこと、三日目に復活したこと、そしていつも私たちとともにおられることを、聖書は事実としてそれを伝えてきましたし、今も伝えています。
今日の聖句です。

ヨハネ1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

私たちはイエス・キリストのなかに、神様による罪の赦しとその力からの解放と言う恵みを見ることができます。何度神様を離れ、そむいても、変わることなく私たちを愛し、ともにいて、私たちをあるべき生き方へ助け、導いてくださる神様のまこと、真実を見ることができるのです。

クリスマスは、このイエス・キリストの誕生を喜ぶ時です。この日を、いやこの日だけでなく人生のあらゆる日を、働くときも、食べるときも、病めるときも、健やかなときも、神様を礼拝する者、ともにいてくださる神様を喜ぶ者として生きてゆけたらと思います。