2014年12月28日日曜日

ルカの福音書11章33節~36節 「何を見るか」

 今年最後の聖日礼拝となりました。一年間、礼拝の歩みが守られた恵みを心から感謝いたします。
 年の瀬が迫ると多くの人が、時が経つのは速い、あっという間の一年だったと感想を漏らします。光陰矢のごとし。月日に関守なし。烏兎怱怱。歳月人を待たず。特にキリスト者である私たちは、十一月の終わりからアドベントを過ごし、先聖日にクリスマス礼拝、週の半ばにクリスマスを迎えたところ。目を回し、気が付いたら最後の聖日という印象。あっという間に今年の終わりが来ました。
 しかし、正反対の思いもあります。一年の間に多くのことを経験した。嬉しいことも、辛いこともあった。あっという間だなってとんでもない。あれも今年のこと、これも今年のことと、驚く気持ちもある。
 何故、あっという間という感想と、あれもあった、これもあったという感想と、両方持つのか。それは私がしっかりと一年を振り返っていないからだと思われます。自分はどのように生きてきたのか、振り返っていない。そのため、いつの間にか時間が経ってしまったという思いと、そういえばあんなこと、こんなことがあったという思い、両方が出てくるのです。
そして、それは決して良いことではありません。スケジュールをこなし、一年を終えることのないようにと願います。自分はどのように一年間生きてきたのか考える。起こった出来事の意味を考える。悔い改めるべきことは悔い改める、感謝することは感謝する時間を持ちたいと思います。

 一年の終わり、どのような思いで一年を振り返り、どのような思いで新たな一年を迎えたら良いのかを考えたく、今日は主イエスの言葉を聞きたいと思います。

 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 あかりをつけたら、穴倉や枡の下に置く者はいない。燭台の上に置く。入って来る人々に、光が見えるために。至極真っ当な言葉です。現代風に言えば、蛍光灯を部屋の隅や、机の下に備え付ける者はいない。部屋の中央、最も効果的な場所に設置する、となるでしょうか。もっとも、今より約二千年前の光と言えば、今の私たちが持つ光のイメージよりも、より貴重なもの。真っ暗闇の中、油に浸った灯心に灯る火のあかり。今より、光が光らしく、光がより貴く、意味が深い時代。あかりは燭台の上へというのは、当然も当然のことだったでしょう。
 このごく普通の当然の言葉が、聖書においてはお馴染の言葉。マタイの福音書にも、マルコの福音書にも出てくる。ルカにおいては、すでに八章で同じ言葉が出ています。イエス様がよく使われた言葉だったのでしょうか。
 どうも主イエスは「あかり」とか「ひかり」のイメージを用いるのが好きだったように思います。自分自身を指して「世の光」と言い、キリストを信じる私たちのことも「世の光」と言われました。

 それはそれとして、何故このようなごく普通の、当然のことを、イエス様が語られたのか。それは少し前の十六節、二十九節を受けてのことだと思われます。
 ルカ11章16節
「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」

 ルカ11章29節
「さて、群衆の数がふえて来ると、イエスは話し始められた。『この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。』」

 ここまでイエス様が約束の救い主であるしるしは、存分に示されていました。しかし、既に示されたしるしを見ようともしないで、「天からのしるし」を求めた者たちがいた。しるしは十分。そうだとすれば、見る者たちに問題があった。見ても見ない、聞いても聞かないという者たちを前に、イエス様が嘆かれた場面。
 つまり、見る者に責任があるという文脈の中で、今日のイエス様の言葉があると読めます。

 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 あかり、光として来られたキリスト。その活動、その言葉は隠されていたわけではありません。人々に見えるように明示されていた。それにもかかわらず、イエスをキリストと認めない者たちに対して、その責任はあなたにあるのだと切りつける言葉が続きます。

 ルカ11章34節
「からだのあかりは、あなたの目です。目が健全なら、あなたの全身も明るいが、しかし、目が悪いと、からだも暗くなります。」

 あかりは既に十分灯されている。それを見るのか、見ないのかは、私たちの責任。目が健全であれば全身も明るく、目が悪いとからだも暗いと言われます。ここで言われるからだとは、私たちの生き方、行動、人生のことでしょう。
私たちの人生が明るいものとなるのか、暗いものとなるのか。その鍵は私たちが何を見るのかだと教えられるのです。果たして私たちは何を見て生きてきたのか。

 見るべきものを見ない、見たくないとして生きる。その結果、人生の歩みが躓き、道を踏み外し、誘惑の穴に落ち込む。大怪我をする。目を開けないから、恐れ、不安がつきまとい、力まなくてもよいところで力を使い果たす。五里霧中の中で人生を生き、この地上の後がどうなるかも分からないまま生きてきた。
 それが、神の光を見た時から変わったのです。キリストの光を浴びた時に、自分を確かめることが出来た。自分はこの道を進むのだと人生の目的を見定めることが出来た。大先輩パウロが言っていた「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」(Ⅰコリント9章26節)という生き方が、私の生き方となった。
 見るべきものを見る時に私たちの人生は明るく、目を閉ざす時に私たちの人生は暗くなる。キリストに対してもっとしるしを見せよと言う者たちは、目をあけるべきだった。人生の暗さに嘆く者たちは、キリストに焦点を合わせるべきでした。

 ところで一旦見えたからといっても気をつけなければならない。再度、目を曇らせてしまう者もいる。せっかく頂いた内なる光を暗くすることのないようにと注意が飛びます。
 ルカ11章35節
「だから、あなたのうちの光が、暗やみにならないように、気をつけなさい。」

 今日、年の終わりの聖日。私たちは急いでいる足を一度止めて、一体自分は何を見てきたのか、よくよく考えたいと思います。私の心の目を、どこに焦点を合わせていたのか。自分の心はどこを向いていたのか。
お金か、名誉か、地位か、快楽か、趣味か。あるいは怒りや憎しみ、恐れや不安に押し潰されたことはなかったか。私たちの心は何に支配されていたでしょうか。私たちのうちの光が、暗やみとなる生き方ではなかったのか。

 今年の初め、元旦礼拝にてなされた山崎先生の説教を覚えているでしょうか。詩篇十六篇より、「いつも私の前に主を」という題での説教でした。まとめとして語られたことが、「聖書を通し、神様との関係の中で物事を考える」ということ。これはまさに、神の光に目を向けて生きること。
 あの元旦礼拝で決心したことに、どれ程真剣に取り組んできたのか。今朝、もう一度考えたいと思います。

 ところで、キリストに焦点を当てて生きることは、私たちの全身を明るくすると教えられ、また暗やみとならないように気をつけるよう注意を受けた上で、もう一度三十三節の言葉を見ますと、もう一つの意味が見えてきます。
 ルカ11章33節
「だれも、あかりをつけてから、それを穴倉や、枡の下に置く者はいません。燭台の上に置きます。はいって来る人々に、その光が見えるためです。」

 神様が私たちをあかりとして用いるとしたら、それは他の人々のため。あかりを自分のためだけのものとするのではなく、まわりの人々のためとする。自分だけ見えているので良しとするのではなく、人々にも、隣人のためにも。あかりである私たちは隠れるのではなく、人々を照らすために生きるようにとも教えられます。
 今日の最後の言葉は、まさにそのことを教える言葉として読めます。

 ルカ11章36節
「もし、あなたの全身が明るくて何の暗い部分もないなら、その全身はちょうどあかりが輝いて、あなたを照らすときのように明るく輝きます。」

 人のうちに灯った光が、その内側から輝き出す。何とも面白い表現。内に灯った光が輝き出して周りを照らすとは、私たちでいえば提灯のイメージでしょうか。クリスチャン提灯説とは面白く聞こえます。キリストを信じた者はどうなるのか、提灯となるとの答え。それも格好つけた表現が許されれば、キリストの十字架の紋入り提灯。足元を照らすだけでなく、隣人を導く提灯。
思い出されるのは、山上の説教で語られたキリストの言葉です。
 マタイ5章14節~16節
「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」

 ところで、「キリストに頂いた光を煌々と照らして生きた人」と言うと、誰を思い出すでしょうか。あの人、この人と多くの人を思い出せる人は幸いです。聖書の中に、この点できわめつけの人がいます。キリストを指し示す働きをしたバプテスマのヨハネ。提灯どころか燃え盛る松明のように、イエス様に評されていました。
 ヨハネ5章33、35節
「あなたがたは、ヨハネのところに人をやりましたが、彼は真理について証言しました。・・・彼は燃えて輝くともしびであり、あなたがたはしばらくの間、その光の中で楽しむことを願ったのです。」

 さすがはバプテスマのヨハネ。イエス様をして、「燃えて輝くともしび」と評される栄誉はヨハネならではのもの。とはいえ、私たちもヨハネに続く者でありたいのです。あかりは燭台の上に。人々に見えるために。世の光として召された私たちは、ひたすらにキリストに焦点を合わせて、生きていきたいのです。

 以上、ルカの福音書よりイエス様の言葉を確認しました。教えられたことをまとめて、終わりにいたします。
 教えられ一つ目のことは、全身が明るいか、暗いか。私たちの歩み、私たちの人生が明るいか、暗いかは、何を見ているのかによっていること。この一年の終わり、自分の歩みを振り返る時、自分は何を見て生きてきたのか。心の目はどこに焦点を合わせていたのか。自分の心を支配していたのは、どのような思いなのか。もう一度確認したいと思います。是非とも、しっかりと時間をとり、一年の歩みを振り返ることをお勧めいたします。キリストから目を離していたことを悔い改め、キリストに焦点を当て生きた際に抱いた恵みに感謝する時を持ちますように。それも、一人で取り組むのではなく、教会の仲間とともに、あるいは家族で取り組むのが良いと思います。

 教えられた二つ目のことは、私たちが光を見る時に、私たちの内なる光も輝くということ。 先週、私たちは世の光として来られたキリストの誕生を祝いました。キリストの到来は何のためだったのか。それは私たちを世の光とするため。私たちを輝かすためでした。
私たちは、世の光として生きることに取り組むのです。それは自己鍛錬して道徳的な生き方を目指すのではなく、ひたすらにキリストを見続ける生き方に取り組むということです。キリストを見続ける、キリストと共に生きる、全てのことをキリストとの関係で受けとめる。その時、私たちは光輝くのです。
 暗い世界にあって、私たちは光輝く存在として生きる。キリストの提灯として生きる。それも独りで小さく光るのではなく、あちらにも、こちらにもあかりが灯されている。北に南に、東に西に、キリストの十字架を浮かびあがらせながら、生きる決意を持ち、新たな年を迎えたいと思います。

2014年12月21日日曜日

クリスマス礼拝 ヨハネの福音書1章14節~18節 「生誕~ことばは人となって~」

 皆様クリスマスおめでとうございます。これまでの待降節、私たちはキリストの到来を待ち望む者の生き方について考えてきましたが、いよいよクリスマス礼拝となりました。今日は、神が人の肉体をとった、このことに焦点をあてて、キリスト降誕と私たちの人生の関係を考えてみたいと思います。
先ず、これまで読み進めてきたヨハネの福音書から、聖書の基本的なふたつの教えを確認します。ひとつは、この世界と私たち人間は偶然の産物ではない。父なる神様と子なる神、イエス・キリストの愛から創造されたということです。ふたつめは、人間が神様に背いたことにより、人間の社会も心も罪と言うやみにおおわれてしまったことです。
現代の日本では、自ら命を絶つ人が年間三万人を越え続けています。物質的には最も満たされている国のひとつでありながら、多くの人が生きる意味や目的を見失っていると思われます。
また、善と分かっていることを実行できず、かえって願わない悪を行ってしまう心のもろさ。相手のために100%の善行をすることができず、どこかで自分の利益を考えてしまう心の不純さ。これをしたら相手は苦しむと分かっているのに、あえて悪を選び実行する心の邪悪さ。私たちひとりひとりの心は今もやみにおおわれ、親子、夫婦、兄弟、隣人同士、国対国に至るまで、様々な争い、対立はやむことがありません。
今からお読みしたいのは、今から二千年前、イエス・キリストが生まれた時代、ローマの社会について、使徒パウロが書いたことばです。今の時代の世界と比べてみてどう思われるでしょうか。

ローマ1:28~32「また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。」

 二千年前に比べ文明が進歩したことは、誰もが認めるでしょう。車、飛行機、高層ビル、医療、教育、福祉、インターネットなど、人間の生活は格段に進歩。はるかに便利、安全になった気がします。しかし、果たして私たち人間の心は進歩しているでしょうか。物質的に豊かな社会で、心満たされている人はどれほどいるのか。安全なシステムはあっても、心から安心して暮らしている人はどれほどいるのか。むしろ、二千年前の人間社会の道徳的混乱は今さらに深刻になってはいないかと考えさせることばです。
 そして、「彼らが神を知ろうとしたがらないので」とあるように、私たち人間がこの世界を創造した神様と正しい関係にないことが、混乱と悲惨の原因と、聖書は語ります。
 様々な文明の進歩によっても取り除かれることはなかった、人の心と社会をおおうやみ。むしろ、さらに深くなってきたやみ。救い主はこの様なやみのなかに来たと聖書は告げています。

 1:14a「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」

 ことばとは神のひとり子、イエス・キリストのこと。神のひとり子が私たちの間に住まわれたと言うのです。この「住まわれた」と言うことばは「天幕、テントを張って住む」と言う意味で、旧約聖書の時代は神様がそこにおられる場所、会見の天幕を指していました。
 この世界を創造した神様が人間の肉体をとる。この奇跡をどう説明したら良いか、非常に迷うところです。
何年か前、アメリカバスケットボール選手に、マイケル・ジョーダンというスーパースターがいました。ジョーダン選手がある時、小さな子どもとバスケットをするため幼稚園にやってくる様子をテレビで放映されていたのです。
ジョーダン選手対10人の子どもで試合をしていたのですが、勿論、たとえ相手が10人でも小さな子供相手にジョーダン選手が普段通りにプレーしたら、バスケットになりません。そこで、ジョーダン選手は立って走ることができないよう、しゃがんでカニのように歩く。ジャンプも禁止。ドリブル一つで子どもたちの間を進んでシュートまで持ってゆくことになります。
つまり、ジョーダン選手は持てる能力を自ら制限すると言う、非常に不自由な状態でバスケットをしなければならなかったわけです。しかし、そんな不自由を忍耐しながらも、ジョーダン選手は子どもたちとのバスケットを心から楽しんでいる様に見えました。
人となった神のひとり子。イエス・キリストも同じです。石をパンに変えることのできるお方が飢えや貧しさを味わい、一瞬で悪口を言う人間の口を塞ぎ、暴力をふるう人の手を止めることのできるお方が、その力を行使せず、苦難を受けられたのです。一体、何のためだったのでしょうか。

へブル4:15「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」

私たちが人間として味わう肉体の苦しみ、心の苦しみ。それらを心から理解し、同情の思いを持つため、イエス・キリストは自ら人間となり、身をもって様々な試みを受けられたと言うのです。
また、もう終了まじかと思いますが、今年の大河ドラマ「黒田官兵衛」で、官兵衛が織田信長の味方となることを約束、決して裏切らないその証拠に、我が子を織田方の家来秀吉の家に送り、住まわせるという場面があったのをご覧になった方はあるでしょうか。戦国時代にはよく行われていたこととは言え、まだ小さな男の子が死を覚悟して、我が家を離れ、他の家に移り住むと言う姿には、心打たれた記憶があります。
神のひとり子は、何故非常に不自由な人間の体をとられたのか。何故わざわざ自分を歓迎せず、むしろ苦しめる人々のいるユダヤの国に移り住むことを決意し、実行されたのか。それは、本当に一人の人間として生きるため、本当に私たち人間の仲間、人間の味方となるため。つまり、神様の本気の愛を示すためだったのです。
そして、救い主の到来を歓迎しない人々がいたのは事実ですが、他方これを受け入れた人々もいました。この福音書の著者ヨハネを始め、それらの人々が感じたことが、以下に記されます。

1:14b「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

「私たちはこの方の栄光を見た」とあります。肉体をとられたイエス・キリストの中に、神のひとり子の栄光、素晴らしさをこの二つの眼で見た。その栄光とは恵みとまことに満ちた生き方でよく分かると教えられます。
恵みとは、弱き者、苦しむ者、悩む者に対する慈しみ、優しさです。聖書を見ると、荒々しい漁師も、人々から嫌われていた収税人も、当時としては非常に珍しいことですが、女性たちも、イエス・キリストの弟子には様々な人々がいました。さらに、イエス・キリストがそこにいると子どもたちも近づいてきましたし、学者、宗教家もやって来ました。イエス・キリストと言うお方は、年齢、性別、職業、肩書などをこえて、あらゆる人にとって近づきやすい人、気の置けない人、親しみを感じる人であったようです。
また、まことというのは、天の父に対しても人に対しても、真実を尽くすと言う、イエス・キリストの行動、生き方を意味します。裏切りの弟子ユダのことを最後まで愛し続け、ユダヤ人指導者からどんなに罵られても罵りかえさず、十字架の死と言う苦難を最後まで受けとめられたお姿。イエス・キリストの行動のどこを切っても、そこには真実の愛が詰まっていたということです。
もし、イエス・キリストが地上の王として来られたら、私はその権力を恐れて従うことはあったかもしれませんが、心から従うことはなかったと思います。もし、イエス・キリストが大金持ちとして来られたら、私はそのお金に心惹かれて仲間の一人になったかもしれませんが、本当に親しい仲間にはなれなかったと思います。もし、イエス・キリストが次々に奇跡を行ってみせる宗教的カリスマとして来られたら、私はその力を恐れ平伏したかもしれませんが、近づきやすいとは到底感じなかったと思います。
神の子がごく普通の人間として生まれたこと、権力でも、富でも、権威でもなく、ただ恵みとまことに満ちた生き方を通して、私たちの心を神様に向けてくださったこと。このことを心に刻んでおきたいと思います。
次に登場するのは、イエス・キリストの前に現れ、イエス・キリストを人々に紹介したバプテスマのヨハネの証言です。

1:15「ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」

ヨハネは最後の預言者。罪の悔い改めを説くその説教は、ユダヤの国全体に大きな影響を与え、当時最も尊敬された人物です。そのヨハネが「私のあとから来る方は、私にまさる方。私より先におられた、つまり永遠の神であるから」と叫んだのです。このヨハネのことばによってイエス・キリストを信じる人々もいました。
さらに、証言は続きます。

1:16、17「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。」

イエス・キリストと、直に触れ合った弟子たちの思いが響いてくることばです。キリストとともに生活した彼らは、恵みの上にさらに恵みを受けたと言うのです。喜びの時には喜びを倍にしてくれる恵み、病の時には慰めの恵み、悩む時には励ましの恵み、気落ちした時には力の恵み。折に触れ、様々な形の恵みをイエス・キリストから受け取ってきた弟子たちの歩みを思い浮かべたいところです。
また、律法とは、旧約聖書の戒めや儀式のことです。旧約聖書の時代、神様は戒めや儀式を通してご自身の恵みについて人々に教えてきました。しかし、キリスト誕生とともに、私たちはイエス・キリストにより、神様の恵みとまことを直に受け取ることができるようになったのです。
そして、単なる宗教の教師ではない、賢人でも権力者でもない。いっしょにいるだけで、私たちを造り変え、本来の人間が生きるに価する命を与えてくださるお方。この人を見、この人と接していたら、誰もが神様を知った喜びに満たされるようなお方のことを、最後にヨハネはこう紹介しています。

1:18「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

最後に、今日の箇所から私たちが考え、実践すべきことを二つ確認しておきたいと思います。ひとつは、この世界を創造した神様からのプレゼントしてイエス・キリストを受け取ると言うことです。
皆様は、大切な人のためにクリスマスプレゼントを贈ったことはあるでしょうか。その人のために何が良いかを考え、苦労して見つけ、心を込めて贈ったプレゼントを、相手が拒絶したとしたら、これ程悲しいことはありません。
太陽に水、それに大地。多種多様な植物に動物。私たちの生命を支える自然環境は神様からの贈り物です。大切な家族、友、隣人。社会において果たすべき様々な仕事やそれをなすための健康な体や能力。これもまた神様からの贈り物。しかし、神様が最も苦労し、心を込めた贈り物、それは人となられたイエス・キリストご自身です。
ですから、最も神様をがっかりさせ、悲しませる私たちの行いとは、イエス・キリストを拒むことと言えるでしょう。キリストを受け取らないことは、「私には神様の愛が必要ありません。自分の力でこの人生をやってゆきます。やってゆけます」と言う高慢な態度を意味します。高慢こそ神様が最も嫌われる罪、最大の罪でした。
そして、神様の愛が必要ないと思い、イエス・キリストを断った人は、神様の愛の全くない世界、地獄で永遠に生きることになりますし、神様の愛が必要と思い、キリストを受け取った人は、神様の愛が満ちる世界、天国で永遠に生きることになると、聖書は教えています。
イエス・キリストに対する態度が、私たちの永遠の運命を決める。このことを覚え、イエス・キリストに対しどのような態度をとるべきか考えたいと思います。
ふたつめは、イエス・キリストを心に受け取ることを決めた方々には、実際に日々イエス・キリストと共に歩む人生、イエス・キリストと交わることを第一とする人生を送っていただきたいと思います。
「朱に交われば赤くなる」ということばがあります。私たちはよく交わる人あるいはものから大きな影響を受ける存在だと言うことです。
私たちは物質やお金を第一としてこれと交わるなら、物質やお金の奴隷に、快楽を第一としてこれと関わるなら、快楽の奴隷に、会社を第一としてこれと関わるなら、組織の中の小さな歯車のように、自分を感じることでしょう。いずれも、自分の存在価値を感じることのできない、非常に惨めな状態です。
しかし、イエス・キリストと交わることを第一とする時、私たちは、この世界を創造した神様にとって非常に尊い存在であることを感じながら、日々歩むことができるのです。物質やお金の奴隷ではなく、快楽の奴隷でもなく、意味もなく働き続ける機械でもない。神のひとり子がこの世に生まれてくださるほどに愛され、尊ばれている人間として生かされていることを喜びながら、この礼拝に集う私たちみながこれからの日々歩むことができたらと思います。今日の聖句を読みましょう。

 1:14「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」

2014年12月14日日曜日

ヨハネの福音書1章6節~13節 「アドベント(3)~すべての人を照らす光~」

 皆様は日本人初のクリスマスがいつ行われたのか、ご存知でしょうか。これが意外にも古く、戦国の世であったことに驚かされます。1566年12月25日、敵対する三好家と松永家のキリシタン武士が、町の広間に集まり、礼拝をささげ、お互いに持ち寄った料理で招きあい、交わりをなしました。その様子は、まるで同じ国王の家臣であるかのように、大いなる愛情の礼儀を尽くす楽しいものであったと記録に残されています。
平和の君であるキリスト到来の意味を覚え、ひと時武器を捨て、愛の交わりをなす。今では想像も及ばない戦いに明け暮れる非常に厳しい時代、クリスマスの意味を心に留め、それを実践した先輩クリスチャン達の見事な証しではないかと思います。
今、私たちはアドベント、待降節の礼拝をささげて過ごしていますが、私たちもまた彼らと同じく、キリストの到来が自分自身の生き方にどのような意味があるのかを考え、それを実践する者でありたいと思います。
先回はヨハネの福音書冒頭より、イエス・キリスト、救い主を待ち望む者の生き方について考えましたが、先ず確認しておきたいのは、この世界は、神様の愛によって創造されたということです。

1:2、3「この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」

この方とはイエス・キリストのこと。イエス・キリストは世界が創造された「初めに神とともにおられた」とありますが、これは、永遠の昔から、イエス・キリストが父なる神様と愛の交わりをもっておられたことを意味します。
そして、父なる神様との愛の交わりの中にあったイエス・キリストが、すべてのものを造られたと言うのです。たまたまでも、偶然でもない。この世界と私たち人間は、イエス・キリストと父なる神様の愛によって創造されたもの。神様の眼から見て、この世界も私たち人間も非常に尊いもの、価値ある存在だと言うのです。
特に、神様によって創造された命の中でも、人間の命は特別製。私たち人間は、神様と親しく交わることのできる命を与えられました。しかし、神様に背いた人間は、この命を失ってしまう。その結果、人間の心を罪と言うやみが覆うようになったと、聖書は教えています。
先回は、心をおおうやみとして、三つのことを考えてきました。頭では正しいと分かっている善を実行できず、かえって願わない悪を行ってしまう心のもろさ。動機まで含めて100%の善行ができない、どこかで自分の利益を考え、求めてしまう心の不純さ。あえて悪を選び、悪を喜ぶ心の邪悪さ。そして、この心のやみは深く、私たちはどんなに努力しても、これを心からきれいに追い払ってしまうことのできない存在ではないかと言うことも考えたのです。
しかし、光であるイエス・キリストは、この心のやみに来てくださるお方であると、聖書は語ります。イエス・キリストこそ真の光として、私たちが対抗できない心のやみに打ち勝つことのできる救い主と教えられるのです。
しかし、神様は用意周到なお方。いきなり、真の光をこの世界に送ったなら、やみの中に住む人間には眩しすぎて、よく見ることができないのではと配慮し、先ずヨハネと言う人を遣わしました。

1:6~8「神から遣わされたヨハネという人が現われた。この人はあかしのために来た。光についてあかしするためであり、すべての人が彼によって信じるためである。彼は光ではなかった。ただ光についてあかしするために来たのである。」

ヨハネはイエス・キリストと年齢の近い親戚のひとり。誰よりも先に、イエス様がキリスト救い主であることを理解し、罪の悔い改めを説いて、人々の心をキリスト到来に向けて準備させた人物です。
最後の預言者とも呼ばれるヨハネの人格と行動は人々に大きな影響を与えました。ヨハネのもとにはユダヤ全国から人々が押し寄せ、罪の悔い改めの洗礼を受ける人も多数。イエス様も、「女から生まれた者の中で、ヨハネよりも偉大な者はいない」と語り、ヨハネに対する心からの尊敬を隠そうとはなさらなかったのです。
この様なヨハネが、「私の後から来る方は、私よりもはるかに偉大な方。神から遣わされた救い主」と紹介したからこそ、人々の眼はイエス様に向けられたと考えられます。まさに、ヨハネは光なるイエス・キリストについて証しする役割に徹した人物でした。
イエス・キリストの前に、ヨハネを置いてくださったのは、人間に対する神様のご配慮だったのです。
しかし、もし心の眼が正常に機能していたなら、イエス・キリストが到来する前であっても、私たち人間に光の存在は見えたはずとも聖書は語ります。

1:9,10「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。」

「この方、イエス・キリストはもとから世におられ、世はこの方によって造られた」とある通り、イエス・キリストの存在とその愛は創造された作品によって示されてきたのです。美しく豊かな大自然。水、光、様々な元素。それらが巧みに設計され、生命を守るシステムとして機能している大自然と言う環境。多種多様な生命の存在。驚くべき人体の構造。人間の知恵によっては何一つ作りだすことのできないこれらのものは、無言のうちに、私たちに対するイエス・キリストの愛を示してきたのです。
それなのに、世はこの方を知らなかったとは残念なこと。この現実を、毎日毎日お母さんが作ってくれるご飯を通して、お母さんの愛を受け取ることができなくなった子どもに譬えることができるかもしれません。神様は太陽を上らせ、雨を降らせ、大地に食物を実らせ、日々私たちを養ってくれているのに、人間ときたら神様の愛どころか、その存在すら認めてこなかったのです。
それでは、せめて神様が選ばれた民、ユダヤの人々はイエス・キリストを受け入れたのかと言うと、何と彼らは拒絶したのです。

1:11「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」

ご自分の国とはユダヤ、ご自分の民とはユダヤ人のこと。彼らは神の民として選ばれ、みことばを与えられ、神様のこと、神様の遣わす救い主のことについて、特別丁寧親切に教えてもらったはずの人々でした。それが、こともあろうに肝心要の光として来られたイエス・キリストを拒み、苦しめたのです。
何故でしょうか。イエス・キリストに心のやみがあることを指摘され、反発したからと考えられます。その典型的な姿を、パリサイ人と収税人の祈りという、イエス・キリストのお話が描いていますので、見てみたいと思います。

ルカ18:9~14「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」

祈るために宮に上った人のうちひとりはパリサイ人。人を強請らず、不正をせず、姦淫をなさず、むしろ人並み以上に断食に励み、ささげものをする品行方正な紳士でした。しかし、よくその祈りのことばを聞いていると、この人の心のやみが見えてきます。
第一に、行いは正しく、道徳的でしたが、その心の奥底にある思い、願い、欲望における罪に気がついていないように見えます。パリサイ人は確かに人を強請ることはなかったでしょう。しかし、人のものを欲しがったことはなかったのか。確かに不正な行いをしたことはなかったでしょう。しかし、一度も不正な行いに心が動いたことはなかったのか。確かに姦淫を実行したことはなかったでしょうが、心の中で情欲をもって異性を見たことはなかったのか。
ヴァレリーと言う人が言っています。「もし、これまで自分が心の情欲のまま、姦淫を実行していたら、町中が妊婦であふれていたことだろう。」パリサイ人の眼は外面的な行ないにとどまり、心の奥底のやみを見てはいなかったのです。
第二に、パリサイ人は隣にいる収税人を意識して、「ことにこの取税人のようではないことを、感謝します」と言い放ちました。人を見下し、馬鹿にしていたのです。その様に感じられる自分の生活に満足していたのです。しかし、光なるイエス・キリストは、隣人を見下すこと、馬鹿にすることは、心の中の殺人と断じました。
この世においては、パリサイ人の如く心の中で人を見下したからと言って、さばかれることはありません。しかし、収税人のように姦淫の罪を犯したら、何らかの社会的な罰を受けるか、非常に厳しい目を向けられることになります。
しかし、聖なる神様の眼から見るなら、心の殺人も、実際の姦淫も、等しくさばきに価する罪であることに変わりはありません。つまり、この人は世間の目は意識しても、聖なる神様の眼を意識することはなかった人だったのです。
第三に、パリサイ人は、自分の行いを神様の前で自慢していました。「私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。」ただ神様に対してなすべき断食を、自慢の種とする。ただ神様に心を向けてささげるべきものを、見せびらかす。それがこの人の生き方でした。
心の中に湧き起こる卑しい思いや願望。隣人を見下すこと、自慢、高慢。しかも、これら心の罪を自覚せず、自分の道徳的な生き方に満足していたパリサイ人。この人は、自分の心のやみに気がつくことはなかったか、或いは気がついても、それほど深いものではないと感じていたのでしょう。
それに対して、収税人は目を天に向けようともせず、ただ胸をたたいて神様のあわれみを求めるのみ。自分の行いのひどさ、また、心の中のひどさ、やみにも気がつき、これを悲しみ、心から神様の助けを必要と感じている人の姿です。
ここに二種類の人がいることが分かるでしょうか。ひとりは、心のやみを自覚せず、自分の努力や行いに信頼する人、パリサイ人。もうひとりは、心のやみの深さを認め、悲しみ、自分に頼らず、ただ神様に信頼する人、収税人です。皆様は、自分がどちらの人に似ていると思われるでしょうか。
光の役割はやみを照らすこと、やみの深さを明らかにすることです。同じ太陽の光に照らされて、煉瓦は固くなり、氷は柔らかくなります。煉瓦と氷とでは光に対する反応が異なるのです。光なるイエス・キリストに照らされて、心を固くし、イエス・キリストを拒む者とならぬように。むしろ、心柔らかくして、イエス・キリストを信頼する者になりたいと思います。
さらに、です。キリスト到来の意味は、私たちが心のやみを自覚することにとどまりません。キリスト到来により、誰もが神の子どもとなることが可能となったのです。

1:12,13「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

普通、私たちは自分が誰の子どもとして生まれるのか、選択することはできません。しかし、イエス・キリストがこの世に来たことにより、誰もが神の子どもとして生まれるかどうかを考え、選択することができるようになったと、聖書は教えています。
そして、神様の子どもとなることは、神様を天の父として生きること。私たちが失った人間本来の命、神様と親しく交わることのできる命を回復することです。イエス・キリストを受け入れ、信じる人は、人間として生きるべき命、最も幸いな命を取り戻すことができる。この様な特権、恵みを皆様は自覚しているでしょうか。
しかも、心のやみを自覚することも、イエス・キリストを知る知識も、信仰も、神の子どもとなると言う願いも、すべて神様が備えてくださった恵みによると言われると、返す言葉が見つかりません。正に至れり尽せり。神様のご配慮に感謝したいと思います。
最後に、イエス・キリスト到来の恵みを私たちの生活に生かすため、二つのことを確認します。
ひとつは、私たち皆が、神様の子どもであることを自覚し、意識しつつ、行動する者でありたいということです。人間の考え方や行動に最も大きな影響を与える者の一つは、アイデンティティーと言われます。自分を何者と考えるかと言うことです。
私の場合でしたら、日本人、四日市キリスト教会の牧師、山崎家の子どもの父親、妻聖子の夫など、様々なアイデンティティーがあります。どれも大切なものばかり。これらを意識する時も、殆ど意識しない時もありますが、私の考え方や行動はこれらのアイデンティティーに大きく影響されています。
今日、ヨハネの福音書が私たちに勧めているのは、イエス・キリストを信じる者は、神様の子どもというアイデンティティーを最も大切にして生きるということです。自分はこの世に生きていようがいまいが、どちらでもよいと言う様な者ではない。この世界を創造した神様に愛され、認められた神様の子どもである。常にこの点に心を向けて、考え、行動する者でありたいと思います。
ふたつ目は、神様の愛を、日々しっかりと受け止める生き方を実践したいと言うことです。人生には晴れの日もありますが、雨の日も嵐の日もあります。家族の病が回復した。仕事で成功した。経済的に満たされた。神様の愛を感じられる日もありますが、そうでない日も多いと思います。
大切なのは、神様の愛を感じられる出来事があった日も、そうでない日も、みことばを通して、神様の愛をしっかり受け取る時間をとることではないでしょうか。その時、心の眼開かれて、それを受け取るに価しない私たちが、神様からいかに多くの良いものを受け取っているかが見えてくるのです。
食べる物、着る物、住む家。健康。大切な家族、信仰の友、神様と交わることのできる人間本来の命。あって当然と考えていたものすべてが、実は神様から子どもである私たちへの贈り物であったことに気がつき、感謝する時間を持つ。私たち皆が、この様な歩みを日々進めてゆけたらと思います。

2014年12月7日日曜日

ヨハネの福音書1章1章~8節 「アドベント(2)~やみの中に輝く光~」

 2014年が始まりまして早くも一ヶ月が終わろうとしています。あっという間の一ヶ月。皆様はどのようにこの一ヶ月を過ごしたでしょうか。
 礼拝説教は山崎先生との分担で、年初めの五回の説教で、信仰の基本的な事柄を確認しているところです。一年のうち一回は、礼拝説教で信仰の基本的な事柄を確認したいと考えたのですが、それならば、年の初め、気持ちを新たにした時が良いと考えてのことです。一回目が礼拝の中から主に賛美。二回目が礼拝の中から主に献金。三回目が伝道。四回目が交わり。五回目は賜物を用いることが扱われます。今日は第四聖日。交わりに焦点を当てて考えていきたいと思います。

 ところで皆さまは教会での交わりが好きでしょうか。お互いのことを知り合い、教会の仲間とともに過ごすことがとても好きという方。特に用事があるわけではないけれども、教会で仲間との時間を大切にしたいという方。いらっしゃると思います。教会の仲間と良い関係を持ち、その交わりが本当に楽しい、嬉しいと感じられるとしたら、それは本当に大きな恵みです。
しかし、教会での交わりが苦手という方もいらっしゃると思います。一人でいる方が居心地が良い。他の人にどのように思われるのかとても気になる。これまでクリスチャンの交わりの中で傷ついたことがある。あるいは、他の人を傷つけてしまい、また同じことをしてしまうのではないかと恐れている。
 信仰生活、教会生活が長くなると、交わりの喜びと、交わりの難しさ、その両方味わうのが一般的だと思います。交わりが楽しいと感じる時もあれば、交わりが怖い、教会での交わりを避けたくなる時もあります。

 私もこれまでの信仰生活の中で、教会の方にひどく傷つけられたと感じたことがあります。そのような時は、その人の顔を見て、悪い感情が出てくるのが嫌で、あまり教会にいたくないと感じました。あるいは、自分の発言や行動で、教会の方をひどく傷つけてしまったこと。自分のあまりの未熟さに、他の人と関わらない方が良いのではないかと考えたこともあります。皆さまはそのような経験があるでしょうか。
 交わりを避けたい。交わりを望まないという時。神様を信じるだけで十分ではないか。聖書を読み、祈る時間を充実させれば良いではないか。教会の人と顔を会わせるのは礼拝の時だけで良いではないか、という思いが沸き出てきます。
このような思い。交わりを避けたい、交わりを望まないというのは、極少数のクリスチャンしか味わうことがないのかと言えば、そうではありません。聖書が記された時代にも、交わりを避ける人がいました。交わりを避ける人たちには、それぞれ事情があったと思いますが、それでも聖書は明確に交わりの重要性を訴えていました。

 ヘブル10章25節
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」

 集まることをやめないように。キリスト者の交わりをやめないように。信仰生活を一人で送らないように。共に生きることに取り組むように。今日は、キリストを信じる者が交わりを持つことの重要性を再確認したいと思います。

 なぜキリストを信じる者にとって、交わりが重要なのか。聖書から色々と理由を挙げることが出来ます。
 私たちの神様は三位一体の神様。ご自身の中で完全なる愛の交わりがある方。そのような表現は聖書にないのですが、敢えて言えば私たちの神様は交わりの神様です。その神様が私たちをつくられた時、このように言われていました。
 創世記1章26節
「そして神は、『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。」

 交わりの神様が、ご自身に似せて私たちをつくられました。それはつまり、私たちも交わりの中で最も自分らしく生きることが出来る存在と言えます。エバがつくられる前。アダム一人の時に、神様は「人が一人でいるのはよくない」と言われていました。私たち人間は、もともと交わる存在。交わりは、私たちの本質と関係がある。創造の御業と深く結びついているのです。

 ところが人間が罪を犯し、堕落した結果、神様との関係は断絶し、人間同士の関係も壊れました。罪の恐ろしさは、交わりが壊れる点にあります。交わる存在としてつくられた私たちが、交わることが出来ない者となった。つくられた目的から外れたのです。
イエス・キリストは私たちを罪から救う方。この罪からの救いを交わりという点で見るならば、関係の修復、和解という意味です。パウロが次のように言っています。
 エペソ2章14節~15節a
「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」

 キリストの救いの御業は、交わることが出来なくなっていた者が、あるべき交わりが出来る者へと変えられる、と言うことも出来ます。交わりは、救いの御業と深く結びついています。

 また救われた者の歩みを考えた時にも、交わりの重要性を挙げることが出来ます。救われた者は一人で生きるのではない。教会として、救われた者の集まりで生きていくことが教えられていますが、その教会は次のように表現されていました。
 Ⅰコリント12章27節
「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 教会はキリストの体。キリストを信じる者たちは、各器官とするならば、交わらないということを考えられていない。交わりの中でキリスト者として生きていくことが前提となっている言葉です。交わりは、教会の本質と深く結びついています。

 交わりがなぜ重要なのか。創造論からも、救済論からも、教会論からも考えることが出来ます。それはつまり、神様は、私たちが交わる者として生きるよう、強く願っておられるということ。神様の目標は、私たちキリストを信じる者たちが聖書的な交わりを持つことです。この神様の思いを受けとめて、私たちも互いに愛することに取り組みたいと思います。

 それでは、聖書が教える私たちのあるべき交わりの姿とは、どのようなものでしょうか。実に多くの具体的な教えが聖書に記されています。今日はいくつか確認していきたいと思います。
 Ⅰテサロニケ5章11節
「ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。」

 聖書的な交わりとは何か。ここでは「互いに励まし合う」ことが教えられています。互いに励まし合う。
これまで教会に来る時に、教会の仲間を励まそうと思って、来たことはあるでしょうか。礼拝の時、近くに座っているあの方を励ましたい。ともに奉仕をしているあの方を励ましたい。最近辛い思いをされたあの方を励ましたい。
どのようにしたら励ますことが出来るのか。よく考え、準備して教会に来るということに取り組みたい。心も体も疲れ、信仰面でも衰えている時。教会の仲間と過ごせば、元気になれる。そのような教会として、歩みたいのです。
 昨晩この説教を作りながら、私もこの御言葉に従いたいと思い、取り組むことにしました。どの方を励ますのが良いのか。少し悩みましたが、礼拝の司会の長老を。どのように励ませば良いのか。司会の奉仕をして下さることへの感謝を手紙にして書きました。取り組んでみて分かったのは、励ましたいと思い取り組むことは、私自身にとって喜びであるということ。励まされることだけでなく、励まそうとすることも喜びでした。是非、私たち皆で、「互いに励まし合う」という交わりを味わいたいのです。

 あるいは次のような箇所もあります。
 ローマ12章10節
「兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。」

 昨年度の年間聖句。ここで勧められる聖書的な交わりは、「互いに尊敬する」ことです。「あながた尊敬する人は誰ですか?」と問われたら、誰を思い浮かべるでしょうか。通常、尊敬するというのは、意識せずにすること。自分が考える尊敬出来る条件に合う人を、尊敬します。
しかし、キリストを信じる者の交わりにおいては、尊敬は意識的であり、決意的です。年齢も性別も国籍も関係ない。社会的立場も学歴も関係ない。教会でどのような奉仕をしているのか、クリスチャンになり何年なのかも関係ない。何が出来るからでもなく、何かをしたからでもなく、神様が愛している存在だから尊いとして、心から敬う。そのように、相手の人格を尊ぶ関係を築くことが出来たら、どれほど良いか。
 私自身、この御言葉にも従いたいと思い、教会の皆さまを尊敬する決意をもって今日来ました。もし私が偉ぶっている姿を見かけた時は、注意して頂きますようお願いいたします。

 また次のような箇所もあります。
 ローマ15章14節
「私の兄弟たちよ。あなたがた自身が善意にあふれ、すべての知恵に満たされ、また互いに訓戒し合うことができることを、この私は確信しています。」

 聖書的な交わりの一つのあり方。それは互いに訓戒すること。先に確認したように、私たちは互いに尊敬することが求められている。しかし、ともかく尊敬すればそれで良いというのではない。間違いがあれば正すこと。互いに訓戒することも聖書的な交わりなのです。
皆さまは、教会の仲間が悪に走ろうとする時、気付くでしょうか。気付いたとして、戒めることが出来るでしょうか。あるいは、その戒めを素直に聞くことが出来るでしょうか。
 昨年十一月にアメリカ研修に行った教会でのこと。男性の小グループで、互いに訓戒することの良い例を聞きました。ある男性が出張に行った際、ホテルでパソコンをつなぎ、卑猥なサイトを見たいと思ったそうです。それを教会の仲間に伝え、誘惑に負けないように祈ってほしいと伝え、皆で祈ったという話。
 このような交わりを持てることは本当に羨ましいと思いますが、同時にとても難しいことも分かります。自分が悪いことをしている。あるいは、罪を犯しそうだと思った本人が、それを教会の仲間に言うことが出来る。これは凄い信頼関係。しかし、それを築きたいのです。

 聖書的な交わりの具体例は、これ以外にも多数あります。互いに仕えること。互いに受け入れること。互いに赦し合うこと。互いに挨拶を交わすこと。互いに重荷を負い合うこと。互いに従うこと・・・。ある本によれば、互いに~~しないという教えは、新約聖書の中だけで五十八箇所あるそうです。これからも、聖書に示された交わりのあり方を見つけ、皆で取り組むことが出来たら良いと思います。

 このように交わりの具体例は多くあるのですが、是非とも四日市キリスト教会で取り組みたいと思う交わりがあり、最後に確認したいと思います。
 コロサイ3章16節
「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。」

 ここで勧められている第一のことは、「キリストのことばを、自分のうちに豊かに住まわせること」。聖書を通して、イエス様の人格に触れること。聖書を通して神様と交わること。聖書をよく読み、深く味わい、実践することが勧められています。
その上で勧められる第二のことが、「知恵を尽くして互いに教え」「互いに戒める」こと。キリストの言葉、聖書の言葉、私たちの神様がどれ程素晴らしいお方なのか、分かち合うことが勧められるのです。
更に第三の勧めとして、「感謝に溢れて心から神に向かって歌う」こと。

御言葉を味わい、神様との交わりを楽しむ。そして教会の仲間と御言葉を分かち合う、神様を分かち合う。そして仲間とともに神様を賛美する。この順番は非常に大事です。神様と交わることが赦された者として、まず神様との交わりを楽しむこと。その上で、教会の仲間と交わること。言葉を換えると、自分の力で教会の仲間と交わるのではないということです。神様と交わることが許された者として、同じ仲間とともに神様を喜ぶ。これぞ教会。これぞキリスト者の交わりという姿。
このような交わりを、是非とも皆さまと味わいたいのです。是非、今日の礼拝の後から、頂いた御言葉を深く味わい、教会の仲間と分かち合う歩みに取り組んでまいりましょう。

 今日の聖句を皆で一緒に読みたいと思います。
 ヨハネの手紙第一1章3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

2014年11月30日日曜日

マタイの福音書24勝45節~51節 「アドベント(1)~待つ者として~」

 聖書の神を信じる者。神の民の生き方はどのようなものか。答えの一つに、「救い主を待つ」という生き方があります。神を信じる者は、救い主を待つ者。
旧約の時代、神の民は、約束の救い主が来ることを待ち望むようにと教えられました。旧約聖書最後のマラキ書は「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」というキリストの到来の預言で閉じられています。主イエスが来られた新約の時代、神の民は、もう一度来ると約束されたイエス様の再臨を待ち望むように教えられました。新約聖書最後のヨハネの黙示録は「これらのことをあかしする方がこう言われる。『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来て下さい。」という再臨の預言と、それに応じる祈りで閉じられています。聖書は、信じる者に対して、救い主が来られるのを待つ者として生きるようにと教えているのです。

 裏返しますと、救い主の到来を待たない。救い主の到来などないとする生き方は、悪として聖書は評しています。いくつも例を挙げることが出来ますが、例えば
 Ⅱペテロ3章3節~4節
「まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、次のように言うでしょう。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。』」

 信仰を持つ者は、キリストの到来などないとは考えないでしょう。しかし、どれだけキリストの到来を意識して生きているでしょうか。皆様は、救い主が来られるのを待つ者として生きているでしょうか。未来のことで絶対に実現すると言いうる事は、多くありませんが、イエス様がもう一度来られるということは絶対に実現します。再臨は必ず起こる。何しろ、主イエスの約束ですから、これは絶対実現します。この再臨の約束を持つ者として、いつイエス様が来られても良いように生きる。「主イエスよ、来て下さい。」と祈りながら生きる。救い主の到来を意識して生きる者でありたいと願います。

 このように、信仰を持つ私たちは、いつでも救い主の到来を意識して生きるのが良いと言えます。ただ、クリスマスを前にしたアドベント、待降節を迎えた今は、特に救い主の到来を覚える時期。「アドベント」とは「到来」「来る」という意味。私たちは特にこの時期、主イエスが二千年前に来られたこと。そして、もう一度来られることを覚えつつ、クリスマスへと歩みを進めていく。礼拝の説教もアドベントに合わせたものとなります。
一般的にアドベントでの説教は、イエス様が来られた時の箇所か、もう一度来られる時、つまり再臨を扱った箇所が選ばれます。これまで四日市キリスト教会のアドベントでは、イエス様が来られた時の箇所を扱うことが殆どでしたので、今日は再臨をテーマにした箇所を扱います。有名なマタイの二十四章。主イエスによる終末預言。イエスの黙示録と呼ばれる箇所を皆で読みたいと思います。

 マタイ二十四章は一章まるごと使ったキリストの預言の言葉。これを語られたのは、イエス様が十字架にかかる数日前。弟子たちとともに都エルサレムに来ている時のことです。
 マタイ24章1節
「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。」

 これは十字架にかかる三日前、火曜日のことと考えられます。この日のイエス様の働きは聖書に詳細に出て来ます。マタイの福音書に沿って確認すると、二十一章二十三節で「イエスが宮に入って、教えておられる」とあり、それ以降、宗教家との激しい論争が続きます。権威について(21章23節~)、税金について(22章15節~)、復活について(22章23節~)、最も大切な戒めについて(22章34節~)、ダビデの主についての議論(22章41節~)が記録されています。身分、政治、神学、聖書解釈と広範囲な論争。当時の宗教家たちは、何とかイエスの主張に欠点を見つけようと攻撃しますが、イエス様は論駁を続け、最後には「誰もイエスに一言も答えることが出来なかった。」という状況。多忙な一日でした。

 おそくらは神殿に入って、一日中、議論と教えに時間を使ったでしょう。夕方になり、神殿を出て行く時のこと。春の夕日に照らされた神殿を見た弟子たちは、その荘厳さに息を飲み、指をさすのです。
 神殿と言えば、ダビデが志、そのソロモンが建てた第一神殿。バビロンにより破壊された神殿を総督ゾロバベルと祭司ヨシュアが再建した第二神殿。さらに、その第二神殿を大幅に増改修したヘロデ大王の建てた神殿がありました。この時、イエス様と弟子たちが目にしたのは、ヘロデが計画し着工した神殿。ヘロデと言えば、権力欲の怪物、キリストを殺そうと企んだ悪名ですが、当時の世界では建築で有名な人物でした。華美好みのヘロデが増改修した神殿は、その見事さ故に、信仰を持たない者も集まったと言われています。
 あまりの見事な建造物。それも神殿と言えば、都エルサレムの誇り、民族の象徴、歴史的記念碑。この時、歓声を上げた弟子たちの言葉が、マルコの福音書には記録されていました。
 マルコ13章1節
「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」

神殿内での激論を終え、外に出た時、ふと見上げた神殿の姿がとても美しかったのでしょう。「師よ。見給へ。これらの石、これらの建造物、いかにさかんならずや。」との歓声。そう言われると、私たちも見てみたくなる。どれ程の迫力があったのか。しかし、この弟子たちの声に対するイエス様の言葉は、弟子たちをして驚きの言葉。神殿破壊の予告でした。
 マタイ24章2節
「そこで、イエスは彼らに答えて言われた。『このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。』」

 建物の凄さに目を奪われていた弟子たちに対して、おそるべき宣告でした。事実、この宣告の四十年後、ローマ軍により神殿は完全に破壊されます。建物しか見ることのない弟子たちの目。心を見通し、未来を見通す主イエスの目。信仰の世界において、目に見えるものよりも、見えないものが大事であることが思い起こされます。
 それはそれとして、神殿が崩れると聞いた弟子たちは気が気ではなく、それはいつ起こるのかとイエス様に質問します。
 マタイ24章3節
「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』」

 神殿が破壊される。この不吉な話題は、人前で聞くことがはばかられたのでしょうか。弟子たちはひそかにイエス様に確認します。それはいつ起こるのですか。どのような前兆があるのですか、と。
 この問いに対する答えとして語られたのが、キリストの終末預言、イエスの黙示録の言葉です。弟子たちの問いは、神殿が破壊されるのはいつなのか。その前兆はどのようなものかという問いでしたが、イエス様の答えは神殿破壊に関することだけでなく、再臨についての教えも出てきます。十字架直前のイエス様。弟子たちのもとを去ることを間近にして、将来に備えるよう教えるキリスト。是非ともイエス様の熱い息吹を感じながら、マタイ二十四章を読みたいところです。
 本来ならば、二十四章全部を扱いたいのですが、一回の説教で扱うのは無理がありますので、今日は最後の段落。救い主の到来を待つ者、再臨を待つ者のあるべき姿が語られている箇所に集中します。

 マタイ24章45節~51節
「主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。」

 救い主の到来、キリストの再臨を待ち望む者のあるべき姿が、賢いしもべと、悪いしもべの姿を通して教えられています。
賢いしもべとは、主人がいない間、与えられた役割を忠実になしている者。主人が帰ってきた際に、その忠実さを主人が認めるような者。片や悪いしもべとは、どうせまだ主人は帰ってこないとして、与えられた役割を放棄し、むしろ与えられた力を自分のために使う者。与えられた役割を忠実にこなしながら主人の帰りを待つしもべは、主人から絶大の信頼を得る。片や、主人が帰ってくることを忘れたかのように振る舞った悪いしもべは、厳しい罰を受ける。簡単明瞭なたとえ話です。

 想像してみて下さい。もし自分が家の管理を任された者だとしたら。賢いしもべとして生きることが出来るでしょうか。悪いしもべとして生きてしまうでしょうか。
主人に家の管理を任され、最初のうちは意気揚々と働きます。その働きに就けることを栄誉に思い、忠実に働きたいと願います。しかし、待てども待てども主人は帰ってこない。そもそも、いつ帰ってくるのか教えてもらっていない。次第に気持ちは緩み、どうせまだ帰ってこないのだからと、さぼり始める。それが続くと、まるで自分が主のように振る舞い始め、他のしもべを打ちたたき、飲めや歌えの宴会を始める・・・。
 このたとえ話を自分に当てはめて真剣に想像してみますと、重要なことに気付きます。それは、主人が帰って来たのは、出かけてからどれ位経ったのか、語られていないということです。
自分が家の管理を任されたしもべだとして、一週間なら賢いしもべとして過ごせるかもしれません。一ヶ月でも大丈夫かもしれない。しかし、五年、十年、いやそれ以上となったらどうでしょうか。真剣に想像してみますと、いつ帰ってくるか教えてもらってない状況で、忠実に働きを続けることは容易なことではありません。
 主人がいつ帰って来るか分からない中、それでもいつ帰って来ても良いように働くしもべ。この賢いしもべのような生き方が、主を待ち望む者の生き方。キリストの再臨を覚えて生きる者の姿と教えられます。

 主人がいつ帰ってくるのか分からない。キリストの到来、再臨もまさにその通りで、このたとえの少し前でイエス様が宣言しています。
 マタイ24章36節
「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」

 キリストの再臨はいつのことなのか。その日、その時は誰にも知られていない。大真面目な話として、今日かもしれないのです。何故、神様はその日を教えて下さらないのか。
 ウェストミンスター信仰告白では、最後の最後でこのテーマを扱います。神様は、キリストの再臨とそれに続く審判の日があることを知らせるが、それがいつなのかは知らせない。「それは、彼らがいつ主がこられるかを知らないから、一切の肉的な安心を振り捨て、常に目をさまし、いつも備えして、『来たりませ、主イエスよ。すみやかに来たりませ。』と言うためである。」とまとめています。
 なるほど。確かに再臨が五十年先、百年先と知れば、私たちの生き方は、再臨に備えるものとはならないでしょう。キリストの再臨がいつなのか分からないからこそ、常に目を覚まし、常に忠実であることが出来る。その日、その時を知らせないという神様の知恵でした。

 このように考えていきますと、主の到来を待つ、再臨を待ち望むというのは、いつかイエス様が来られることを信じているというだけではありません。神様から与えられたと思う役割を忠実になしながら、いつイエス様の再臨があっても良いように生きること。私たちが主の到来を待つというのは、ただ待つだけでなく、備える信仰と言えるでしょうか。
 仮に、今晩、イエス様の再臨があるとします。想像して下さい。その時、私たちの過ごす一日はどうなるでしょうか。その想像した生き方が、私たちの毎日の歩みとなるように。常に目を覚ましている。主の到来を待つ信仰とは、今、イエス様が来ても良いとして生きることでした。

 今日、イエス様の再臨があるものとして日々を生きようと志す時、英国の信仰者、マックチェインの祈りが思い出されます。マックチェインは朝になると「主よ。今日でしょうか。備えております。」と祈り、一日の終わりには「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」と祈ったそうです。
「主よ。今日でしょうか。備えております。」
「主よ。今日ではありませんでしたね。明日でしょうか。」
再臨に備える生き方の具体的な生き方の一つは、このような祈りを日々ささげながら生きることでした。

 以上、第一アドベントの聖日、キリストの到来に備えることの重要性を確認してきました。聖書は、信仰者に対して、救い主を待つようにと教えています。キリストを信じる私たちは、救い主を待つ者として生きるのです。
 救い主を待つというのは、いつかはイエス様の再臨があると信じることではありません。神様から与えられた役割を覚え、それに取り組み、今日イエス様が来られても良いとして生きることでした。

 皆様は神様から与えられた役割とは何か、考えているでしょうか。
祈るように導かれていることはないでしょうか。愛を示したい人、励ましたい人、福音を伝えたい人はいないでしょうか。賜物や情熱を用いて労したいと願っていなでしょうか。ささげようと思いが与えられていないでしょうか。私たち一人一人、異なる役割、使命が与えられていますが、それが何かよく考え、忠実に取り組むことをしているでしょうか。クリスマスへと向かうアドベントの時期。祈り、聖書を読みながら、自分に与えられた役割、使命を見出すこと。そして、その働きに取り組むこと。そのようにして、キリストの到来を待ち望む者の歩みを全うしたいのです。
 主イエスとお会いする時、「イエス様、祈りと御言葉のうちに、私に与えられた役割はこれだと考え、取り組みました。」と言うことの出来る幸いを、皆で味わいたいと思います。

2014年11月23日日曜日

ヨハネの福音書16章17節~28節 「奪い去られることのない喜び」

 今、私たちはヨハネの福音書の後半、最後の晩餐の場面を読み進めています。この場面の冒頭13章1節で、著者ヨハネが「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と語った通り、この席にあふれていたのは、弟子たちに対するイエス様の愛でした。
当時、奴隷が主人のためになした、汚れた足を洗うという仕事で弟子たちに仕える。裏切りを決めていた弟子ユダのためにも席を用意し、愛を尽くす。ご自分が天に行くと知って不安を感じる弟子たちのために、「わたしが天に行くのは、あなたがたのため天に永遠の住まいを用意するため、もうひとりの助け主聖霊を与えるため」と語り、安心させる。十字架刑を目前にして、ご自分こそ苦しい状況であったでしょうに、イエス様は弟子たちをご自分の大切な者として愛されたのです。
さて、今日の箇所は先回の続きとなります。ご自分が捕えられ、十字架につけられた後、同胞ユダヤ人が弟子たちを会堂から追放し、迫害すると予告したイエス様は、その厳しい時代に躓かぬよう、弟子たちに心の備えを教えられたのです。
ご自分がこの世を去って天の父のもとへ行くことは、一旦は弟子たちを悲しませることになる。けれども、もうひとりの助け主、聖霊が来ることによって彼らの心の眼が開かれ、ご自分の栄光を見ることになると説いてこられたイエス様。そのイエス様が、今度は弟子たちの悲しみは喜びに変わる。しかも、それは決して奪い去られることのない喜びであると教えられるのが、今日の箇所です。

 16:17、18「そこで、弟子たちのうちのある者は互いに言った。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』また『わたしは父のもとに行くからだ。』と主が言われるのは、どういうことなのだろう。」そこで、彼らは「しばらくすると、と主が言われるのは何のことだろうか。私たちには主の言われることがわからない。」と言った。

  「しばらくするとあなたがたはわたしを見なくなる。しかし、また、しばらくするとわたしをみる。」「わたしは父のもとに行くからだ。」このことばを巡って、弟子たちは互いに論じ合っていたようです。確かに、イエス様の復活を知り、その後の聖霊降臨を知る私たちには理解できても、この時の弟子たちにとっては不思議なことば。よく理解できなかったとしても無理はありません。
 しかし、イエス様の口から、十字架の死という忌まわしい出来事が語られるのを恐れたからでしょうか。彼らは直接尋ねようとはしませんでした。そこで、イエス様の方から切り出されたのが続くことばです。
 
16:19~21「イエスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る。』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」

イエス様の十字架の死を巡って、全く対照的な二つの反応が起きます。弟子たちの悲しみと、この世の喜びです。弟子たちは、神の子、救い主と信じていたイエス様を失い、自分たちの夢が破れたことに失望、落胆。涙します。それに対しイエス様を十字架に追いやった人々は、自称神の子を倒し、偽の救い主を死に至らしめましたから、正しいことを実行したと言う満足、喜びに浸るのです。しかし、弟子たちの悲しみは喜びに変わる。それも、前に味わった悲しみを忘れてしまう程の深い喜びに変わると言われます。
私も何人かの姉妹から聞いたことがあります。確かに出産の際の陣痛の苦しみは嫌だけれど、生まれたての我が子を抱いた時の喜びは言い尽くしがたいと。その時は、耐え難く思われる苦しみ、悲しみが、やがてそれを忘れさせるほどの喜びに変わる。そうイエス様は語ります。
それでは、この世における最高の喜びに譬えられた喜びを、弟子たちはいつ経験することができるのかと言うと、イエス様がもう一度会いに来られる時でした。

16:22,23a「あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」

イエス様がもう一度弟子たちに会いに来られ、彼らの心が喜びに満たされる時とは、いつのことなのでしょう。初代教会では、これが世の終わりにおけるキリストの再臨を指すと考える人が多く、彼らはなかなか再臨が実現しないためにじりじりとしていた。その様な人々のイエス様の真意を教えるため、この箇所は書かれたとも考えられるところです。
イエス様がもう一度弟子たちに会いに来られ、彼らの心が喜びに満たされる時。それは十字架の三日後イエス様が復活した日だと考える人がいます。しかし、ヨハネの福音書を全体的に読んでみると、このことばは、イエス様が天に行き、天の父に願い送っていただいた聖霊、もうひとりの助け主によって、私たちが信仰の眼でイエス様に出会い、イエス様を見ることを教えているとも考えられます。
聖霊が私たちとともにおられることは、肉体をもったイエス様がともにおられることにまさって大いなる祝福ではないでしょうか。何故なら、肉体をもったイエス様はユダヤと言う小さな国で、少数の人々相手にするしかありませんでしたが、聖霊は国をこえ、時をこえ、世界中の人々に働きかけ、イエス様の救いをもたらすことができるからです。
「御霊はわたしの栄光を現します。わたしのもの(救い)を受けて、あなた方に知らせるからです」(16:14)とイエス様が言われたように、聖霊のおかげで、ユダヤから遠く離れ、イエス様の時代から隔てられた時代に生きる私たちも、信仰の眼をもって、天で私たちのためにとりなしの祈りをささげるイエス様を見上げ、心におられるイエス様と日々会うことができるのです。
そして、「その日は、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません」とある通り、聖霊を心に受ける時、弟子たちは何も尋ねる必要ないほど、イエス様の救いについて確信することができるようになります。聖霊を受け変えられた弟子たちの姿を見てみたいと思います。

使徒5:29~32「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

イエス様の十字架の死にあれ程失望し、同胞ユダヤ人の迫害を恐れ、家の中に閉じこもっていた弟子たちが、これ程変えられるとはと驚かされる姿です。彼らは、キリスト教を迫害する人々の前に立って堂々と証言する弟子に変えられたのです。イエス様の死が敗北ではなく、自分たちの罪の贖いのためであり、復活によって天の父がイエス様こそ真の救い主であることを示されたことを、彼らは心の底から確信していたのです。さらに、弟子たちの変化はその喜ぶ姿からも伺うことができます。

使徒5:41「そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。」

イエスをキリストと信じるがゆえに苦しめられることを恐れていた者が、それを喜ぶ者に。イエス様の救いを喜び、イエス様と一つにされたことを喜ぶ。弟子たちはこの喜びのゆえに、厳しい時代を忍耐し、福音を世界に携え行くことができたことを、私たちも心に留めたいと思います。なお、彼らを支えていた喜びが、「奪い去られることのない喜び」と呼ばれている意味については、最後に皆様と共に考えてみたいと思います。
さらに、イエスを救い主と信じる弟子たちにもたらされる祝福、それは、天の父なる神様との直接的で、親しい関係でした。

16:23b,24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。」

罪ある私たちには、直接天の父なる神様に求める資格はない。しかし、十字架の死に至るまで忠実に従われたイエス様を信頼し、イエス様の名によって求めるなら、天の父は何でも私たちに与えてくださると教えられます。
子どもが小さい頃、鈴鹿サーキットに出かけた時のことです。ジェットコースターだったでしょうか、身長120センチ以下の子どもは乗れないと言う乗り物がありました。しかし、看板の説明には、親が一緒なら120センチ以下の子どもでも大丈夫と書いてあったのです。つまり、本来ならジェットコースターに乗る資格のない子どもも、親のゆえに資格のある者として扱われると言う特別待遇です。
これと同じく、罪人の私たちも、イエス様が完全に父なる神様に従ってくださったので、そのイエス様の資格において、天の父から求めるものをいただくことができるようになったということです。イエス様にその資格があることは、復活を通して、天の父が示されたと聖書は教えています。

ピリピ2:6~9「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」

皆様は、イエス様に信頼し、イエス様の名によって祈り求めることが、どれほど天の父の心を動かすものであるか理解しているでしょうか。これが、本来私たちが受けるに価しない権利、ただイエス様のゆえに与えられた物凄い特権であるか、自覚しているでしょうか。日々、イエスのみ名によって、天の父にあらゆることを求めてゆきたいと思います。と同時に、物質的なものであっても、霊的なものであっても、良いものはすべて、イエス様が十字架で苦しんだ末に与えてくださったものであることを覚え、イエス様の素晴らしさを表すため活用してゆけたらと思います。

16:25~28「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます。その日には、あなたがたはわたしの名によって求めるのです。わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。わたしは父から出て、世に来ました。もう一度、わたしは世を去って父のみもとに行きます。」

「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません」とは、もはやイエス様が私たちのために執成しの祈りをなさらないというのではなく、その必要がなくなるほど、私たちと天の父との関係が直接的で、親しいものになると言う、イエス様の励ましです。
ことばを代えるなら、天の父は、イエス様を信じる私たちをイエス様と等しく愛してくださり、イエス様と等しく祝福してくださると言うのです。皆様はこのことを信じているでしょうか。
私たちは、イエスを救い主と信じた時から、神の子であることを自覚し、天の父から子として愛されていると信じています。しかし、神の子の中でも自分の様な出来の悪い子どもが、まさか完全なイエス様と等しく愛され、等しく祝福を受け取ることができるなどとは、とうてい信じられない思いがします。しかし、ここでイエス様は、私がそう言うのですから信じなさいと仰るのです。これを幼子のように素直に受け入れ、イエス様と等しく天の父なる神様から愛されている者として生きてゆきたいと思います。
最後に、皆様と考え、確認したいのは、イエス様が言われた奪い去られることのない喜びとは何かということです。参考にしたいのは、伝道旅行を終え、喜び勇んで帰ってきた弟子たちにイエス様が語られたことば、命令です。

ルカ10:17,20「さて、七十人が喜んで帰って来て、こう言った。「主よ。あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従します。」イエスは言われた。・・・「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

この時、弟子たちの伝道旅行は大成功だったようです。「あなたの御名を使うと、悪霊どもでさえ、私たちに服従しました」と言うことばからは、大きな達成感、喜びが感じられます。しかし、イエス様は、何故か、その様な成功を喜んではいけない。ただあなたがたの名が天に記されていることを喜べと命じています。何故でしょうか。
普段、私たちが何を喜びとしているかを考えると、多くの場合、仕事や学業の成功であったり、病気からの回復であったり、或いは思い通り、願い通りに物事が運んだ時ではないかと思います。それは自然な喜びであり、否定しなくてもよいように思えます。
しかし、この自然に湧き上がってくる喜びは出来事に左右されるもの、失われやすいものではないでしょうか。成功すれば喜び、失敗すれば悲しみ。物事がうまくゆけば喜び、行かなければ落胆。弟子たちがイエス様の十字架の死によって感じた悲しみも、自分たちの願いが実現せず失望したと言う面がありました。
しかし、彼らは聖霊によって、周りの出来事に左右されない、決して奪い去られることのない喜びを知ることができ、それを受け取ったのです。イエス・キリストの十字架の死によって、自分たちの罪がすべて赦された喜び、神の子とされた喜び、自分の名が天に記されていること、即ち天の父からイエス・キリストと等しく愛され、等しく祝福され、永遠に生きられるという喜びです。
けれども、私たちの心がこの喜びに向けられること、いかに少ないか。皆様は気がついているでしょうか。周りに起こる出来事に左右されるまま、喜んだり、悲しんだりする歩みに終始していないでしょうか。失われやすい喜びを追いかけるような生活ではないでしょうか。
イエス様は、この様な私たちの弱さ、私たちが味わいうる最高の喜び、喜ぶべき喜びに心を向けられない弱さをご存知であるからこそ、成功を喜ばず、神様に愛され、救われていることを喜べと命じたのでしょう。心をいつも喜ぶべきものへと向ける時、私たちの心は神様に守られ、厳しい時代をイエス・キリストの弟子として生き抜くことができるのです。

ルカ10:20「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」

2014年11月9日日曜日

マルコ4の福音書8章35節~35節 「いのちを感謝する」

 「世の中には二種類の人間がいる。〇〇な人間と、〇〇な人間だ。」という言い回しを聞いたことはあるでしょうか。「世の中には二種類の人間がいる。勇気のある人間と、勇気のない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。音楽の分かる人間と、分からない人間だ」とか、「世の中には二種類の人間がいる。中日ファンか、そうでないかだ」とか。大したことは言っていないのですが、「世の中には二種類の人間がいる」という言葉で、次にどのような言葉が来るのか注目させる言い回しです。
この言い回しをもとにした小噺というかジョークもあります。「世の中には二種類の人間がいる。人間を二種類に分ける人間と、そうでない人間だ」。(世の中には二種類の人間がいるという言い回しを使いながら、自らその言い回しを皮肉る面白さ。)あるいはもう少し捻ったもので「世の中には三種類の人間がいる。数を数えられる人間と、数えられない人間だ。」というのもあります。(数を数えられる人間と、数えられない人間の二種類しかいないのに、それを三種類と言っているというのは、この発言をしている人が、数を数えられない人間という面白さです。)

 今日の聖書箇所、「世の中には二種類の人間がいる」という表現は出て来ませんが、内容としては、人間はどちらかに分かれるのだと教えるもの。敢えてこの表現で言うならば、「世の中には二種類の人間がいる。いのちを救おうとしてそれを失う者と、いのちを失いながらもそれを救う者。」でしょうか。
 いのちを救おうとしてそれを失う者か、いのちを失いながらそれを救う者か。どちらかしかない。私たちは、そのどちらの者となるのか。どちらの生き方をしたいのか。決めないといけない。二千年前、イエス・キリストが語られた言葉に今日は集中したいと思います。

 マルコ8章35節~36節
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

逆説的で難解な言葉。よく考えてみないと意味の分からない言葉。いや、よく考えても、意味が分からない言葉と言えるでしょうか。果たして、これはどのような意味か。皆様はどのように考えるでしょうか。
実はこの言葉。マルコの福音書に沿って言えば、有名な場面で語られた言葉となっています。
 マルコ8章27節~29節
「それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。『人々はわたしをだれだと言っていますか。』彼らは答えて言った。『バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。』するとイエスは、彼らに尋ねられた。『では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。』ペテロが答えてイエスに言った。『あなたは、キリストです。』」

 イエス・キリストの公生涯、救い主としての歩みをされたのは約三年半。その救い主の歩みの中で、このピリポ・カイザリアの出来事は、重要な転換期の場面となります。
これまで様々な奇跡を行い、多くの説教をなしてきた。この頃には、主イエスに対する世間の反響を聞くに十分な下地が出来た。頃合いや良しと見て、イエス様は弟子たちに聞きます。「人々は私のことを誰だと言っているのか。」
 「イエスを誰とするのか。」これは非常に重要な問いです。人間はこの問いを前に、どのように答えるのかで、その人生が決まる。私たちも、「イエスとは誰か」との問いには、心して答えるべきでしょう。
それはそれとしまして、当時の群集はどのように思っていたのか。これまでの活動からすれば、優れた教師、偉大な説教家、病人を癒す名医、あるいはローマの支配から解放してくれる王などなど、色々な答えが出て来そうなところ。弟子たちも、あの人がこう言っていた、この人がこう言っていたと思い出しながら、バプテスマのヨハネという声があります。エリヤだという人もいました。預言者ではなかろうかとの噂もあります、と答えていきます。
 当時の群集は、イエスを普通の人ではないと思っていた。イエスのところに押し寄せ、耳を傾け、熱狂する。しかし、昔の預言者の再来か、殉教したバプテスマのヨハネの力があるのか、新たな預言者なのかはともかく、預言者という理解が精一杯。イエス様を指して約束の救い主とする声は聞こえていなかった。

 そこでもう一つの問いが発せられるのです。「では、あなたがたはわたしをだれだと言うのか。」「群集は良いとして、私とともに過ごしているあなたがたは、わたしを誰だと言うのですか。」弟子たちは何と言うのか、緊張の場面。
この問いに答えたのは、一番弟子とも言えるペテロで「あなたはキリストです。」と告白します。福音書の中には、主イエスの弟子として、ふがいなく見える姿がいくつも出てくるペテロですが、ここにこれ以上ない神聖な告白をします。あなたは預言者ではありません。約束の救い主、キリストです、との告白。
 イエス様はこの告白をどれ程喜ばれたでしょうか。この告白を聞くために、救い主としての歩みをされてきたのです。これまでの経験を経て、ペテロを始め弟子たちはイエスを「キリスト」、約束の救い主であるということは理解した、信じるに至った。大変感謝なことでした。
 イエスがキリストなのは良い。しかし、キリストとは何か。約束の救い主とは何か。イエスがキリストであるとするならば、この後、どのような歩みを送ることになるのか。ここにきて、イエス様がはっきりと言われるのです。

 マルコ8章31節
「それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。」

 キリストとは何か。約束の救い主の歩みとは何か。多くの苦しみを受け、宗教的指導者から捨てられ、殺される。その後、三日後によみがえる。これがキリストの歩みであると明確に教えられた場面。「あなたがたの言う通り、わたしは神のキリストです。そのキリストであるわたしは、苦しめられ、捨てられ、殺されなければならない。」弟子たちが、この方こそキリストと理解したからこその説明でした。(これ以降、十字架での死へと向かっていくという点で、このピリポ・カイザリアの出来事はイエス様の生涯の中でも転換期となるのです。)
 すると、驚くべきことが起こります。直前で「あなたはキリストです。」と大告白をしたペテロが、イエス様をいさめたというのです。

 マルコ8章32節
「しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。」

 ペテロは、イエス様が約束の救い主であるという信仰は持っていました。しかし、その約束の救い主が苦しみの中で死ななければならないということは理解していなかった。「あなたはキリストでしょう。それが苦しめられるとか、捨てられるとか、そんな不吉なことを。しかも、殺されるなんて。めったなことを言うものではありませんよ」との声。
目の前にいるのがキリストであれば、その言葉がどのようなものであっても、受けとめるべきでしょう。しかし、それが出来なかった。直前に「あなたはキリストです」と告白しながら、その直後にキリストをいさめ始めた。ペテロらしいと言えば、ペテロらしいのですが残念な姿です。
 ところで、この時のペテロは、信仰を失っていたわけではありません。むしろ、善意というか、熱意というか、イエス様を思ってこそ、「苦しみ、捨てられ、死ななければならない」との言葉に、「そんなことはない」と声を上げたのでしょう。

 ところが、このペテロに対して、イエス様より痛烈な言葉が響くのです。
 マルコ8章33節
「しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。『下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」

「下がれ、サタン」とこれ以上ない程、強烈な言葉。「あなたはキリストです。」と神聖な告白をしたペテロが、その直後に「下がれ、サタン」と言われる。ピリポ・カイザリアにおける大事件です。
 ペテロの思い、イエス様を思ってこその発言ということは、誰よりイエス様がご存知だったはずです。それを「下がれ、サタン」と非常に強い叱責の言葉。何故イエス様は、これ程強い言葉で、ペテロを叱責したのでしょうか。
イエス様はここで、救い主である自分は死ぬと宣言されました。それはつまり、罪人の身代わりに死ぬことを意味しています。ペテロは、悪意の自覚はなかったにしても、そのように宣言されたイエス様に対して、そんなことはないといさめたことになります。
 罪人の身代わりとして死ぬと宣言された救い主に対して、そんなことはないといさめた。仮にペテロの言う通り、キリストが殺されることがなかったとしたら。ペテロ自身は自分の罪のために裁きを受ける存在となる。キリストが殺されなければ、ペテロは永遠の苦しみを味わうことになるのです。そのつもりはなかったと思いますが、この時ペテロは、自分の滅びを願っていたことになります。
 そのペテロに対して「下がれ、サタン」と言われたイエス様。それはつまり、わたしはあなたのために死ななければならない。あなたのために死ぬ覚悟をしている。その邪魔をするな、という意味です。「下がれ、サタン」という強烈な叱責の言葉は、どうしてもあなたを救いたいのだという強烈な愛の言葉でもあったわけです。

 ペテロの「あなたはキリストです。」との告白を受け、キリストとは罪人のために死ぬものだと話しを進め、本当にそのためにいのちを捨てようとされるイエス様。このようなやりとりの後に語られたのが、今日の聖書の言葉となります。
 マルコ8章35節~36節
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」

 「いのちを救おうとする者はそれを失い」「いのちを失うものはそれを救う」。これは何も一般論、一般的な格言として語られたわけではありません。
(一般論として、この聖句と似た言葉を言ったとされる人で、ギリシャ人クセノフォンがいます。その意味は、戦において、何としてでも生きようとする者は大抵は死ぬことになり、ひたすら見事な最後を遂げようと志す者は、何故かむしろ長寿に恵まれるというもの。決死の覚悟で戦に臨めという意味です。主イエスはこのような意味で、この言葉を語ったわけではありません。)
聖書は、いのちは尊いものであり、私たちも自分のいのちを守るように教えられています。いのちを危険に晒すことは避けるべきであり、心も体も健康であるように、自分の出来ることに取り組むのは聖書的です。自分のいのちを大切にするという意味で「いのちを救おう」とすることは、正しいこと。このイエス様の言葉をもって、自分のいのちを守る努力はすべきでないと考えるのは間違いでしょう。
では、どのような意味なのか。イエス様はまず、ご自身の歩まれる道を提示しました。それはまさに、自分のいのちを救う道ではなく、福音のためにいのちを失う道。それが、救い主の歩む道でした。続けて、目の前の弟子たち、そして私たちキリストを信じる者の歩むべき道を示された。それが、今日の言葉です。
「わたしはキリストとして、罪人のために、あなたがたのためにいのちを捨てます。しかし、それはわたしだけの生き方ではない。わたしに従うあなたがたも、同じ様に生きるように。自分のいのちは、自分のものではないこと。その所有権は神様にあること。自分で自分のいのちを支えているのではないこと。神様が守って下さっていることを忘れないように。そして、自分のために生きるのではなく、福音のためにいのちを用いるように。」との言葉なのです。
このイエス様の願い、勧めに私たちはどのように応じるでしょうか。

 今日は久しぶりの成長感謝礼拝となりました。今一度、神様からいのちが与えられていることを感謝したいと思います。実によく出来ている私たちの体も、この世界を楽しむことが出来る心も、生きていくのに必要なものも、全て神様が下さったもの。毎日の生活の中で、自分にいのちがあることがいつの間にか当たり前となり、感謝することも、信頼することもなくなる私たちですが、今日、この成長感謝礼拝で今一度、いのちが与えられていることを感謝したいと思います。
 しかし、肉体のいのちが与えられていることを感謝して終わるのではない。罪赦されたいのち、永遠のいのち、キリストのいのちを頂いたことも感謝したいのです。
 いのちをかけて私たちを愛する道を選ばれたイエス様。最愛のペテロに対して、「下がれ、サタン」と言ってまで、いのちを捨てて私たちを愛する道を選ばれた救い主。この救い主のいのちを頂いたのが私たちです。全世界、あらゆるものに勝るいのちを頂いたことを覚えて、今日、また新たに感謝する時をもちたいのです。
 キリストのいのちを頂いた者として、イエス様が歩まれたように生きること。自分の栄華を求めて生きるのではなく、主イエスのために、福音のためにいのちを用いていく決心を、今日新たにして、礼拝を続けていきたいと思います。

2014年11月2日日曜日

ヨハネの福音書16章1節~16節 「つまずくことがないように」

 皆様は、レオナルド・ダビンチの名画「最後の晩餐」をご存知のことと思います。十字架前夜、イエス・キリストが弟子たちと最後の食事を囲む場面を描いたものです。イエス様の時代、ユダヤの人々は床に横になり食事をしたと言われますから、テーブルについた人々を描くダビンチの絵とは、随分雰囲気が違ったかもしれません。
ここ数回にわたり、私たちはヨハネの福音書の後半、最後の晩餐の場面を読み進めてきました。この場面の冒頭、著者ヨハネが「この世を去る時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(13:1)と語った通り、最後の晩餐の席にあふれていたのは、弟子たちに対するイエス様の愛でした。
当時、奴隷が主人のためになした、汚れた足を洗うという仕事を弟子たちのため自ら行う。裏切りの決意を固めていた弟子ユダのためにも席を用意し、愛を尽くす。ご自分が天に行くと知って不安を感じる弟子たちのために、「わたしが天に行くのは、あなたがたのため天に永遠の住まいを用意するため、もうひとりの助け主聖霊を与えるため」と語り、安心させようとする。
十字架刑を目前にして、ご自分こそ不安であったでしょうに、イエス様は弟子たちをご自分の大切な者として愛されたのです。やがて、ユダは金銭で裏切ります。ペテロは「イエスなど知らない」と口にします。他の弟子たちも離れ去ってゆきます。その様な酷い状況が待っていることを知りながら、彼らを残るところなく愛されたイエス様。このイエス様の愛が今の私たちにも注がれていることを感じながら、読み進めてゆきたいと思います。
さて、今日の箇所。ご自分が捕えられ、十字架につけられた後、同じように人々が弟子たちを会堂から追放し、殉教の死を遂げる者も現れるとイエス様は言われます。

16:1、2「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。」

会堂は、地方にいるユダヤ人が礼拝を守る場所でした。そこは、聖書を中心とした教育の場であり、地域のコミュニケーションセンター。ですから、会堂追放は、教育、経済、冠婚葬祭など、彼らの日常生活全般に支障をきたすこと、地域社会からの追放となります。
また、同じ天地万物の造り主である神を信じる同胞ユダヤ人が、弟子たちを殺すことで神に奉仕していると考える時が来るとも予告されます。本来、絶対的に正しいのは神お一人のはずなのに、神を信じる自分の考えや立場を絶対的として人を責め、命をも奪う。宗教の恐ろしさです。
次に教えられたのは、今このタイミングで、イエス様が弟子たちに厳しい時代の到来を告げたその理由でした。

16:3、4「彼らがこういうことを行なうのは、父をもわたしをも知らないからです。しかし、わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、その時が来れば、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしが初めからこれらのことをあなたがたに話さなかったのは、わたしがあなたがたといっしょにいたからです。」

弟子たちを迫害するユダヤ人は、この世界の造り主である神様を知っていました。しかし、彼らはイエス様が神の子救い主であることを認めず、神様を天の父と呼び親しく交わることもありませんでした。これを指して、イエス様は、人々は父をもわたしをも知らないと言われたのです。こうして、弟子たちは人々の行いが神様から出たものではなく、自分勝手な思い込みからのものであることを知り、安心したことでしょう。
さらに、今までイエス様が、この様なことをはっきりと語られなかったことにも、配慮がありました。今までは、イエス様が一緒にいたので、人々の迫害はイエス様一人に集中し、弟子たちはイエス様の陰に守られていました。しかし、イエス様がこの世を去ったら、残された彼らに憎しみが向けられるので、前もっての予告が必要になったのです。
本当に患者のためを思う医者は、必要なら痛みを伴う手術をすることをためらいません。しかし、その痛みがどのようなものであるか、また、痛みの意味を前もって説明するはずです。同じように、イエス様が厳しい時代が来ることを前もって告げられたのは、弟子たちを怖がらせるためではありませんでした。むしろ、彼らが痛みを忍耐する中でつまづかないため、より豊かな神様の祝福を受け取るためだったのです。
しかし、残念ながら、弟子たちの悲しみ取り去られず、かえって深くなったようです。

16:5、6「しかし今わたしは、わたしを遣わした方のもとに行こうとしています。しかし、あなたがたのうちには、ひとりとして、どこに行くのですかと尋ねる者がありません。かえって、わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。」

少し前、「主よ。どこにおいでになるのですか。あなたが行くところに私もついてゆきます」と言ったペテロも、今は口を閉じています。まして、他の弟子たちについては言うまでもない。皆がイエス様が去った後の厳しい時代を思い、悲しみと不安で心は一杯、ことばも出ないと言う有様です。
しかし、この様な弟子たちの弱さを、イエス様はよくご存知でした。ですから、再度ご自分が去ってゆくことは彼らの益になると念を押し、もうひとりの助け主聖霊の到来を告げ、彼らを励まします。弱き者を受け入れ、どこまでも仕える。イエス様の愛です。
そして、先ず聖霊が遣わされることの第一の益は、聖霊がこの世の人々に罪と義とさばきについて教え、それを認める信仰者がおこされることと教えられます。

16:7~11「しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」

イエス様が救い主として活動されたのはわずか3年。その活動範囲はユダヤ一国に限定されていました。しかし、イエス様が世を去り、イエス様と同じ働きをするもうひとりの助け主、聖霊が遣われるなら、イエス様の働きは広く時代をこえ、国をこえ、人々が弟子たちと同じ信仰に導かれ、キリスト教会が世界に広がり、前進してゆく時が来ると言うのです。
ところで、聖霊は罪と義とさばきについて、人々にその誤りを認めさせると言われていますが、どういうことでしょうか。
先ず、罪についてです。イエス様が山上の説教で教えられたことばを思い出して頂けたらと思います。例えば、「殺してはならない」という十戒の意味について、当時のユダヤ人はこれを実際の殺人の禁止と理解していました。しかし、イエス様は、私たちが心の中で人を罵ったり、馬鹿にしたりすること、あるいは、心にその様な思いを抱くだけで、聖なる神様の前ではさばきに価する罪であることを教えています。
この世の常識では、その様な思いやことばは、誰でも経験するもの。それをいちいち罪だのさばきだのと言われては堪らないということになるでしょう。つまり、神を知らない人は、神様の眼で自分の思いとことばと行いを見ようとはしませんから、自分を罪人とは考えないのです。こうして、神様の眼から自分の罪のひどさ、罪赦されないままに生きることの悲惨さが分かりませんから、イエス様が罪のために十字架で贖いの死を遂げられたと聞いても、イエス様を信じる思いにはなれません。
しかし、聖霊が人の心に来る時、その間違いに気づかせてくれます。神様の前における自分の罪を心から悲しみ、イエス様による罪の贖いに頼る信仰へと導かれるのです。
次に、義についてです。これについては「わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」と説明されています。少々わかりにくい気もしますが、後に弟子ペテロが行った説教のことばを参考に見てみたいと思います。

使徒5:30~32「私たちの先祖の神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」

当時、ユダヤでは「木にかけられ死ぬ者は神に呪われた者」と言い慣らわされていました。ですから、多くの人が、十字架の木に死なれたイエス様のことを神に呪われた者と考えていたはずです。けれども、そのイエス様を蘇らせ、天に挙げられるという出来事を通して、天の父は世の人々にイエス様が義であり、真の救い主であることを示してくださったとペテロは説いています。つまり、イエス様が復活し天に行くことで、多くの人々が心の眼開かれ、イエス様を信じるようになったのです。
第三に、さばきについて。聖書において「この世を支配する者」と言えば、サタンを指します。サタンは、人々が神様を信頼しないように、むしろ財産、地位、自分自身など、神で無いものを信頼するよう導き、支配する、霊的な力を持った存在です。しかし、イエス様は十字架の死によって、私たちを支配するこの様なサタンを打ち破り、神様を信頼し、従うことができる者へと変えてくださったと聖書は教えています。
果たして、弟子たちはイエス様のことばを聞いてどう感じたでしょうか。今まで頼り切ってきたイエス様が天に去り、地上に残される者の寂しさ、心細さを覚えていた弟子たち。その上、たった今、同胞ユダヤ人による迫害という厳しい時代が来ることを知り、一層不安を感じていたであろう弟子たち。その様な彼らが、聖霊の到来によって、広く国をこえ、時代をこえて、イエス様を信じる仲間、キリスト教会が広がる世界を仰ぎ望むことができたのです。
一人ぼっちではない。この世に同じ信仰の道をゆく仲間がいる、お互いに支え合って同じ道を進む兄弟姉妹がいるという嬉しさ、頼もしさ。どれほど、弟子たちの心は励まされたことでしょうか。
さらに、聖霊がもたらしてくれる益は、これにとどまりません。聖霊は弟子たち自身をすべての真理に導き、イエス様の栄光を現すと教えられます。

16:12~16「わたしには、あなたがたに話すことがまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐える力がありません。しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。」

聖霊は私たちをすべての真理に導きいれると約束されています。私たちが聖霊によって教えられ聖書的な価値観、考え方、行動を身につけることを指しているのでしょう。また、聖霊は私たちにイエス様の栄光、すばらしさを現すとも約束されています。聖霊こそが、私たちの人格と行いを整えてくださるお方。よりイエス様を知り、よりイエス様を愛し、よりイエス様のように生きたいと言う願いで心を満たしてくださるお方なのです。
最後16節で、イエス様は「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」と言われました。これは、弟子たちが十字架の三日後、復活のイエス様を見ることとも考えられます。あるいは、弟子たちが聖霊の助けにより、さらに親密なイエス様との交わりに入れられることを指すとも考えられます。ここでは、後者の考え方に立って話を進めてゆきたいと思っています。
皆様は、ある経験を経て、聖書的価値観に気がつき、それを身につけることができたと言うことはないでしょうか。ある時、何度も読んだことのあるみことばを違った角度から理解し、自分の考え方や行動を振り返ることができたと言う経験はないでしょうか。もっとイエス様を知りたい、愛したい、従いたいと言う思いが、心の中で成長しているでしょうか。
様々な方法、経験を用いて、私たちを真理に導き、イエス様の栄光を現してくださる聖霊の存在を意識して、日々歩む者でありたいと思います。

Ⅰコリント12:3「・・・神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ。」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。」

私たちは聖霊の声を聴くことはできません。目で見ることもできません。そうだとすれば、どのようにして私たちは聖霊の神様が、心に住んでおられることを確かめることができるでしょうか。それは、イエス様と私たちの関係によって確かめることができることを、このみことばが教えています。
もし、心に聖霊が宿っているのなら、イエス様との関係を完全に否定し、イエス・キリストの愛を拒み続けることは、私たちにはできません。あのペテロがそうだったように、一旦はイエス様との関係を否定したもののそれを後悔し、やがてイエス様の愛の眼差しに気がつき、イエス様の所に立ち帰ってゆくことができるはずです。
また、もし、心に聖霊がおられるなら、私たちは兄弟姉妹との交わりを求め、それを喜びとするようになると思います。イエス様をより知りたい、より愛し、従いたいと言う願いが、湧き上がってくると思います。
現在の日本は、イエス様が弟子たちに告げられた様な厳しい時代ではないと思います。しかし、いつそのような時代が来るのか分かりません。また、私たちは弟子たち同様、イエス様への信仰に生きぬくと言う点において本当に弱い者であると感じます。そうであるなら、私たちができること、またすべきことは、あの弟子たちを支えた聖霊が私たちの心をも満たしてくださるよう願い、祈ることではないでしょうか。今日の聖句をともに読みましょう。

エペソ5:17,18「ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」

2014年10月26日日曜日

ウェルカム礼拝 箴言16章32節 「怒り~うまく付き合って幸せな人生~」

 先週一週間、私はかなりのストレスを感じていました。自分にとって一番苦手な分野の話をしなければならないというストレスです。以前中学の同窓会に出席した時のことです。友人のひとりが「俊ちゃん。お前、牧師やっているんだって。だったら、神を信じて、いつも心穏やかで、俺みたいに腹を立てたり、迷ったりすることなんかないだろうな。うらやましいね」と声をかけてきました。
 勿論、実際の私はと言うと、怒りに関して失敗の連続。とても皆様の前でお話しできるような立場にないと強く感じていて、それがストレスの原因でした。しかし、今回怒りについて調べているうちに、ちょっと救われた気持ちになったんです。というのは、聖書の中にも、怒りで失敗した人、怒りに苦しむ人が沢山登場してくるからなんです。
奥さんの怒りに戸惑い、間違った選択をしてしまう夫。兄に酷いことをしたのに謝らず、兄の怒りを恐れて逃げる弟。子どもたちの悪行に怒りを感じながらも、叱ることができない父親。すべきことをしなかった父親に対する怒りを抑えられず、反乱を起こす息子。その怒りにどう対応してよいかわからず、息子を遠ざけるばかりの父親。自分を苦しめる者への復讐の思いに捕われ、苦しむ人。仲間に自分がしたかったことの先を越され、ねたみから怒りを発して、イエス・キリストに戒められた弟子たち。
 私たちも同じようなことしていませんか。昔から、人間は同じようなことを繰り返してきた。怒りとのつき合い方に悩んできた。昔から、人間にとって、怒りは厄介な隣人だったんだなと感じます。
 ところで、怒りは身近な人に向きやすいという性質があることを、皆さんはご存知でしょうか。ある夜、私の母親から電話が来ました。娘、つまり私の妹に対して非常に腹を立てていました。孫の運動会ということで出かけたらしいのですが、夜子どもを買物に連れ出すやら、台所の片づけ方がなっていないやら、あんな子に育てた覚えはないと、大変な剣幕だったんです。
私の母は気になることがあると黙っていられない性質なので、妹を注意し、恐らく妹がそれに言い返し、喧嘩になったんだと思います。私が、「そんなに気になって、どうしても黙って見ていられないなら、もう妹の家に行かなければ良い」と言うと、今度は私が怒られる始末でした。
それから暫くして、もう一度電話が来ました。今度は隣の家のお嫁さんの相談にのったらしく、「台所のことでも、子育てでも、今の若い人には若い人のやり方があるんだから、隣のおばさんもその辺の所を分かってあげないと」と言うんですね。
隣の家のお嫁さんのことだと、そういうやり方もあると受け入れられるのに、自分の子どものこととなると怒りを感じる、受け入れられない。しかし、私の母親は例外ではないという気がします。
私が楽しみにしている新聞の一齣に「人生案内」と言うものがあります。新聞によって呼び方が違うと思いますが、読者の日常生活の悩みに、弁護士とか作家、カウンセラーが回答するという欄です。それを読んでいて、気がつくのは、いかに人々が身近な人への怒りを感じているか。そこから様々な問題が起こってくるかと言うことです。
子どもを激しく叱ってしまい、自分がこんなにも怒りやすい人間であることに、子どもをもって初めて気がついたと、ショックを感じているお母さん。やり残しの多い妻の掃除の後を見ると、いつもイライラする夫。お隣さんと話をする時にはいつも笑顔で応対するのに、自分には笑顔を向けたことのない夫に怒る妻。
もし、これが他の人の場合だったら、「子どもってそんなもの」とか、「掃除の苦手な奥さんもいるのでは」とか、「男って外面が良いから」。そんな風に考えられるのに、自分の親、子、妻、夫となると客観的に見ることができないで、つい腹を立ててしまう。そんな経験、皆さんにもないでしょうか。
ある日の人生案内に、こんな相談がありました。「50代男性。妻と娘の三人暮らしです。遠方に住む80代の父親の相談です。私は一人息子で、父は教員を定年退職し、一人暮らしです。正月に実家に帰らなかったり、父の日に電話をしなかったりすると、怒りの電話がきます。私だけでなく、妻や娘にも容赦がありません。元旦に初もうでに行った娘は電話で叱られ、妻はしつけがなっていないと延々とお説教されました。実家へは娘の受験以来、帰省していません。こちらに何度か父を呼んでいます。妻も娘も私も心より父の幸せを願っているのに伝わりません。誕生日などのプレゼントは欠かしたことがありません。最近は早く死んでくれれば良いのにとすら思うことがあります。自己嫌悪で辛いです。親に対してどんな気持ちでいればよいのかわからず、夜も眠れません。」
回答者は、「帰省や電話に拘るのも、あなた方が自分のことを忘れていないか、形で測るしかないからかもしれません。怒ったり、説教したりするのも、一人で正月を過ごす寂しさの裏返しともとれます」と答えていました。よく分かります。しかし、父親への怒りの感情に捕われてしまっている相談者には、そこが見えないのだろうなあと感じ、そうした状況も理解できる気がします。
怒りは身近な人、つまり私たちにとって大切な人に向きやすいこと、一旦怒りの感情に捕まると、私たちは客観的に、相手や自分のことを見ることが非常に難しくなること。このことを先ず心に留めておきたいと思います。
また、怒りは、私たちの人生に大きな影響をもたらします。怒りの感情をそのまま爆発させれば、親しい人を遠ざけます。関係断絶などと言うことにもなりかねません。反対に、怒りの感情を心にため込んでいると、繰り返しそのことを思い返し、心奪われて、仕事や学びに集中できないばかりか、頭痛、不眠、高血圧、鬱病などになり易いとも言われます。
しかし、怒りがもたらすのは悪いものばかりではないと思います。家族を害するものへの怒りは、愛する家族を守るために必要なものです。また、社会の不正やひどい状況に対する怒りは、しばしばその問題を解決し、社会を良くする原動力ともなります。
つまり、私たちが怒りをどう管理するか、どうコントロールするのかが非常に大切だということです。ここで、怒りそのものは罪ではなく、それを上手く治めることが大切と教える聖書のことばを紹介したいと思います。

箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

怒りを遅くする。自分の心を治める。怒りのコントロールについてお話しする前に、皆さんにお願いしたいのは、自分の怒り方について考えることです。皆さんは怒りを感じた時、どのように反応しているでしょうか。自分がどのように反応してきたか、気がついているでしょうか。
 怒鳴る。沈黙する。イライラを感じてしまう人を避ける。睨みつける。皮肉を言って反撃する。あるいは、自分が悪いのではないと感じながらも、とにかく謝って、嫌な雰囲気を避けようとする人もいるかもしれません。
今回、心理学の本を読んでみて、一般的に怒りに対する対応に三つのタイプがあることが分かりました。私たちの反応の仕方は親に似ていると言われますから、自分の親のことを思い浮かべても良いかもしれません。
ひとつ目は攻撃タイプです。顔が赤くなったり、怒鳴ったり。怒りの感情が表情や言動に現れるタイプで、「私は正しい、あなたは間違っている」という考えが基本にありますから、人を攻撃したり、責めたり、説教したりします。こうした特徴から、他罰的とも言われます。
このタイプの人は、自分のことを相手が理解し、認めてくれないのはおかしいという思いが強いため、大きな声を出したり、逆に黙り込んだりすることで、相手の方が間違っていると分からせようとします。しかし、相手はそれを恐れて身を退いてしまいますから、攻撃タイプの人の思いはなかなか理解されないことになります。
二つ目は受身タイプです。良い人と思われたい、あるいは自分が傷つきたくないという動機から、怒りを感じてもそれを内側に押し込め、「私は気にしていない、怒りなど感じていない」と言う態度を取るのが特徴です。
このタイプの多くの人が、相手を怒らせるようなことをした自分、あるいは怒りを表すことのできなかった自分を責めるので、自罰型とも言われます。この状態がひどくなると、仲間から離れる、学校に行かない、会社に行かないという引きこもりになります。
三つ目は、バランス型。「人生こういうこともあるさ」と、人の怒りも自分の怒りも現実として受けとめ、次にどうしたらよいかを考える人です。自分や人を責め続ける怒りの感情から離れて、謝るべきことは謝り、伝えるべき自分の思いはしっかり伝えようとつとめるので、無罰型とも言われます。
どうでしょうか、皆さん。自分がどのタイプに属すると思いますか。どのタイプの特徴が、自分には顕著だと考えるでしょうか。あるいは、相手よって、事柄によって、攻撃タイプになったり、受身タイプになったり、バランスタイプになったりする。そういう方もいるかもしれません。
バランス型が最も理想的と思われますが、なかなか理想通りにはいかないのが現実です。しかし、聖書の視点からすると、神様は、非常に厄介な隣人をコントロールする能力をもともと私たちの体に与えてくださっていることが分かります。
皆さんは、脳の中に大脳新皮質と大脳辺系古皮質という場所があるのをご存知でしょうか。前者は理性をつかさどり、後者が感情をつかさどっていることは、良く知られています。しかし、神様から離れて生きるようになった人間は、理性と感情のバランスが悪いと言いましょうか。理性が感情を上手くコントロールできなくなっているんです。
聖書のある個所では、この様な人間の状態を「わきまえのない者」とか「獣のよう」と呼んでいます。私も感情的になった自分を振り返ると、この表現は当たっていると思います。私たちは普段思っているほど理性的な存在ではないようです。むしろ、怒りの感情が私たちをこの様などうしようもない状態に追いやることがあるのを、皆さんは認めるでしょうか。
それで、聖書が勧めている方法、神を信じる人が実践してきた方法は何かと言うと、私たちを愛しておられる神様の前に出て、怒りの感情を整理することです。神様に心を開き、自分の感じている怒りについて正直に話す。神様のことばを聞いて、怒りの原因や相手の行動についての判断、相手に対する態度が正しいかどうか考える。その様な神様との交わりの中で、自分が受け入れるべき現実、自分が謝るべきこと、自分が相手に伝えるべきことを整理する。これを聖書の人々は実践してきましたし、これは、今の私たちにもできることなのです。
そして、その様な交わりの中、神様は私たちに受け入れるべき現実を受け入れ、謝るべきことを謝り、伝えるべき思いを伝える勇気を与えてくださいます。

エペソ4:25「ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。」

「私たちはからだの一部分」と言う表現は、相手との関係を心から大切なものと考えていると言う意味です。聖書は、私たちが相手との関係を本当に親しく、良いものにしたいなら、偽りを捨て、真実を語れ、と勧めています。具体的に言えば、相手を責めず、自分が心の奥で感じている思いをきちんと表し、伝えることです。
私たちの中には、自分の怒りを伝える時、またも相手を感情的に責めてしまわないかと言う恐れがあります。本当の思いを伝えたら、なんて心の狭い人間なんだと思われはしないかと言うおそれもあります。しかし、そんな私たちを、神様は心を開いて、本当の自分を知ってもらうと言う愛の実践へと背中を押してくださるのです。
その際、お勧めしたいのが「I(私)の法則」です。これは、私の友人から聞いた話なので、一般的にそう言えるのかどうかはわかりませんが、アメリカの飛行機会社のフライトアテンダントは、通路に荷物があると、「そこに荷物を置いてはいけない」と言うことが多いそうです。それに対して、日本の飛行機会社のフライトアテンダントは、「お客様、申し訳ありませんが、その荷物をこちらの棚に上げて頂いてもよろしいでしょうか」と言うことが多いそうです。
皆さんは、どちらのことばに従いやすいでしょうか。してはいけないことをしていたとあからさまに言われるアメリカ型よりも、フライトアテンダントが自分の願いを伝える言葉の方が、従いやすくはないでしょうか。私たちは相手の思い、願いを理解する時、行動を起こしやすい者なのですね。
最初に例に挙げた、人生案内の相談者の父親も、もし電話で「どうして正月に実家に帰らなかったのか」と息子を責めるのではなく、「今度の正月はあえなくてとても寂しかった。来年は、ぜひ帰ってきてほしい」と、その思いを伝えていたら、ここまで家族の関係がこじれることはなかったように思えます。
クリスチャンの詩人星野富広さんは、中学校の体育教師をしていましたが,跳び箱を教えている際の事故で、首から下が全く動かなくなりました。それからと言うもの、星野さんは何かにつけて、「コンチクショー、コンチクショー」と口にし、すべてのことに怒りをぶつけていたそうです。
雨が降ったら「コンチクショー」、天気が良ければよいで、外に出られない自分をみじめに感じて「コンチクショー」。友達がお見舞いに来ると、元気に活躍している友達を妬ましく思って「コンチクショー」、友達が来なくなると「見捨てられたのかと感じて「コンチクショー」。毎日怒りの虜になっていたのです。
そんなある日、いつもの通り「コンチキショ―」を連発していると、いつも世話をしてくれる看護婦さんが、目に涙をためて星野さんに言ったのだそうです。「お願いだから、そのコンチキショ―をやめてください。見ているととても悲しくなります」。
これで、星野さんはハッとしました。自分の口から出る怒りが周りの人を悲しませていると言うことを看護婦さんの真剣な表情から知ったのです。その言葉に込められた愛情が伝わってきたので、星野さんは自分の怒りがどんなに破壊的なものであるかを悟り、生き方を改めることができたのです。それどころか、自分の怒りのもとにある悲しみや悔しさを神様に対する言葉として詩にすることで、多くの人の心に宿る怒りを和らげることに役立っているのです。
もし、看護婦さんが「星野さん、あなたいつもコンチクショーって言っているわね。そんなひどい言葉聞きたくないわ」と言っていたらどうだったでしょう。看護婦さんが星野さんを一言も責めず、愛をもって自分の感じていた悲しさを伝えたからこそ、星野さんの生き方が改まったのではないかと思われます。
もう一つ、お勧めしたいのは、神様との関係の中で出来事の意味を考えることです。私たちの人生に起こる出来事は、それが喜びであれ、苦しみであれ、私たちの魂のために神様が愛をもって与えたものと聖書は教えています。

ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

私たちの心に怒りを起こす、人々の冷たい仕打ち、愛するのが難しい人々の存在。それは、私たちにとって苦しみです。しかし、それは忍耐やへりくだって仕えることを学ぶために、神様が備えてくださった学校なのです。この様に神様の愛という視点で出来事の意味を考え、受けとめる時、私たちは怒りとの戦いに立ち向かってゆくことができるのです。
最後に、私たちができること、できないことを整理したいと思います。怒りの感情を抑えることは私たちにはできません。しかし、怒りをどう表すか、伝えるかは、私たちがコントロールできることです。ただし,それは私たちひとりでは不可能、しかし、神様と一緒なら可能。これが、聖書のメッセージです。
怒りの感情に対して実に弱い私たち。怒りに駆られ人を攻撃し、かと思えばプライドに拘って心から謝ることも、自分の思いをも伝えることの苦手な私たち。そんな私たちのことを良く知り、受け入れ、一言も非難せずに愛してくださる神様。この神様との安心できる関係の中で、また、神様を信じる人々との安心できる関係の中で、怒りと言う隣人と付き合ってゆくことをお勧めしたいと思います。  

2014年10月19日日曜日

詩150篇1節~7節 「一書説教、詩篇 ~主をほめたたえる~」

 六十六巻からなる聖書。その一巻全体を取り上げて一回で説教をする、一書説教。今日は十九回目となりまして、大きな山を登ることになります。旧約聖書、第十九の巻、「詩篇」。全百五十篇からなる聖書中最大の書。聖書の中央に位置する高嶺。おそらくは創世記から黙示録を目指す一書説教の旅の中で最大の難所となります。
 その分厚さはもとより、歌われた詩の内容は千差万別。一つの書に一つのテーマではなく、百五十の詩、それぞれにテーマがある。人の歩むべき道を示す人生訓の歌。希望に満ち溢れた励ましの歌。苦難の中にあって神様を仰ぎ見る信仰の歌。議論を重ね、真理を宣言する歌。怒りと憎しみに心を燃やす呪詛の歌。やがて来る救い主を指し示すメシア預言の歌。あるいは、技巧を凝らしに凝らした歌もあれば、無技巧、無造作にして感動の結晶のような歌もある。一つの詩に注目して味わうのにも、それなりの時間を要するのに、百五十の詩を一度に扱い説教するとは、あまりに無謀と言えます。それでも、皆様とともにここまで一書説教の歩みを進められたこと。そして今日は、皆様とともに詩篇にあたれることは大きな喜びであり、興奮を禁じえないところです。
 大先輩、小畑進先生の言葉。「詩篇の魅力とは、彫心鏤骨の詩心をたどること。『真』の世界、『善』の世界とともに、詩情の『美』の世界を詠むこと」。詩篇を人生のテキスト、信仰の書として読むことは良い。詩篇を通して神様がどのようなお方か、私たちがどのような存在かを知り、今の自分がどのように生きるべきなのか考える。それは良い。しかし、それだけでは詩篇の魅力を十分に味わったとは言えない。詩篇を「詩」として読む。大変な苦労のもとに紡ぎだされた言葉の美しさを味わうことこそ、詩篇の魅力を味わうことへつながるというのです。
 私のように「詩」に疎い者からすると、詩篇を読んで、その魅力を十分に味わうことなど出来るのかと臆する気持ちもあります。とはいえ、今の私が分かるところまでで良いとして読み進めたい。人生の歩みを進め、信仰生活を重ねるにつれ、より詩篇の美しさを味わえるようになるのであれば、楽しみでもあります。
 この一書説教が、少しでも皆様が詩篇を読む助けとなるようにと願います。毎回のことですが、一書説教の際には、扱われた書を読むことをお勧めいたします。一書説教が進むにつれて、教会の皆で聖書を読み進めていくという恵みにあずかりたいと思います。

 「詩篇」は全百五十篇という大詩篇群ですが、五つの巻に分けられています。私たちの手にする聖書にも区分が載っていますが、第一巻が一篇から四十一篇。第二巻が四十二篇から七十二篇。第三巻が七十三篇から八十九篇。第四巻が九十篇から百六篇。第五巻が百七篇から百五十篇。五巻に分けるのですから、百五十を五で割るのかと思いきや、そうではなく数字がばらばら。第三巻、第四巻には、十七の詩しか含まれず、第五巻には四十四の詩が入っています。
 なぜ五つの巻に分けられたのか、正確な理由は不明ですが、モーセ五書にちなんだという説があり、詩篇を第二の五書と呼ぶこともあります。それはそれとして、今日はこの区分に従って、それぞれの特徴を挙げること。また、説教の準備をするにあたり、私が特に印象に残った詩を、各巻から一つ挙げることをもって、詩篇の一書説教といたします。

 まずは第一の巻、一篇から四十一篇です。冒頭にくる一篇と二篇は、第一巻の中でも特別。一篇の冒頭、「幸いなことよ」で始まり、二篇の最後が「幸いなことよ」で閉じられる。「幸い」で括られたこの二つの詩は、詩篇全体の序と考えられています。一篇で教えられる「幸い」は「主のおしえを喜びとし、昼も夜も口ずさむこと」であり、二篇で教えられる「幸い」は、「主に身を避けること」でした。これより続く詩を、喜びとし、いつでも口ずさむこと。それも、主なる神様に信頼を置きながらの信仰生活となるようにと勧められるのです。

 詩篇の序にあたる冒頭の二篇を除きますと、第一巻には顕著な特徴があり、その殆どがダビデの名前を冠しているということです(十篇、三十三篇は例外)。「ダビデによる」というだけのものから、「指揮者のために。弦楽器に合わせて。ダビデの賛歌」と、歌われる際の楽器の指定とともに記されるものもあれば、具体的に詩が作られた背景を教えてくれるタイトルもある。
 元来、詩は普遍性を有するもの。作者が誰であろうとも、そこに歌われた内容に心を合わせて味わうことが出来るものと言えますが、それでも作者のことを知ることで、より味わい深く詩を読むことが出来る。羊飼い、英雄、竪琴奏者、芸術家、詩人、預言者、王など、多数の肩書を持つダビデ。あるいは偉大な信仰者にして、とんでもない罪人と言って良いでしょうか。第一巻を読む際には、ダビデのことを思い出しながら読みたいのです。
 おそくら一巻の中で最も有名なのは「主は私の羊飼い」で始まる二十三篇でしょう。ダビデ自身、羊を守るために獅子や熊と戦った羊飼いでした。命をかけて羊を守る羊飼いであったダビデが、自分と神様との関係に思いを馳せた時に「主は私の羊飼い」と告白した詩。

 今回、説教の準備をしつつ、私が最も印象に残ったのは三篇でした。息子アブシャロムが反乱をおこし、命からがらエルサレムを離れたダビデが作った歌。
 詩篇3篇1節~2節
「主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。多くの者が私のたましいのことを言っています。『彼に神の救いはない。』と。」

 第二サムエル記を覚えていますでしょうか。アブシャロムが反乱を起こした遠因は、ダビデが人妻バテ・シェバを奪ったことにありました。罪の刈り取りが、息子の反乱というかたちで実現していたダビデ。敵対する「彼に神の救いはない」という声も、その通りではないかと思える状況。ここでダビデは次のように歌っています。
 詩篇3篇5節~6節
「私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。」

 寝ることが出来た、起きることが出来た。主が支えて下さるからだ、と。この危険の最中にあって、夜寝て、朝起ることが出来た、これも神様が支えて下さったからだ、という信仰。反乱が治まったわけではない。危険は変わらない。それでも神様が私の命を支えて下さっているから、敵対する者を恐れることはないと言い放つ姿が印象的です。
 
 続けて第二巻。四十二篇から七十二篇です。第二巻にもダビデの作品が多数含まれますが、コラの子たちの歌が八篇、アサフの賛歌、ソロモンの賛歌が一篇ずつ入り、色合いが広がります。コラと言えば、民数記に悪名として記録された人物。祭司職に対するねたみを持ち反逆したため、神罰により死にました。残念ながら、悪名として記憶された家系。しかし、その子孫がダビデの時代になると、門衛や神殿での奉仕に就くようになり、ヘマンにいたっては音楽家として名前を馳せています。不名誉な先祖の記録があっても、その子孫に回復と活躍があるのは嬉しいところです。(第三巻にも四篇あり、コラの子たちの作品は詩篇の中に十二篇入っていることになります。)
 第二巻で特に有名なのは、最初に来る四十二篇でしょう。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」で始まる歌は、終わりまで神様との交わりを求める歌となっていて、第二巻全体の色合いとも重なります。

 今回、一番私の印象に残ったのは四十六篇でした。
 詩篇46篇1節~3節
「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。たとい、地は変わり山々が海のまなかに移ろうとも。たとい、その水が立ち騒ぎ、あわだっても、その水かさが増して山々が揺れ動いても。」

 起こりくる様々な困難を前にして、それでも神様を信頼する時に平安がある、という信仰をどのように表現するのか。地は変わり、山々が海の真中に移る、山々が揺れ動く、王国は揺らぐ、地は溶ける。あるいは弓をへし折る、槍は絶ち切る、戦車は焼かれると、実に激しい表現を用いながら、それでも我らは恐れないと言います。起こりくる困難を、大きく、激しく表現すればするほど、神様とともにいることがいかに安心であるか、浮き彫りにする歌。後半十節には、慌てふためく者に対する神様からの語りかけもあります。
 詩篇46篇10節
「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」

 苦難、困難を前にして慌てふためく時、この歌を歌いたい。慌てふためくのをやめて、遠くにいるのではない、そこにある助けである神様を信頼することを選び取りたいのです。

 続けて第三巻。七十三篇から八十九篇。続く第四巻とともに、僅か十七篇の小さな巻です。一巻、二巻と、ダビデの詩が多く入っていましたが、三巻の中心はアサフの賛歌。ダビデの詩が一篇なのに対して、アサフによる歌が十一篇。半分以上がアサフの歌となります。アサフと言えば、先に名前を挙げたヘマンと同様、音楽で礼拝に仕える者。秀でた音楽家でした。
 三巻の特色は、苦境の中で神様に訴える歌が多いこと。なぜ悪者が栄えるのか。なぜ苦しみが取り去られないのか。神様、いつまで怒られているのですか。との訴えが、繰り返し出て来ます。喜びよりも嘆き。感謝よりも訴え。全体的に重い雰囲気と言って良いでしょうか。
 第三巻で特に有名と思われるのは八十四篇。第三巻に入り、ここまではアサフの賛歌。繰り返される訴えの言葉に、重苦しさが漂う中、この八十四篇はコラの子たちの賛歌となって、突如、明るい、優美な歌となります。「万軍の主。あなたのお住まいはなんと、慕わしいことでしょう。私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」と、神様に対する愛、礼拝を恋い慕う思いが熱烈に歌われます。この明るさ、優美さを維持しつつ、後半には「まことに、あなたの大庭にいる一日は、千日にまさります。」との名句が織り出される。第三巻の中にあるため、余計にこの明るさ、優美さが目立つ名詩篇でした。

 今回、私が一番印象に残ったのは第三巻の最初の歌、七十三篇です。ダビデの時代、名前を知られた名音楽家。アサフの詩が十一篇続く、その最初の歌が、何とも生々しいのです。
 苦悩を訴えたアサフ。その理由は、悪人が栄えているからというもの。
 詩篇73篇3節~4節、12節
「それは、私が誇り高ぶる者をねたみ、悪者の栄えるのを見たからである。彼らの死には、苦痛がなく、彼らのからだは、あぶらぎっているからだ。・・・見よ。悪者とは、このようなものだ。彼らはいつまでも安らかで、富を増している。」

 これに対して、自分は悪から遠ざかろうと努めたのに、それはむなしいことだったと言います。
 詩篇73篇13節
「確かに私は、むなしく心をきよめ、手を洗って、きよくしたのだ。」

 信仰を持ったために、堅苦しい人生となってしまった。心を清め、手を清めたことも、実にむなしいこと。短い人生、好き放題生きれば良かったのではないかとの懊悩の姿が生々しいのです。これが当代きっての賛美奉仕者から出た言葉というのが、印象的です。着飾った言葉、見せかけの言葉ではない。心に湧き出てくる思いを神様にぶつける姿に、これで良いのだと励まされます。なお、アサフはこの歌の中で、この悩みに対する答えを見出しますが、それは実際に読んで頂ければと思います。

 続く第四巻。九十篇から百六篇となります。三巻までは、それぞれの詩に表題がついているものが殆どでしたが、四巻は表題がついているものは僅かです。より一般的、普遍的に詩を味わうことになります。
三巻が神様に激しく訴える歌が多かったのに対して、四巻は明るい調子の歌が多くなります。主は王であるとの告白が何度も出て来て、その王である神様を褒めたたえる歌が多数。王である神様を褒めたたえる詩篇群にあって、モーセは「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦と災いです。」と言い、ダビデは「人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」として、人間の儚さを歌っています。儚い人間、しかし、神様の主権は揺るぐことなく、永遠に続くという明るさです。
詩篇を読み進める私たちの心も、三巻にて沈みがちでしたが、この四巻に来て浮上するのです。(とはいえ、九十四篇などは『復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。』と始まる詩篇で、明るいだけというわけでもありません。)
 第四巻で特に有名なのは百三篇。一回口にして見ますと、名句の連続であることが分かります。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」「天が地上をはるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。」「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」などなど。今年になって、私たちの行う聖餐式において、最後に感謝の言葉を皆で告白しますが、あの言葉も詩篇百三篇からでした。

 今回、私が一番印象に残ったのは、百篇。これもまた有名な詩篇。礼拝の招詞によく選ばれる箇所でもあります。詩篇100篇1節~3節
「全地よ。主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」

 全五節の短い歌ですが、簡潔にして明瞭。喜びが凝縮された歌となっていて、読む者の心も高まります。第四巻に漂う喜び、明るさが、ここに集結した印象。詩篇はどれも黙読ではなく音読するのが良いですが、この百篇などは大声で読み上げたいところです。

 続くのは最後、第五巻。百七篇から百五十篇、最大の巻です。内容は多岐に渡り、様々なテーマが見てとれます。第五巻の中盤に、都上りの歌と題する詩が十五篇。エルサレムにある神殿での礼拝を目指して旅をする時に歌ったと思われる巡礼歌群があります。第五巻の終わりには、ハレルヤで始まりハレルヤで終わる、大賛美のハレルヤ歌群がありました。都上りの歌、巡礼歌群と、大賛美のハレルヤ歌群を二つの柱として、様々な歌が盛り込まれた第五巻。
 有名な歌は一つに絞れないところ。都上りの歌も、ハレルヤ詩篇も有名。神の言葉だけをテーマに、いろは歌となっている超絶技巧の詩、百十九篇。聖書中、最も短い章にあたる豆粒詩篇、字句は少なく、内容は壮大な百十七篇。「その恵みはとこしえまで」とひたすら繰り返す交唱歌の百三十六篇。バビロン捕囚の際、あまりの出来事に心を狂わせ、呪いの言葉を吐き出す百三十七篇。挙げれば切りがないところです。

 第五巻の中で私が印象に残ったのは、第五巻の最後にして、詩篇の最後にあたる百五十篇。詩篇の一書説教の終わりに、この百五十篇を確認したと思います。
 詩篇150篇1節~6節
「ハレルヤ。神の聖所で、神をほめたたえよ。御力の大空で、神をほめたたえよ。その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。タンバリンと踊りをもって、神をほめたたえよ。緒琴と笛とで、神をほめたたえよ。音の高いシンバルで、神をほめたたえよ。鳴り響くシンバルで、神をほめたたえよ。息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。」

 詩篇を読み通しますと、信仰者と言っても、様々な人がいること。様々な状態があることがよく分かります。感動があり、喜びがある時もあれば、苦しみ、悩みに喘ぐこともある。キリストを信じたら、神様を信じたら、全てが順調というわけではない。悩み苦しみながらの信仰生活で良いのだと教えられます。苦しみ、悲しみの時には、その思いを吐露して良い。何故このようなことが起こるのかと疑問に思えば、神様に訴えれば良い。詩篇の中には、敵対する者の不幸を願う歌までありました。
 自分の信仰生活を振り返りますと、浮き沈みの信仰生活。喜びや感動を味わうこともあれば、苦しみ、悩み、疲弊し、挫折することもある。弱き自分の姿を詩篇の中に見出し、安心することもあります。弱くても良い、詩篇とともに信仰生活を送りたいと思いますが、目指すところはどこかと言えば、この百五十篇です。
 様々な思想、教訓、議論、感情が繰り広げられた詩の山。しかし、その最後は、これ以上ない程簡潔に、主をほめたたえるだけの歌となるのです。解説不要の詩。指揮者となった詩人が、次々に賛美の指示を出しながら、最後には「息のあるものはみな、主をほめたたえよ。」として、自分自身も賛美に繰り出す。喜怒哀楽を踏み越えて、最後には絶対的単純さをもって主をほめたたえる。これが詩篇のクライマックスであり、私たちの信仰生活の目指すところでした。
 以上、聖書の中央に位置する高嶺、「詩篇」でした。後はともかく、詩篇を読んで頂ければと思います。今回の説教では、巻ごとに印象の残った章をお伝えしました。皆様でしたら、どの詩が印象の残るのか。是非とも、教えて頂きたいと思います。

 詩を生み出した信仰の大先輩の心を味わい、詩篇が身近になりますように。詩人たちの歌声に、耳を傾け、心を注がれる神様に、私たちも出会うことが出来るように。人生の旅路、信仰の旅路を送るにつれ、ますます詩篇が味わい深いものとなり、あの最後の大賛美を我がものとして歌うこととなりますように祈ります。